日本史における大きな謎(闇?)の一つに「明治天皇毒殺・すり替え説」があります。孝明天皇の側近であった岩倉具視とその妹の女官による「毒殺・すり替え説」です。
明治天皇の父である孝明天皇の急死についても、天皇の側近であった岩倉具視とその妹の女官による「毒殺説」があります(伊藤博文による「暗殺説」もあります)。
これらについては、「明治天皇は即位直後に暗殺されて南朝系統の大室寅之祐にすり替わっていた!?」「大室寅之祐は本当に南朝の末裔だったのか?嘘だとすれば今の天皇家の祖先は?」「明治天皇の父・孝明天皇毒殺説の真相とは?」「岩倉具視は賭博開帳のほか、孝明天皇暗殺や明治天皇すり替えにも関与した!?」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。
ところで、「明治天皇すり替え」という衝撃的な告白したのは田中光顕ですが、彼は一体どのような人物だったのでしょうか?
1.田中光顕とは
田中光顕(たなか みつあき)(1843年~1939年)は、土佐藩士出身で宮内大臣も務めた政治家です。栄典は従一位勲一等伯爵。初名は浜田辰弥。通称を顕助、号は青山。
2.田中光顕の生涯
(1)幕末
<若き日の田中光顕 (1868年(慶応4年)京都にて撮影)>
彼は天保14年(1843年)閏9月25日、土佐藩下級武士・浜田金治(土佐藩の家老深尾家の家臣)と、金沢正敏の娘・献の長男として、土佐国高岡郡佐川村(現・高知県高岡郡佐川町)に生まれました。
「下士」の家柄で、実質的には農民と変わらない生活だったそうです。10代後半に高知城下へやって来ました。
藩の屋敷に住み込み、土佐藩士・武市半平太の「尊王攘夷運動」に傾倒してその道場に通い、剣術修行をするとともに「土佐勤王党」に参加しました。文久3年(1863年)京都に出て、志士と交わりました。
叔父の那須信吾は吉田東洋暗殺の実行犯ですが、彼が関与した疑いもあります。しかし文久3年(1863年)、土佐勤王党が「八月十八日の政変」を契機として弾圧されるや謹慎処分となり、翌元治元年(1864年)には同志数人を集めて脱藩しました。
のち高杉晋作の弟子となって長州藩を頼りました。「第一次長州征伐」後に大坂城占領を企図しましたが、新選組に摘発された「ぜんざい屋事件」を起こして大和十津川へ逃れました。
「薩長同盟」の成立に貢献して、薩摩藩の黒田清隆が長州を訪ねた際に同行しました。
「第二次長州征伐」の時は長州藩の軍艦丙寅丸(へいいんまる)に乗船して幕府軍と戦いました。
後に帰藩し中岡慎太郎の「陸援隊」に幹部として参加しました。
慶応3年(1867年)、中岡が坂本龍馬と共に暗殺(近江屋事件)されると、その現場に駆けつけて重傷の中岡から経緯を聞きました。
中岡の死後は副隊長として同隊を率い、「鳥羽・伏見の戦い」では高野山を占領して紀州藩を威嚇(高野山挙兵)、戊辰戦争で活躍しました。
(2)明治時代
維新後は新政府に出仕。「岩倉使節団」では理事官として参加し欧州を巡察しました。
「西南戦争」では征討軍会計部長となり、1879年(明治12年)に陸軍省会計局長、のち陸軍少将。また元老院議官や初代内閣書記官長、警視総監、学習院院長などの要職を歴任しました。
1887年(明治20年)に子爵を授けられて華族に列しました。
1898年(明治31年)には宮内大臣となって、約11年間にわたり、同じ土佐出身の佐々木高行、土方久元などと共に、天皇親政派の宮廷政治家として絶大な勢力を持ちました。
皇室の「影の支配者」とも言うべき、大きな権力を握ったのでした。
1907年(明治40年)9月23日、伯爵に陞爵。1909年(明治42年)、収賄疑惑の非難を浴びて辞職、政界を引退しました。
政界引退後は、高杉晋作の漢詩集『東行遺稿』の出版、零落していた武市半平太の遺族の庇護など、日本各地で維新烈士の顕彰に尽力しています。
また志士たちの遺墨、遺品などを熱心に収集し、それらは彼が建設に携わった茨城県大洗町の常陽明治記念館(現在は幕末と明治の博物館)、旧多摩聖蹟記念館、高知県佐川の青山文庫にそれぞれ寄贈されました。
その他、1901年(明治34年)に日本漆工會の2代目会頭に就任、久能山東照宮の修理をはじめ漆器の改良などの文化事業を積極的に行いました。
晩年は静岡県富士市富士川「古渓荘」(現野間農園)、同県静岡市清水区蒲原に「宝珠荘」(後に青山荘と改称)、神奈川県小田原市に南欧風の別荘(現在の小田原文学館)等を建てて隠棲しました。
口述筆記による回顧談『維新風雲回顧録』(大日本雄弁会講談社、1928年)を出版。他に『維新夜話』、『憂国遺言』が遺されています。
維新風雲回顧録 最後の志士が語る【電子書籍】[ 田中光顕 ]
昭和天皇に男子がなかなか出生しないことから、側室をもうけるべきだと主張。その選定を勝手に進めるなどして、天皇側近と対立しました。
また、昭和維新運動に理解を示し、昭和11年(1936年)の「二・二六事件」の際には、事件を起こした青年将校らの助命願いに浅野長勲と動きましたが、叶いませんでした。
1939年(昭和14年)3月28日、静岡県蒲原町(現静岡市清水区蒲原)の別荘の青山荘にて95歳で没しました。
3.今の天皇家の祖先や正統性について
田中光顕 は「明治天皇は暗殺されて、大室寅之祐がすり替わっていた」ことを知っていましたので、その子である大正天皇も、孫の昭和天皇も「正統な皇位継承者ではない」「成り上がり者にすぎない」ことを知っていたことになります。
したがって、「現在の上皇や天皇も正当な皇位継承者ではない成り上がり者」という結論になります。これは荒唐無稽な話ではありません。「皇位継承者が少なくなっている」という話もありますが、日本国民としては「天皇制廃止」も含めて今こそ真剣に考えるべき問題だと思います。
これについては、・今こそ「天皇家の存続」より「天皇制廃止」の検討をすべき時期」・「天皇制廃止」を「国民投票」で問うべき時。絶滅危惧種を保護する必要はない。・「旧宮家の皇族復帰」は時代に逆行!男性の皇位継承候補者増加は本当に必要か?・小室圭・眞子夫妻をいつまで公費(税金)で特別扱いするのか?・眞子さんと小室圭さんの結婚会見は一方的自己主張の茶番。皇室への親愛感急低下・昭和天皇は終戦後、現人神をやめ人間宣言。戦争責任は無答責で退位もせずという記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。
余談ですが、イギリスでも、エリザベス2世の死去に伴って国王に即位したチャールズ3世や時代錯誤的な身分制である王制を批判し、民主的な共和制を求める世論もあると聞きます。
本当の明治天皇(「睦仁(むつひと)親王)の幼馴染みで、睦仁親王がどんな人物であったをよく知る公家の西園寺公望(さいおんじきんもち)(1849年~1940年)(上の画像)や、西園寺公望の実兄で内大臣や明治天皇の侍従長も務めた徳大寺実則(とくだいじさねつね)(1840年~1919年)(下の画像)は、当然ながら「大室寅之祐が明治天皇にすり替わったこと」を知っていました。
西園寺公望は孝明天皇が設置した学習院で学び、11歳の時からは御所に出仕し、睦仁親王の近習となりました。また近習の同僚であった岩倉具視(1825年~1883年)ともこの時期に親しくなっています。
「薩摩藩と長州藩の下級武士たちによる徳川幕府に対する軍事クーデター・革命」が実態である「明治維新」の張本人の伊藤博文ら明治の元勲たちも当然ながら「大室寅之祐が明治天皇にすり替わったこと」を知っていました。
西園寺公望は、伊藤博文に拾われて政治家となり、内閣総理大臣まで務めましたので、大室寅之祐が明治天皇にすり替わった秘密を知っていても、「明治天皇の竹馬の友」を装って沈黙を貫きました。
そういう意味で、今の天皇家は終戦後続々と現れた熊沢寛道らの「自称天皇」と何ら変わりありません。
違いと言えば、明治天皇(大室寅之祐)は「明治維新」というクーデターの首謀者たちが作った明治政府によって仕立て上げられた「傀儡天皇」であったということです。