前に徒然草の「序段」についての記事を書きましたが、今回は「虚言」について書かれた文章をご紹介します。
これらの文章は、現代の我々が参考にすべきとことも多いと思われます。原文は読み下すのが難しいので、「現代語訳」でご紹介します。
1.第73段「世に語り伝ふる事、まことはあいなきにや、多くは皆虚言なり」
世の中に伝わる情報というものは、「真実」では面白くなくて、嘘を交えたものばかりが横行している。
有る以上に大袈裟に、無いことまでも人は喋るものなのに、時間や距離の隔たった「事実」を言いたいように作り話して、しかもそれを筆に書き留めてしまえば、それが定説となってしまうだろう。
その道の大家について、無教養でその大家のことを知らない人たちは、むやみやたらと大家のことを神様のように言ったりするけれども、その道の専門家たちは全く信じる気も起こさない。評判に聞くのと実際に見るのとでは、何事も違うものだ。
語るそばからすぐに露見するのも顧みず口に任せて言い散らすのは、すぐに根拠のない話とわかってしまう。また自分でも本当らしくないと思いながら、人の言うままに鼻のあたりをひくひくさせてしゃべるのは、その人自身から出た虚言ではない。
いかにも本当っぽく、所々話をぼかして、よく知らないふりをして、そうは言っても辻褄を合わせて語る虚言は、一人「そうではない」と言っても仕方がないので、黙って聞いているうちに証人にさえされてしまい、いよいよ嘘が事実のようになってしまうのだろう。
とにもかくにも、虚言の多い世の中である。だから、何か聞かされたら、いつも語られる珍しくもないことだと思うようにしたら、万事に間違いはないだろう。
そうは言っても、聖人伝・高僧伝などは、そうむやみに疑うべきものではない。こういう話は、世間の虚言を本気で信じたことが馬鹿馬鹿しかったとしても、それと同じだろうと思って、「そんなことはあり得ない」などと言っても仕方がないので、大方は本当のことと受け取っておいて、さりとて一途に信じてはいけない。表向きは疑ったりあざけったりしない方がよい。
2.第194段「達人の、人を見る眼(まなこ)は、少しも誤るところあるべからず」
世間の道理に精通している人が、他人を見る目は少しも間違うことがない。(前段の「疎き人」の対極にあるのが「達人」)
嘘を言って人をだますというような場合に、虚言を大層信用してしまって、屋上屋を重ねるように、虚言に更に説明を加えるほどのことをする人もいる。
虚言に対して何とも感じず、注目しない人もいる。
少々覚束なく思えて、信頼するでもなく、しないでもなく不安に思っているという人もいる。
その虚言を正しいとは思わないが、まあ人が言うことだからそんなこともあるかも知れないぐらいに思って、それ以上詮索しない人もいる。
様々に推測し、納得したような顔をして、いかにも賢げにうなずいたり、笑ったりしているけれど、本当は全く知らないという人もいる。
推論して、「なるほど、こうであろう」と間違いに気付きながらも、自分にも間違いがあるかもしれないと思う人もいる。
間違っていないようだと言って、手をたたいて賛意を表する人もいる。
嘘であると知りながら、確信していることについてすら何も言わずに、知らない人と同じような顔をして黙っている人もいる。
この虚言の本質を知りながら、これを馬鹿にするのでもなく、考え出した人と同じ気分で合力している人もいる。
愚かな人々の間で、嘘を作り出すという悪習ですら、上記のような様々な虚言のとらえ方が、言葉つきからでも、顔つきからでも、賢い人には皆知られてしまうであろう。
ましてや、明晰な人は、惑乱している我々を見透かすことなど、まるで掌の物を見るようなものであろう。
ただし、仏法にいう「嘘も方便」という意味の「うそ」と一緒にしてはいけない。