私たち「団塊世代」の大学時代は、川端康成のノーベル文学賞受賞のような明るいニュースもありましたが、学生運動が盛んな時期で、「大学紛争」や「70年安保闘争」「三島事件」などがあって騒然とした社会状況でした。
「70年安保闘争」も革マル派や中核派などの過激派学生がゲバ棒を振りかざす「ゲバルト」や「ジグザグ行進」が行われていましたが、10年前の「60年安保闘争」はもっと過激だったようで、全学連による国会突入デモで学生と機動隊が衝突し、東大生の樺美智子(かんばみちこ)さんが亡くなりました。
「60年安保闘争」当時の首相が岸信介でした。彼は「安保条約改定」が完了した時点で首相を辞任し、「所得倍増計画」で有名な池田勇人が次の首相となりました。ちなみに「70年安保闘争」当時の首相は、後にノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作でした。
1.岸信介とは
岸信介(きしのぶすけ)(1896年~1987年)は、山口県出身の官僚・政治家で、戦後首相を務めました。実弟の佐藤栄作(1901年~1975年)や孫の安倍晋三(1954年~2022年)も首相を務めました。
防衛大臣の岸信夫(1959年~ )も孫で、安倍晋三と同じく岸信介の長女・洋子と安倍晋太郎の子ですが、生後半年で母方の伯父・岸信和の養子となりました。
余談ですが、岸信介の長男・信和(1921年~2017年)は、京都帝国大学在学中は全学連の委員長を務めましたが、卒業後の1948年に宇部興産に入社しました。父・信介が総理大臣を務めていた一時期に内閣総理大臣秘書官を務め、信介の総理辞任後は西部石油に入社し、後に会長に就任しました。
岸信介は1896年に、現在の山口市である山口県吉敷郡山口町八軒家の山口県庁官吏・佐藤秀助と茂世の次男(第5子)として誕生しました。
旧制岡山中学に進学した彼は学費や生活費などの面倒を見ていた叔父・佐藤松介が肺炎で亡くなったため、山口県に戻り、旧制山口中学に転校します。中学3年生になると、父の実家である岸家の養子となりました。
旧制一高を経て1920年東京帝国大学法学部を卒業し、農商務省に入省しました。同期入省者には三島由紀夫の父の平岡梓もいました。
大学時代の岸は社会主義に関心を寄せてカール・マルクスの資本論やフリードリヒ・エンゲルスとの往復書簡などを読んだものの、国粋主義的な北一輝と大川周明の思想の方に魅了され、上海で大川に説得されて帰国していた牛込の北を訪ねています。後の満州国への関与などに対する大川の影響を岸は認めています。
1931年商工省で重要産業統制法の立案・実施にあたり、以降「革新官僚」の筆頭格として軍部(統制派)との連携を強めました。
1936年、工務局長を辞し「満州国」実業部次長として渡満、「満州産業開発五カ年計画」を実施し、「弐キ参スケ(にきさんすけ)」(*)の一角を占めました。実際上の責任者として「満州国」の経済軍事化を推進しました。
(*)「弐キ参スケ」とは、満州国に強い影響力を有した軍・財・官の5人の実力者のことです。「弐キ参スケ」は彼らの名前の末尾から付けられました。
- 東條英機(とうじょう ひでキ、在満期間:1935年~1938年、離満前役職:関東軍参謀長)
- 星野直樹(ほしの なおキ、在満期間:1932年~1940年、離満前役職:国務院総務長官)
- 鮎川義介(あいかわ よしスケ、在満期間:1937年~1942年、満州重工業開発株式会社社長、日産コンツェルン創始者)
- 岸信介(きし のぶスケ、在満期間:1936年~1939年、離満前役職:総務庁次長)
- 松岡洋右(まつおか ようスケ、在満期間:1921年~1930年、1935年~1939年、離満前役職:満鉄総裁)
帰国後、1940年商工次官。1941年東條英機内閣の商工大臣となり、太平洋戦争開戦の詔書に連署しました。
1942年翼賛選挙で当選し、政治基盤を獲得。1943年国務大臣兼軍需次官として戦時経済体制の実質的な最高指導者となりました。
1944年7月9日、サイパン島でアメリカ軍と戦っていた日本軍は全滅し、敗色濃厚となります。
この時、重臣間では早期和平を望んだ木戸幸一、岡田啓介予備役海軍大将、米内光政海軍大将らが中心となって東條内閣の倒閣工作が行われていました。
これに対し、東條英機が内閣改造を意向を示すと、木戸幸一は自身の陸軍大臣と参謀総長の兼任を解き、嶋田繁太郎海軍大臣の更迭、重臣の入閣を要求します。
この要求を東條英機は受け入れ、内閣改造を行いました。
この内閣改造において講和を提言していた岸信介は、以前から東條英機と対立していたため軍需次官の辞任を要求されました。これに対し、岸信介は東條英機に閣僚辞任を拒否し内閣総辞職を要求します。
内閣総辞職を要求された東條英機は側近・四方諒二東京憲兵隊長を岸信介の自宅に向かわせ、恐喝させましたが、岸信介は「黙れ、兵隊」と一喝し、四方諒二東京憲兵隊長を追い返しました。その後、内閣改造を断念した東條英機は7月18日に内閣総辞職しました。
敗戦後、「A級戦犯容疑者」として逮捕されましたが、1948年末に不起訴となり釈放されました。
1952年公職追放を解除され、日本再建連盟を結成。1953年3月自由党に入り、翌月の総選挙に当選し(山口2区)政界に復帰しました。党内の憲法調査会長として憲法改正・再軍備を唱道しました。
1954年鳩山一郎(1883年~1959年)らとともに自由党を除名され日本民主党結成に参加、幹事長となりました。余談ですが、元首相の鳩山由紀夫(1947年~ )や法相などを務めた鳩山邦夫(1948年~2016年)は鳩山一郎の孫です。
1955年保守合同後、自由民主党の幹事長。翌年総裁選で石橋湛山(いしばしたんざん)に敗れ、石橋内閣の外相に就任。
1957年2月石橋首相の病気退陣により自民党総裁に選ばれ内閣を組織しました。日米安全保障条約の改定を国民的な反対運動のなかで強行したため、1960年7月総辞職しました。
以後1979年まで衆議院議員。首相経験者として自民党最高顧問を務めました。状況変化に俊敏に対応し、変わり身が早く、情勢判断力・政治力にたけた典型的な官僚政治家で、「昭和の妖怪」との異名があります。
2.「A級戦犯容疑者」としての逮捕と「極東国際軍事裁判(東京裁判)」
(1)逮捕
1945年8月15日に戦争が終結した後、故郷の山口市に帰郷しましたが、軍需次官などを勤めた経歴が祟り、日本を占領下に置いたGHQ(連合国軍)から「A級戦犯容疑者」として9月15日に逮捕され、東京の巣鴨拘置所へ拘置されました。
自殺する政治家や軍人もいた中、岸は「名にかへて このみいくさの 正しさを 来世までも 語り残さむ」と裁判で堂々と主張するつもりで、「われわれは戦争に負けたことに対して日本国民と天皇陛下に責任はあっても、アメリカに対しては責任はない。しかし勝者が敗者を罰するのだし、どんな法律のもとにわれわれを罰するか、負けたからには仕方がない」「侵略戦争という者もいるだろうけれど、我々としては追い詰められて戦わざるを得なかったという考え方をはっきり後世に残しておく必要がある」として裁判に臨みました。
また、「今次戦争の起こらざるを得なかった理由、換言すれば此の戦は飽く迄吾等の生存の戦であって、侵略を目的とする一部の者の恣意から起こったものではなくして、日本としては誠に止むを得なかったものであることを千載迄闡明することが、開戦当初の閣僚の責任である」「終戦後各方面に起こりつつある戦争を起こしたことが怪しからぬ事であるとの考へ方に対して、飽く迄聖戦の意義を明確ならしめねばならぬと信じた」とも述べています。
獄中では「日本をこんなに混乱に追いやった責任者の一人として、やはりもう一度政治家として日本の政治を立て直し、残りの生涯をかけてもどれくらいのことができるかわからないけれど、せめてこれならと見極めがつくようなことをやるのは務めではないか」と戦後の政治復帰を戦争の贖罪として考えるようになったそうです。
極東国際軍事裁判(東京裁判)については「絶対権力を用いたショーだった」と述べています。また中国の内戦については、「支那が中共の天下となれば朝鮮は素より東亜全体の赤化である。米国の極東政策は完全にソ連に屈服することになる」と米ソ対立が深まるのを見極めつつ、反共のためならアメリカとも協力するようになっていったと言われ、「大アジア主義者」である一方、「現実主義者」でもありました。
尋問の主なテーマは、岸が経営に携わった満州国の実情でした。岸は捜査官の問いにこう語っています。
「関東軍が満州の支配権を握っていて、われわれが何かやろうとすると、必ず関東軍の許可がいった。関東軍の意向を無視すれば地位を失うぞ、と私も同僚もしばしば関東軍に脅された」
「私が満州で多くの軍幹部と親しくなったのは事実だが、関係が常に良かったわけではない。石原莞爾・参謀副長のような人から叱責されたこともある」
要は自分を関東軍と同一視してくれるな、関東軍の絶対権力に従わざるを得なかったと言いたいのでしょうが、本当だったのでしょうか?
そもそも商工省工務局長で、官界のホープといわれていた岸が渡満したのは、満州の産業開発を急ぐ関東軍の熱心なオファーがあったからです。
1936年10月、満州に着いた岸は関東軍参謀長の板垣征四郎(東條の前任者)に会うなりこう言ったそうです。
「私は日本で食い詰めて満州に来たわけではない。産業経済については任せてもらいたい。もし関東軍の言いなりになれというなら、自分ではなく誰か代わりの者をよこしてもいい」
超エリート官僚の強烈な自負心の表明でした。これに対し板垣は「いや、産業経済の問題は君に任せるつもりなのだから、そのつもりでやってくれ」と答えました。こうして岸は満州の産業経営の主導権を握ったのです。
岸を尋問した捜査官も岸の供述を真に受けてはいませんでした。捜査官は調書にこう書いています。
「ある商工大臣の経験者が『岸は軍閥の手先だった』と明言していたが、その証言のほうがどう見ても、岸本人が尋問で語っていることよりも真実に近い」
岸の第1回尋問(1946年3月7日)を担当したG・サカナリ中尉らは、東條内閣倒閣の顛末を聴いたうえでなお「岸は被告席を飾るにふさわしい」と報告しています。
つまり東條内閣の閣僚としての開戦責任はそれほど重いということです。真珠湾奇襲への米国民の恨みは深いのです。
また、サカナリ中尉らによる岸の人物評価も甘くありません。中尉らは「岸はおそらく(一貫した原理原則のない)機会主義者で、自分に都合の良いように物事を利用する人物だ」と調書のなかで指摘しています。
と同時に「岸の人脈は広い。財界、官界、軍、宮中にまで及ぶ」「(岸らの満州)人脈は、東條内閣期のものの考え方に直接的な影響を与えた」と分析しています。
この尋問から7日後の14日、国際検察局捜査課の執行官であるバーナード少佐は、モーガン捜査課長(FBI出身)に「岸を東京裁判の被告第一グループに入れるべきだ」という文書を送っています。少佐は、その理由として次の点を挙げました。
「岸は(日独伊三国同盟を結んだ)松岡洋右外相の甥で(国家総動員体制を作った)革新官僚たちのリーダーと目されていた。それに岸は、満州という偽国家の法体系を作り、東条内閣の閣僚もつとめた。しかも、彼は軍人でないのに、青年将校一派と密接な関係を築いていた」
バーナードの報告の翌日、国際検察局のキーナン局長が「状況が許すなら、東條内閣の閣僚全員を被告にしてほしい」と求めました。つまり岸の起訴に直結するメッセージが捜査現場と、上層部の双方から送られたわけです。
3.「A級戦犯容疑者」となったものの、不起訴・放免された理由
しかし結局東京裁判で、岸は不起訴となり、放免されました。
岸については、
①開戦を実質的に決めた1941年11月29日の大本営政府連絡会議の共同謀議には参加していなかったこと
②東條英機首相に即時停戦講和を求めて東條側からの恫喝にも怯(ひる)まず東條内閣を閣内不一致で倒閣させた最大の功労者であること
③アメリカの元駐日大使ジョセフ・グルー(1880年~1965年)らから人間として絶対的な信頼を得ていたこと
などの事情が考慮されたため、東條ら7名のA級戦犯が処刑された翌日の1948年12月24日、不起訴となり放免されました。
「極東国際軍事裁判(東京裁判)」は「勝者による敗者への一方的な裁き」だと私も思っていますが、文官の広田弘毅が絞首刑になったのに対して、岸が不起訴で無罪放免というのは、扱いが天と地ほど極端に違いすぎており、何か裏があるように感じます。
内大臣だった木戸幸一(「明治の元勲」で「逃げの小五郎」の異名もある木戸孝允の孫)は「軍部に一方的に責任をなすり付ける」という「内部取引」のような卑怯な責任逃れをしましたが、岸の場合は「戦後アメリカにとって、岸が対ソ連対策(反共)で非常に利用価値があると考えられた」ためではないかと私は思います。
2007年に米国務省は、日本を反共の砦とするべく岸信介内閣、池田勇人内閣および旧社会党右派を通じ、秘密資金を提供し秘密工作を行い日本政界に対し内政干渉していたことを公式に認めています。
アメリカ中央情報局(CIA)は日本占領期から占領期後にわたって、岸信介、賀屋興宣、正力松太郎、児玉誉士夫などを「CIAの協力者」とし、自由民主党に活動資金を提供していたとされています。
4.欧米列強よる中国分割の歴史を改めて再認識する必要性
上の画像はアンリ・マイヤーの「中国のケーキ」という風刺画です。日清戦争終結から3年後、列強がこぞって中国を分割する様子を描いています。左からヴィクトリア女王(英)、ヴィルヘルム2世(独)、ニコライ2世(露)、フランスの象徴・女性像マリアンヌ、日本の象徴・サムライ。背後で清国人がなすすべもなく手を上げています。
日本が「太平洋戦争」の敗戦国になり、GHQによる日本人洗脳プログラムである「WGIP」によって、戦後教育を受けた日本人は「軍国主義の日本は中国を侵略した悪玉」という「自虐史観」のストーリーを植え付けられたため、学校教育現場だけでなく識者やマスコミの論調もおおむねこの流れに乗っています。
しかし、この「自虐史観」は誤った歴史認識で、日本が一方的に不利で帝国主義国家であるイギリス・フランス・ロシア・ドイツ・アメリカなどの欧米列強に極めて都合の良い見方です。
欧米の帝国主義列強がアフリカや南アメリカ、インドや東南アジアなどを侵略して植民地化し、略奪や収奪を繰り返してきたことを棚に上げて、後から進出した日本だけを貶めるものです。
前に「歴史総合とは?導入の要因と具体的内容は?導入にあたって注意すべき点は?」という記事を書きましたが、今こそ世界史を含めた近現代史を学び直す必要があるのではないでしょうか?
日本人は、欧米列強よる中国分割の歴史を改めて再認識する必要があると私は思います。
日清戦争後、「眠れる獅子」として潜在的な能力を恐れていた西欧列強は、小国日本に中国が敗れたことで、清朝の弱体化を再確認しました。
西欧列強や日本は、鉄道敷設権や鉱山採掘権、租借など、中国の利権獲得により一層積極的になっていきます。
日清戦争後、下関条約で日本に割譲された遼東半島は、1895年にロシア・ドイツ・フランスによる「三国干渉」を受けて清に返還されました。
この「三国干渉」の見返りに、ロシアはちゃっかりシベリア鉄道に接続しウラジオストクにいたる東清鉄道の敷設権を獲得します。
また、ドイツは中国で起こった「宣教師殺害事件」を口実に山東半島南西の膠州湾を占領し、1898年に99年間の期限付きで租借し、青島市を建設、ドイツ東洋艦隊の基地にします。
このドイツの租借地獲得を受けて、再びロシアが中国に迫り、遼東半島の旅順・大連を租借し、南下政策の長年の目的だった不凍港を獲得します。
こうしたドイツやロシアの租借の成功を知ったイギリスやフランスも中国に迫り、1898年に香港の対岸九龍半島と山東半島東端の威海衛をイギリスが、1899年に広州湾をフランスがそれぞれ租借します。
こうして1899年ころには、ロシアが東北地方、ドイツが山東半島、イギリスが長江流域、フランスが広東・広西、日本が台湾の対岸の福建地方を獲得し、勢力図が決まりました。
同時期、アメリカも領土獲得政策に乗り出し、1898年にスペインとの米西戦争に勝利し、フィリピンとグアムを獲得しました。
中国進出に遅れをとったアメリカは、1899年に国務長官ジョン=ヘイにより門戸開放宣言を出し、中国の門戸開放と機会均等、翌年1900年には中国の領土保全を訴えました。
門戸開放宣言は、清朝に配慮したものではなく、アメリカの中国進出のために出されたものでしたが、列強もこれに一応賛同したため、中国分割の勢いはひとまず落ち着きます。
日清戦争の敗北により、中国ではそれまで行われていた「洋務運動」が挫折しました。
列強の中国分割の勢いが激しくなる中、中国の政治家や知識人らは危機感を覚え、日本の明治維新を参考にした近代化の必要性を痛感します。
洋務運動は中体西用のスローガンのもと、伝統的な政治体制を維持したまま行われましたが、列強と渡り合うためには、中国の伝統的な専制君主体制の変革を含む議会政治や立憲君主制の樹立が必要でした。
1890年代から行われた近代化のための一連の運動を、「変法運動(変法自強)」といいます。
変法運動は、公羊学派に属する儒学者で政治家の康有為・梁啓超らが中心となり行われます。
康有為や梁啓超は、中国を変えるためには専制君主制から君民一体の立憲君主制への政治転換を図らなければならないと主張しました。
こうした主張は、若き皇帝清朝11代光緒帝の心を強く動かし、1898年6月、皇帝は反対する多くの保守派を抑え、康有為・梁啓超を重用し、政治改革を行わせます。これを「戊戌(ぼじゅつ)の変法」といいます。
戊戌の変法により、科挙の改革、新官庁の設立、後の北京大学となる京師大学堂の設立など多くの改革案が出されました。
こうした改革が進むにつれ、清朝内の保守派は激しく反対し、長年政治権力者の中心だった西太后のもとに集まります。
西太后と反対派は、同じ年の9月にクーデターを起こして光緒帝を幽閉し、政権を奪いました。
保守派が政権を奪ったあと、改革派の6人の政治家が処刑され、康有為・梁啓超は日本に亡命し、「戊戌の変法」はわずか3ヶ月で失敗してしまいます。
この西太后らが中心となり起こしたクーデターを「戊戌の政変」といい、この結果改革運動は頓挫し、清朝滅亡は加速していきました。