皆さんは鏑木清方という画家をご存知でしょうか?
「樋口一葉像」(下の画像)を描いた画家と言った方がわかりやすいかも知れませんね。
1.鏑木清方とは
鏑木清方(かぶらき きよかた)(1878年~1972年)は、明治期から昭和期にかけての浮世絵師・日本画家・随筆家です。なお、姓は「かぶらぎ」でなく「かぶらき」が正しい読み方です。
「近代日本の美人画家」として上村松園(うえむらしょうえん)、彼の門下より出た伊東深水(いとうしんすい)と並び称せられます。清方の作品は風景画などは稀で、ほとんどが人物画であり、作品の多くは単なる美人画というよりは明治時代の東京の風俗を写した風俗画です。
2.鏑木清方の生涯
清方は1878年、東京・神田佐久間町に生まれました。本名は健一。元は條野(条野)姓でしたが、1895年に母方の家督を継ぎ鏑木姓となりました。
父は条野採菊(じょうのさいぎく)といい、ジャーナリストでありながら山々亭有人と号した幕末の人情本作家でした。13歳となる1891年(明治24年)7月、浮世絵師の系譜を引く水野年方(みずのとしかた)に入門しました。
ちなみに水野年方は、「最後の浮世絵師」「血まみれ芳年」と呼ばれた月岡芳年の高弟です。
翌年には家庭の事情により神田の東京英語学校をやめ、画業に専心しています。1893年(明治26年)に師の年方から「清方」の雅号を贈られました。この頃の清方は鷺流(さぎりゅう)の狂言も学んでおり、同年には日本橋倶楽部で狂言師として初舞台も踏んでいます。
17歳ころから清方の父親・採菊が経営していた「やまと新聞」に挿絵を描き始め、続いて「東北新聞」や「九州日報」などの地方新聞や諸雑誌などに挿絵を描き、十代にしてすでにプロの挿絵画家として活躍していました。
師である年方もまた「やまと新聞」に挿絵を描いており、年方が展覧会出品の作品制作に向かうにつれ、清方も20歳となった1897年(明治30年)の第2回日本絵画協会(絵協)展に初めて「ひなた」を出品しました。
7月には小説雑誌「新著月刊」に口絵を描き、尾崎紅葉と出会うきっかけとなりました。清方は以降も絵協に出典を重ねながら、「新著月刊」や「新小説」の口絵、人民新聞社や読売新聞社へ入社して挿絵を描きました。尾崎紅葉の『金色夜叉』、島崎藤村の『破戒』、泉鏡花の作品の挿絵などで世に知られました。
美人画や風俗画家としての活動も始めますが、1901年(明治34年)に泉鏡花と知り合い、その挿絵を描いたことや幼少時の環境からも終世、江戸情緒及び浮世絵の美とは離れることがありませんでした。
鏡花と出会った1901年には、仲間の画家である鰭崎英朋、池田輝方、池田蕉園、大野静方、河合英忠、山中古洞、山村耕花らと共に烏合会(うごうかい)を結成しました。このころから、「本絵」(「挿絵」に対する独立した絵画作品の意)の制作に本格的に取り組みはじめ、烏合会の展覧会がおもな発表場所となります。
初期の代表作として『一葉女史の墓』(1902年)があります。少年期から樋口一葉を愛読した清方は、一葉の肖像や、一葉作品をモチーフにした作品をいくつか残しています。その後1916年(大正5年)には結城素明、吉川霊華(きっかわれいか)、平福百穂(ひらふくひゃくすい)、松岡映丘らと金鈴社を結成、特に映丘と親交を深めました。
しかしながら清方自身はこうした会派、党派的活動には関心があまりなかったようです。1927年(昭和2年)、第8回帝展に出品した代表作『築地明石町』は帝国美術院賞を受賞しました。
このころから大家としての評価が定まりましたが、清方はその後も「本絵」制作のかたわら挿絵画家としての活動も続けました。鏡花の影響を受けた清方自身も文章をよくし、『こしかたの記』などいくつかの随筆集を残しています。
1929年(昭和4年)には帝国美術院、1937年(昭和12年)には帝国芸術院においてそれぞれ会員に選出され、1944年(昭和19年)7月1日に帝室技芸員となりました。
太平洋戦争での米軍の空襲で東京の自宅が焼け、終戦後、1946年から鎌倉市雪ノ下に自宅を構えて晩年は同地に住みました。関東大震災と太平洋戦争による空襲という2つの災害によって、清方がこよなく愛した明治時代の古き良き東京の風景は消え去ってしまいましたが、清方は自分がこよなく愛した東京の下町風俗や当世風の美人を終生描き続け、戦後も日展を中心として作品の発表を続けました。
1954年(昭和29年)、文化功労者表彰を受け、同年には文化勲章を受章しました。明治、大正、昭和を生き抜いた清方は1972年(昭和47年)、鎌倉市雪ノ下の自宅で老衰により93歳で亡くなりました。晩年を過ごした雪ノ下の自宅跡には鎌倉市鏑木清方記念美術館が建てられています。墓所は台東区の谷中霊園にあります。
挿絵画家出身で、浮世絵の流れも汲む清方の画風は全体の画面構成などには浮世絵風の古風なところもありますが、人物の容貌だけでなく内面の心理まで描き尽くす描写には高い技量と近代性、芸術性が見られます。
重要文化財指定の『三遊亭円朝像』(1930年・昭和5年)は、清方には珍しい壮年男性の肖像ですが、幼き日に父を通じて出会い、画家になるのを勧め、栃木方面に取材に連れ出したこともある恩人を敬愛を込めて描き上げた代表作の一つに数えられています。
清方の門人は数多く明治30年に入門した門井掬水を筆頭に、林緑水、石井滴水、西田青坡、松田青風、伊東深水、山川秀峰、寺島紫明、笠松紫浪、柿内青葉、大久保青園、川瀬巴水、小早川清、鳥居言人、古屋台軒、北川一雄、桜井霞洞、大林千萬樹、増原宗一、山田喜作、天沼青蒲、千島華洋、林杏華、津村青芽、野口青華、岡本更園らがいました。
また、1899年(明治32年)頃、尾上多賀之丞 (3代目) も清方に入門していました。
3.没後50年を記念して、東京と京都で「鏑木清方展」が開催される
東京国立近代美術館の「鏑木清方展」は終了(2022/3/18~5/8)しましたが、京都国立近代美術館の「鏑木清方展」は、2022/5/27~7/10まで開催中です。
4.鏑木清方の作品
・「木版口絵」
・「朝涼」
・「雛市」
・「春の淡雪」
・「一葉女史の墓」
・左から「新富町」「築地明石町」「浜町河岸」
・「三遊亭円朝像」
・「伽羅」
・「春の浦曲」
・「春雨」
・「裾洗い」
・「嫁ぐ人」
・「みそれ」
・「渦巻」
・「秋宵」
・「初東風」
・「由縁の花」
・「妖魚」