「ひめゆり学徒隊」とは?女子学徒達の沖縄戦はなぜ回避できなかったのか?

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ひめゆりの塔

皆さんは「ひめゆり学徒隊」という名前をお聞きになったことがあるでしょうか?

有名な「ひめゆりの塔」(冒頭の写真)という慰霊碑の名称は、この「ひめゆり学徒隊」に因んだものです。

1.「ひめゆり学徒隊」とは

ひめゆり学徒隊

「ひめゆり学徒隊(ひめゆりがくとたい)」とは、1944年12月に沖縄県で日本軍が中心となって行った看護訓練によって作られた女子学徒隊のうち、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の教師・生徒で構成されたものの名称です。通称として「ひめゆり部隊」や「ひめゆり隊」と呼ばれることもあります。

他に白梅学徒隊・なごらん学徒隊・瑞泉学徒隊・積徳学徒隊・悌梧学徒隊・宮古高女学徒隊・八重山高女学徒隊・八重農学徒隊の8つの学徒隊が存在しました。

(1)由来

母体となった沖縄県女子師範学校(女師/1943年4月に師範学校教育令の改正に伴って沖縄師範学校女子部へ改組)と沖縄県立第一高等女学校(一高女)は、設立当時の沖縄県の財政事情から併設校とされ、校長および一部の教師は兼任でした(西岡一義師範学校女子部長は一高校長)。そのため、校名は異なるものの、実質的には一つの学校に近いものであったそうです。

名前の「ひめゆり」とは花の「ひめゆり」ではなく、沖縄県立第一高等女学校(一高女の学校広報誌の名前乙姫と沖縄師範学校女子部の学校広報誌の名前白百合を併せた姫百合という名称が由来です。学徒隊の名称は「ひめゆり学徒隊」です。

元々は安里川にかかる粗末な橋から転落死した一高女生徒を悼み、昭和初期に安全な橋に掛け替えられた橋に「姫百合橋」と名付けたことが起源で、1940年代には女師および一高女の学舎が「ひめゆり学舎」と呼ばれるなど、両校の通称として「姫百合」の名が定着していたようです。

国のため尽くした彼女達は、哀れみと感謝を込めて゛悲劇の少女たち゛と呼ばれています。

(2)経緯

米軍の沖縄上陸を目前に控えた1945年3月23日両校の女子生徒222人と引率教師18名の合計240名からなる学徒隊は、沖縄陸軍病院(通称・南風原陸軍病院)に看護要員として動員されました。沖縄陸軍病院は沖縄守備軍(第32軍)の直轄で、本部、内科、外科、伝染病科に分かれており、40近くの横穴壕の土壁に2段ベッドを備え付けて患者を収容しました。

米軍が上陸して前線の負傷兵が増加するのに伴い、内科は第二外科に、伝染病科は第三外科に変更され、那覇近郊の一日橋、識名、知念半島近くの糸数に分室が置かれました。学徒隊は全員が分散配置されました。

その後激しい戦闘が続き、日本軍の防衛戦が前田高地附近に撤退した4月24日頃には山容が変わるほどの激しい砲撃にさらされるようになったため、5月25日には陸軍病院そのものが回復の見込みのない負傷兵・学徒を置き去りにして南部の伊原・山城周辺に撤退し、分散して地下壕に潜みました。この際患者を収容する壕が確保できなかったために負傷兵は原隊への復帰が命じられ、病院としての機能は失われていたということです。

戦局が絶望的になると、6月18日学徒隊は解散を命じられました(看護婦採用試験合格者を除く)。しかし、既に沖縄のほぼ全域をアメリカ軍が支配しており、また周辺も既に激しい砲撃にさらされていたため、地下壕から出ることはほとんど死を意味しました。

翌日の6月19日をはじめとする約1週間の間に多数の犠牲を出しました(死亡者のうち実に80%がこの間に集中しています)。

最終的には教師・学徒240人のうち136人が死亡。そのうちの10人(教師の平良松四郎と9名の生徒)は荒崎海岸で集団自決しています(自決の強制性については、論争があります)。また隣の洞窟でも米軍の銃乱射で3名が死亡、3名が重傷を負いました。

戦後、最大の犠牲を出した伊原第三外科壕跡に慰霊塔である「ひめゆりの塔」が建立されました。これは、「ひめゆり学徒隊」を祀り、平和を願うものです。

なお、敷地の入口近くに建つ「ひめゆりの塔の記」では、動員数を297名、合祀した戦没者を224名としています。一方、ひめゆり平和祈念資料館が刊行している資料ではひめゆり学徒隊の動員数を240名、うち戦没者を136名としています(それ以外の戦没者が90名・戦没者の合計は226名)。

この相違は、「ひめゆりの塔の記」では学徒隊以外の戦没者数を含んでいることによります。また、以前に戦没者の合計が219名とされていた時期もありましたが、これは2003年7月の調査で判明した7名を含んでいないためです。

なお、「その他の戦没者」には沖縄戦開始以前の死者が含まれていますが、これはいずれも「原因が戦争に関連している」との判断によるものだということです。

なお靖国神社に、彼女たちの御霊が合祀されています。

(3)「ひめゆり学徒隊」をテーマとした作品

<映画>
  • 『ひめゆりの塔』 – 東映・1953年作品。今井正監督。原作は石野径一郎の上記小説。
  • 『太平洋戦争と姫ゆり部隊』 – 大蔵・1962年作品。小森白監督。
  • 『あゝひめゆりの塔』-日活1968年作品。舛田利雄監督。原作は石野径一郎の上記小説。あゝひめゆりの塔・吉永小百合
  • 『ひめゆりの塔』 – 芸苑社/東宝・1982年作品。今井正監督。1953年作品のリメイク。
  • 『ひめゆりの塔』 – 東宝・1995年作品。神山征二郎監督。原作は仲宗根政善『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』。
  • 『ひめゆり』 – プロダクション・エイシア・2007年作品。柴田昌平監督。ひめゆり学徒隊生存者の証言を集めたドキュメンタリー映画。
U-NEXT(ユーネクスト)で動画を無料視聴できる!登録&解約・退会方法><文学>
  • 『鉄の暴風』沖縄タイムス社編集・発行。1950年初版。第4章および第5章がひめゆり学徒隊に関する記述。
  • 『ひめゆりの塔』 – 石野径一郎の小説及びそれを基にした戯曲。雑誌連載は1949年に開始。
<漫画>
  • 『COCOON』 – 今日マチ子
  • 『水筒〜ひめゆり学徒隊戦記〜』 – 作画・新里堅進、ほるぷ平和漫画シリーズ(ほるぷ出版)、新潮社、ゲン・クリエイティブ他
<ドラマ>
  • 『ひめゆり隊と同じ戦火を生きた少女の記録 最後のナイチンゲール』 – 日本テレビ系「ドラマ・コンプレックス」枠内放送・2006年作品。ひめゆり学徒隊と行動を共にした上原婦長をモデルにしたもの。
<舞台>
  • 『ひめゆりの塔』 – 上記、石野径一郎の小説を原作とする舞台。初演は1951年。都立白鷗高等学校演劇部によるもので宮沢千鶴脚本。また同年、作者石野径一郎の脚色で石井みどり舞踊団が演じる。
  • 『ひめゆりの塔』 – 宝塚歌劇団雪組で1953年に公演された舞台。菊田一夫作・演出。主な出演者は明石照子・新珠三千代。
  • ミュージカル『ひめゆり』 – ミュージカル座で1996年から毎年夏に公演されている舞台。
<音楽>
  • 合唱曲『ひめゆりの塔』 – 山本和夫作詞、岩河三郎作曲。
  • 『島唄』- THE BOOMの楽曲。宮沢和史作詞、作曲。
  • 民謡『ひめゆりの唄』(沖縄本島民謡)-小宗三郎作詞、大場吉信編曲

2.「ひめゆりの塔」とは

「ひめゆりの塔」は、沖縄戦末期に沖縄陸軍病院第三外科が置かれた壕の跡に立つ慰霊碑で、現在の沖縄県糸満市にあります。1946年4月7日除幕。

1949年に沖縄県出身の作家石野径一郎(1909年~1990年)によって碑に関する逸話が小説化されると、直後に戯曲化され、さらに同名の映画が作られ有名となりました。沖縄戦の過酷さ、悲惨さを象徴するものとして、現在でも参拝する人が絶えません。

「ひめゆりの塔」から外科壕跡を挟んだ奥には慰霊碑(納骨堂)が建てられており、さらに、その奥には生存者の手記や従軍の様子などを展示した「ひめゆり平和祈念資料館」があります。また、敷地内や隣地には沖縄戦殉職医療人の碑など複数の慰霊碑や塔が建てられています。

上皇(当時は皇太子)ご夫妻が1975年(昭和50年)7月に初めて沖縄県を訪問された際、過激派が火炎瓶を投げつけた「ひめゆりの塔事件」がありました。

皇太子夫妻の沖縄訪問

3.女子学徒達の沖縄戦はなぜ回避できなかったのか?

東京や大阪の大都市でも米軍のB29による空襲で「焼夷弾」が大量に投下されて家屋が焼かれ、たくさんの死傷者が出ました。

また、広島と長崎には「原子爆弾」が投下されて、多数の犠牲者が出ました。

しかし、沖縄の場合は女子学生が看護要員として沖縄戦の戦地に駆り出され、多数の犠牲者を出しました。

このような悲劇的な女学校の女子学徒達の沖縄戦は、なぜ回避できなかったのでしょうか?

この悲劇の背景は、昭和天皇が「国体の護持」(天皇制の維持)にこだわり続けて、戦争の終結を遅らせたことが大きな要因の一つだったと私は思います。1945年2月の近衛文麿の建言(近衛上奏文)(*)を速やかに受け入れていれば、沖縄戦の悲劇も広島・長崎の原爆の悲劇も避けられたのです。

(*)「近衛上奏文」とは、1945年2月14日に近衛文麿元首相(1891年~1945年)が天皇に対して、戦争終結に関する所信を述べたものです。

近衛は、「このたびの戦争の敗戦は必至であるが、米英は『国体の変革』、つまり皇室の廃絶などは行わないだろう」とし、「ソ連を講和の仲介とすることなく、米英との早期かつ直接の講和」をするよう天皇に訴えました。

同時に、「国体護持ノ立場ヨリ最モ憂フベキハ、最悪ナル事態ヨリモ之ニ伴フテ起ルコトアルベキ共産革命ナリ」と警鐘を鳴らし、軍部の一部にいるという共産分子を排斥して軍部を立て直し、和平を模索する必要があるということでした。

なお近衛は、別の文書で「戦後の米ソ冷戦」まで予測しており、国際情勢を明晰に見通していたと言えます。

しかし天皇は、「米国は皇室抹殺論をゆるめておらず、徹底抗戦すべし」との梅津美治郎陸軍参謀総長の言葉に同意であるとし、軍の粛清を求める近衛に難色を示した上で、「もう一度戦果をあげてからでなければなかなか話は難しい」と答えました。

つまり、「早期講和ではなく、南西諸島で一度華々しい戦果をあげ、米英に対し有利な状況で講和を模索するべき」だという「一撃講和論」で、近衛の上奏を退けました。

天皇の言う「一撃」はこの時点では「沖縄戦」以外になく、天皇がこの時点で近衛の進言を受け入れていれば、「沖縄戦の悲劇(1945年3月26日~9月7日)」も「東京大空襲による甚大な被害(1945年3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回)」も「広島・長崎の原爆投下(1945年8月6日・8月9日)」もなかったと言えます。あくまでも「結果論」ですが・・・

ちなみに近衛文麿は、敗戦後「戦犯」に指名されてGHQから出頭命令を受け、服毒自殺しました。

その意味で、昭和天皇の責任は重大ですが、戦後は「現人神」を否定して「人間宣言」をし、退位や謝罪などの責任の取り方をせず、戦争責任についての記者の質問をはぐらかすなど、無責任極まりないものでした。

これについては、「昭和天皇は終戦後、現人神をやめ人間宣言。戦争責任は無答責で退位もせず」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。

<広島の原爆被災についての昭和天皇の発言>

(1975/10/31の日本記者クラブ主催の公式記者会見で、広島の原爆被災について聞かれ)

原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思っていますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っています。(なお、この発言は当然ながら被爆者団体から抗議を受けました。)

記者会見で戦争責任と原爆投下について語る昭和天皇 – ニコニコ動画 (nicovideo.jp)

<自らの戦争責任についての発言>

(1975/10/31の日本記者クラブ主催の公式記者会見で、自らの戦争責任について聞かれ)

そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます

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