前に「文覚(遠藤盛遠)とは?源頼朝に挙兵を促スナド「源平合戦」の仕掛人の一人だった!?」という記事を書きましたが、「文覚」と言えば、「日本のロダン」あるいは「東洋のロダン」とも評される彫刻家荻原守衛作の「文覚」像(下の画像)を思い出す方がおられるかもしれません。
この彫刻は、文覚が自ら彫ったと伝えられる木像「伝文覚上人荒行像」(下の画像は、成就院蔵の「ブロンズ原寸模刻)からインスピレーションを得た作品です。
1.荻原守衛(荻原碌山)とは
荻原碌山(おぎわら ろくざん / おぎはら ろくざん)(1879年~1910年)は、明治期の彫刻家です。本名は荻原守衛(もりえ)で、「碌山」は号です。
(1)少年時代
荻原守衛は、北アルプスの麓に広がる長野県安曇野の農家の5男に生まれました。守衛は幼い頃から病弱で、大好きな読書をしたり、絵を描いて過ごしていました。
1893年(14歳)に東穂高高等小学校を卒業すると家業を手伝い始めました。1894年(15歳)には「東穂高禁酒会」に入会し、相馬愛蔵・井口喜源治らの強い影響を受け、キリスト教を志向します。
1896年(17歳)5月に心臓を病み、「夜学会」に入会します。
この頃、通りがかりの女性に声をかけられました。田舎では珍しい白いパラソルをさし、大きな黒い瞳をした美女の名は相馬黒光(そうまこっこう)。尊敬する郷里の先輩相馬愛蔵(そうまあいぞう)の新妻で、荻原守衛の3歳年上でした。
相馬愛蔵は、後に荻原守衛のパトロンとなる人物で、妻の相馬黒光は彼が生涯思慕した女性で、後に「文覚」や「女」を制作する動機となった人です。
東京の女学校で学んだ黒光は、文学や芸術を愛する才気あふれる女性でした。彼はそんな黒光から、あらゆる芸術についての知識を授けられ、未知なる世界の扉を開いていきます。
1897年(18歳)、相馬黒光の家で、初めて油絵(長尾杢太郎作の『亀戸風景』)を見ます。やがて芸術への情熱に目覚めた彼は洋画家になろうと決意します。
(2)海外留学
本格的な勉強をしようと、1901年 (明治34年) アメリカのニューヨークに渡り絵画を学びます。
アルバイトをしながら、アカデミーで西洋画の基礎を学び、来る日も来る日もデッサンを続けました。人間を描くことに夢中になった彼は、目に見えない骨格や筋肉の動きまで徹底的に研究し、つぶさに肉体を写し取ろうとしました。
しかし、彼はまだ本当に描くべきものを見出せずにいました。
そんな修行の日々の1903年 (明治36年)、 アメリカからフランスのパリを訪れた彼は衝撃的な作品に出会います。
1904年 (明治37年)に、後に「近代彫刻の父」と言われる オーギュスト・ロダンの「考える人」を見て感動し、彫刻を志します。
彼は「人間を描くとはただその姿を写し取ることではなく、魂そのものを描くことなのだ」と気づかされます。
1906年 (明治39年) にはアメリカから再度渡仏。アカデミー・ジュリアンの彫刻部教室に入学し、彫刻家になろうと決意します。そして学内のコンペでグランプリを獲得するほどの実力を身につけていきました。
1907年 (明治40年)ロダンに面会し、「女の胴」「坑夫」などの彫刻を制作しました。そしてイタリア、ギリシャ、エジプトを経て1908年(明治41年)3月に帰国しました。
(3)黒光との再会
帰国した彼は東京新宿にアトリエを構え、彫刻家・荻原碌山として活動を始めます。そんな彼に、「憧れの女性・黒光」との運命の再会が待っていました。
黒光はその頃、夫の相馬愛蔵と上京し、新宿に「中村屋」を開業していました。彼は黒光の傍で作品を作る喜びに心躍らされました。
相馬夫妻はそんな彼を夕食に招くなど、家族ぐるみのつき合いが始まりました。黒光の夫・愛蔵は仕事で家を空けることも多く、留守の時には彼が父親代わりとなって子供たちと遊びました。黒光は彼を頼りにし、彼はいつしか彼女に強い恋心を抱くようになりました。
しかし、それは決して「許されない恋」でした。ある日のこと、彼は黒光から悩みを打ち明けられます。それは夫の愛蔵が浮気をしているという告白でした。
愛する女性の苦しみを知り、彼の気持はもはや抑えようもない炎となって燃え始めました。彼は当時、パリにいた友人の高村光太郎宛ての手紙で「我 心に病を得て甚だ重し」と苦しい胸の内を明かしています。
2.荻原守衛の創作の原動力は彼の黒光への激しい恋情
文展や太平洋画会展に発表した生命感あふれる新鮮な造形は、工部美術学校以来の外形描写を主とする彫刻界に大きな刺激を与えました。そして戸張孤雁(とばりこがん)、中原悌二郎(ていじろう)、中村彝(つね)、堀進二ら多くの新進芸術家に強い影響を及ぼし、荻原守衛を中心に相馬愛蔵(そうまあいぞう)・黒光(こっこう)夫妻による「中村屋グループ」が形成され、戸張と中原は絵から彫刻に転じました。
海外留学から帰国してわずか2年後の1910年(明治43年)4月22日に急死しましたが、死後の第4回文展で絶作『女』(重要文化財)は三等賞を受けました。
充実した量塊に豊かな生命感をもつみずみずしい造形は、高村光太郎とともに、日本の彫刻に初めて本格的な近代の扉を開きました。
彫刻のほか油絵も描いた彼の遺作は、アルプスを望む生地、長野県安曇野(あづみの)市に建てられた「碌山美術館」に収蔵され、公開されています。
(1)文覚
行き場ない思いを叩きつけるかのように荻原守衛はひとつの作品を作り上げます。1908年 (明治41年) 第二回文展で三等に入選した「文覚」です。
人妻に恋した文覚は、思い余ってその夫を殺害しようとしましたが、誤って愛する人妻を殺してしまいました。大きく目を見開き、虚空をにらみつけた文覚。力強くガッシリとした太い腕。そこにはあふれる激情を押さえ込もうとする苦悩が表現されているようです。
彼は、愛する人を殺(あや)め、もだえ苦しむ文覚の姿に、抑えがたい自らの恋の衝動とそれを戒める激しい葛藤を重ね合わせました。
荻原守衛は、相馬黒光の勧めで彼女と一緒に鎌倉・成就院に行き、文覚が自ら彫ったと伝えられる木像(伝文覚上人荒行像)を見ています。彼はこの木像を見て衝撃を受け、「文覚」を制作したのです。
荻原守衛は、『欧州美術界の趨勢』の中で次のように述べています。
先日余輩は鎌倉某寺に於て文覚上人の自作と称せられて居る木像を見た。高さは一尺余りに過ぎずして、裸体にて胡坐(あぐら)をかき、少しく濃く小首を傾げつつ物を熟慮して居る体であって、即ち彼が袈裟を殺して煩悩の執着より解脱(げだつ)せんと懊悩(おうのう)して居る内心の波瀾は、其の風貌に於て最も適切に表現されて居る。余は之を見て深く感じた。余は之を見ても彫刻なるものは、外形の美の如きは抑々(そもそも)末で、唯(ただ)内部の生気を躍動せしむること、実に斯(か)くの如くでなければならぬと思った。
(2)デスペア
一方、黒光は彼の気持ちを知りながらも、不倫を続ける夫への憎しみにもがき苦しんでいました。彼は黒光に「なぜ別れないんだ ? 」と迫りました。しかし、その時黒光は身体に新しい命を宿していました。母として妻として守るべきものがありました。
出口のない葛藤のなかで彼は作品を生み出していきます。体を地面に伏せ、顔をうずめた女性「デスペア」は1909年 (明治42年)の作品です。
苦しみながらも現実を生きていかなければならない、そこには逃れられない黒光の絶望感が込められていました。
ちなみに「デスペア」(despair)は「絶望」という意味です。
(3)母と病める子
1910年 (明治43年) 追い討ちをかけるように不幸な出来事が起こります。黒光の次男の体調が悪くなり、病に伏せる日が多くなりました。次男を抱える黒光を彼は来る日も来る日も描き続け、「母と病める子」を世に出しました。消えかかる幼い命を必死に抱きとめようとする黒光の姿がよく描かれています。
(4)女
しかし、母の願いもむなしく次男はこの世を去りました。悲しみのなか、気丈に振舞う黒光に彼は運命に抗う人間の強さを見出していきます。そして思いの丈をぶつけるように、同年「女」を制作します。
この像は何かに捕われているかのようにしっかりと後ろで両手が結ばれ、跪(ひざまず)きながらも立ち上がろうとし、天に顔を向けています。
仁科惇信州大学名誉教授は、この「女」を「矛盾しているかもしれないが、碌山の希望と絶望が融合した作品である。手を後ろに組んで跪いて立ち上がっているのは一種の絶望感の現れでしょうし、そうは言っても顔は天井に向けられ、この構成全体から、希望といったものが込められている。そういう葛藤を『相克の中の美』が宿っているのではないか。自分の思いを作品に昇華させた」と評しています。
1910年4月20日の夜、彼は相馬家の茶の間で雑談中に突然喀血し、22日の午前2時半ごろに亡くなりました。服毒自殺だったのではないかという説もあります。
彼の死後、友人の戸張孤雁から、彼のアトリエを片付けるように促された黒光は、この像を見て「絶作となった『女』が彫刻台の上に生々しい土のままで、女性の悩みを象徴しておりました。私はこの最後の作品の前に棒立ちになって悩める『女』を凝視しました。高い所に面を向けて繋縛から脱しようと、もがくようなその表情、しかもその肢体は地上より離れ得ず、両の手を後方にまわしたなやましげな姿体は、単なる土の作品ではなく、私自身だと直感されるものがありました。胸はしめつけられて呼吸は止まり・・・自分を支えて立っていることが、出来ませんでした。」と語っています。
3.相馬黒光と相馬愛蔵とは
(1)相馬黒光とは
相馬 黒光(そうま こっこう)(1876年~1955年)は、夫の相馬愛蔵とともに新宿中村屋を創業した実業家・社会事業家です。旧姓は星、本名は良(りょう)です。
サッカー日本代表の相馬勇紀(そうまゆうき)(1997年~ )(下の画像)は玄孫(孫の孫)です。
旧仙台藩士・星喜四郎、巳之治(みのじ)の三女として仙台に生まれました。星家の婿養子だった父は仕事のため別居していました。
8歳のときに一家の柱であった漢学者の祖父が死去、十代前半には姉の発狂、父親の癌発病、弟の病気による右足切断が立て続けて一家を襲い、笑わない子となりました。
少女期から「横浜バンド」(*)出身である押川方義の教会「仙台日本基督教会」へ通い、14歳で洗礼を受けました。
(*)「横浜バンド」とは、日本プロテスタント初代教会における指導的な信徒グループの一つの俗称。明治初期に横浜でヘボンやブラウンら米国人宣教師の感化を受けてキリスト教に入信した青年のグループ。
小学校初等科卒業後、裁縫学校に進みますが、進学を強く希望し、1891年に、学費の安かったミッションスクール宮城女学校(現・宮城学院中学校・高等学校)に入学しました。
しかし、アメリカ式教育の押しつけに反発する生徒たちによる「宮城女学校ストライキ事件」に連座して翌年自主退学し、1892年に横浜のフェリス英和女学校(現・フェリス女学院中学校・高等学校)に転校しました。
しかし、明治女学校の講師で文士の星野天知と知り合ったことをきっかけに文学に傾倒し、ミッションスタイルのフェリスに飽き足らなさを感じて退学し、1895年に、星野をはじめ北村透谷、島崎藤村らが講師を務める憧れの明治女学校に転校し、1897年に同校を卒業しました。
明治女学校在学中に島崎藤村の授業を受け、また従妹の佐々城信子を通じて国木田独歩とも交わり、文学への視野を広げました。
明治女学校の生徒だった頃、青柳という教師から、「英文で『袈裟御前』を論ぜよ」という試験問題を出されたことがありました。
周りの生徒は困惑するばかりでしたが、横浜のフェリス時代に親しんだ星野天知の『袈裟を弔う』という文章などで袈裟御前について知っていたので、彼女だけがこのテーマについてしっかり意見を書くことができました。彼女の答案の日本語訳は次のようなものでした。
袈裟は盛遠の狂的な情熱に、心底いささか動揺したのではあるまいか。母を救わんとした気持ちはよくわかるし、夫・渡への申し訳もあり、かたがた生きた人間の複雑な心理を無視して、杓子定規な道徳一点張りで彼女を律することは当たらない。袈裟としても、単なる貞女としてほめられたのでは浮かばれないであろう。
彼女は袈裟を「一人の女」と見ました。当時流行していた儒教道徳の宣伝のための「貞女の鑑(かがみ)」などというパターンで見なかったところは、後に芥川龍之介が『袈裟と盛遠』で描いた袈裟に対する見方と相通じるものがあります。
「黒光」の号は、明治女学校の巌本善治校長から与えられたペンネームで、良の性格の激しさから「溢れる才気を少し黒で隠しなさい」という意味でつけられたものと言われています。
彼女は当時、周囲の人々から「アンビシャス・ガール」「火の玉」という異名を奉られていたそうです。新しい時代を求めつつ、「新しい女性」を生きた人物だったようです。
卒業後まもない1898年長野県でキリスト信者の養蚕事業家として活躍していた相馬愛蔵と結婚し、愛蔵の郷里安曇野に住みました。黒光は養蚕や農業に従いましたが健康を害し、また村の気風に合わなかったこともあり、療養のため上京し、そのまま東京に住み着くことになりました。
勤め人を嫌った愛蔵の意向で1901年に、本郷にあった小さなパン屋「中村屋」を従業員ごと居抜きで買い取って開業し、1904年にはクリームパンを発明しました。1907年には新宿に移転、1909年には新宿駅近くで開店しました。
夫とともに、中華饅頭、月餅、インド式カリー等新製品の考案、喫茶部の新設など本業に勤しむ一方で、絵画、文学等のサロンをつくり、荻原守衛、中村彝、高村光太郎、戸張弧雁、木下尚江、松井須磨子、会津八一らに交流の場を提供し、「中村屋サロン」と呼ばれました。また、岡田式静座法を信奉し、10年間一日も欠かさず静坐会に出席しました。
黒光は、愛蔵の安曇野の友人である荻原守衛の支援者となり、彼の作品『女』像は黒光をモデルとしたものだと言われています。また、亡命したインド独立運動の志士ラース・ビハーリー・ボースらをかくまい、保護しました。
1918年に長女 俊子(上の写真・左側)がボースと結婚しました。そのほか、ロシアの亡命詩人ワシーリー・エロシェンコを自宅に住まわせ面倒をみ、ロシア語を学んだりしました。夫が死去した翌年の1955年、78歳で死去しました。
(2)相馬愛蔵とは
相馬 愛蔵(そうまあいぞう)(1870年~1954年)は、長野県出身の社会事業家・実業家です。妻の相馬黒光とともに東京「新宿中村屋」を創業しました。
荻原守衛のパトロンとなったほか、妻・黒光が主宰する「文化人サロン」(中村屋サロン)を援助したり、インド独立運動の志士ビハリ・ボースを保護したりしました。
臼井吉見の大河小説『安曇野』に中心的人物として描かれています。
1890年(明治23年)に東京専門学校(現早稲田大学)を卒業し、1901年(明治34)東京・本郷にパン製造小売りの「中村屋」を開業しました。1907年新宿に移転し、「カリーライス」「中華饅頭」「月餅(げっぺい)」などの独創的食品を発売、原料部門へも進出して経営を多角化しました。