第二次世界大戦末期の1944年にソ連のスパイとして日本で逮捕され死刑となったリヒャルト・ゾルゲの名前や「ゾルゲ事件」のことは、久しく話題にも上りませんでしたので、若い世代は知らない人も多いと思います。
しかし最近になって、ウクライナを侵略しているロシアのプーチン大統領が、「ゾルゲに憧れてソ連のスパイになった」と発言するなど何かと話題になっています。
戦前の東京でスパイ網を構築し、最高機密情報をモスクワに送った旧ソ連の大物スパイ、リヒャルト・ゾルゲが、ロシアで今、脚光を浴びています。「ゾルゲ通り」や「地下鉄ゾルゲ駅」が登場、各地に銅像が作られるなど、新たな名誉回復を思わせます。
ロシア極東ウラジオストク市では、リヒャルト・ゾルゲの記念像を建設する計画があるとの報道もありました。これは旧ソ連のスパイを英雄視するものです。
また来年(2023年)2月に公開される映画『スパイを愛した女たち リヒャルト・ゾルゲ』の完成披露試写会が、ゾルゲの命日である11月7日にロシア大使館で行われ、11月下旬に離任する駐日ロシア大使ミハイル・ガルージン氏が「ナチスと戦い、勝利に貢献をしたゾルゲの優れた活動を物語る本作が、いま制作され上映されるのは偶然ではなく、日露の相互理解になると思う」とゾルゲを「命を懸けて戦った偉大な愛国者」として称賛しました。
ゾルゲは「20世紀最大のスパイ」とも呼ばれます。
これらは今回のウクライナ侵略を「ナチスとの戦い」と位置付けるプーチン大統領が、ロシア国民の愛国心を鼓舞し、「愛国教育」に利用するための「プロパガンダ」の可能性が高いと私は思います。
情報機関出身者が中核を占めるプーチン政権が、反体制活動家のアレクセイ・ナワリヌイ氏を支持する若者の反乱を抑えるために、大物スパイの名誉回復と英雄化を急いでいるようにも見えます。
そこで今回はリヒャルト・ゾルゲとはどんな人物だったのか、「ゾルゲ事件」とはどんな事件だったのか、『スパイを愛した女たち リヒャルト・ゾルゲ』とはどんな映画なのかについて、わかりやすくご紹介したいと思います。
なおスパイについては、前に「日本はスパイ天国!?スパイ防止法と諜報機関設置は必須!ファイブ・アイズ加入も」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。
また、プロパガンダを駆使したナチスドイツについては、「ナチスの宣伝相でプロパガンダの天才と呼ばれたゲッベルスはどんな人物だったのか?」「狂気の独裁者アドルフ・ヒトラーとはどんな人物だったのか?プーチンも似ている!?」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。
1.リヒャルト・ゾルゲとは
リヒャルト・ゾルゲ(ドイツ語: Richard Sorge, ロシア語: Рихард Зорге)(1895年~1944年)は、ソビエト連邦のスパイです。1933年(昭和8年)から1941年(昭和16年)にかけて「ゾルゲ諜報団」を組織して日本で諜報活動をおこない、ドイツと日本の対ソ参戦の可能性などの調査に従事していましたが、「ゾルゲ事件」の首謀者として日本の警察機関によって逮捕され、刑事裁判で治安維持法および国防保安法違反により死刑判決を受け、処刑されました。
2.リヒャルト・ゾルゲの生涯
(1)生い立ち
石油会社に勤めコーカサスで仕事をしていたドイツ人鉱山技師のヴィルヘルムとロシア人ニーナとの間に9人兄弟の1人として、ロシア帝国バクー県のサブンチで生まれました。ヴィルヘルムは石油精製の知見を買われて招かれ、採掘機械工場を設立してこの地でニーナと結婚しました。
父方の大叔父フリードリヒ・アドルフ・ゾルゲ(Friedrich Adolf Sorge)はカール・マルクスの秘書であり、ハーグ大会後の第一インターナショナル・ニューヨーク本部の書記長でした。
3歳の時に父は工場を売却して、ゾルゲを含めた家族とともにベルリンに移住しました。ベルリンのリリエンタールギムナジウム(当時の名称はオーバーレアルシューレ)に1902年から1914年まで在籍し、途中1年の留年を経験しています。
自身の「獄中手記」では、歴史や哲学、文学、政治学は得意でしたが、他の教科は「通常以下」で、学校の規則を守らずめったに口をきかない生徒だったと記しています。
(2)スパイになるまで
1914年10月に第一次世界大戦が勃発すると、学校の卒業を待たずにゾルゲはドイツ陸軍に志願しました。軍役中にゾルゲは3度負傷します。1916年3月に西部戦線で両足に重傷を負います。この負傷は重く、野戦病院に入院(その後除隊)することとなりました。
入院中にキール大学で社会学を専攻する従軍看護婦から社会主義理論を聞かされます。向学心が芽生えたゾルゲに対し、この看護婦とその父親は、社会主義、革命、美術史、歴史などゾルゲが関心を示した分野に文献の提供を惜しみませんでした。
1917年11月にロシア革命が起こり、ゾルゲは衝撃を受けます。第一次世界大戦の終戦前からベルリン大学で哲学書を読み、1918年1月に正式に軍を除隊になるとキール大学に入学しました。キール大学時代にドイツ独立社会民主党に入党します。
1919年にハンブルク大学に移り、同年10月にドイツ共産党に入党します。1920年に国家学の博士号を取得しました。論文のテーマは賃金問題だったそうです。
その後、アーヘンの高等学校で教員となりますが、1921年末には政治論争をおこなったことから解職されます。炭鉱作業員に転じて、職場に共産主義組織を立ち上げます。しかしアーヘンでの就職が困難となり、フランクフルト・アム・マインに移ってフランクフルト大学社会学部助手となりました。
1922年にイルメナウで開かれた第1回マルクス主義研究集会に参加し、記念の集合写真では留学中だった経済学者(科学技術史家・思想史家・文化史家でもある)の福本和夫(1894年~1983年)と一緒に写っています。
1924年4月にフランクフルト・アム・マインで開催されたドイツ共産党大会に参加した際、ソ連から派遣されたコミンテルン幹部であるオシップ・ピアトニツキー、ドミトリー・マヌイリスキー、ソロモン・ロゾフスキー、オットー・クーシネンの警護と接待を担当しました。
彼らは親しくなったゾルゲにコミンテルンでの勤務を勧誘しました。ゾルゲは同年末にモスクワに移り、1925年からコミンテルンに所属しました。コミンテルン勤務とともに、ピアトニツキーによりゾルゲの党籍はソビエト連邦共産党に変更されました。
コミンテルンでは各国の党から送られてくる情報などを基にした報告・分析活動が中心でした。ヨーロッパの現地視察をおこなったほか、作成した報告を書籍として刊行もしています。
1929年5月、ゾルゲはコミンテルンを離れ、軍事諜報部門である労農赤軍参謀本部第4局に所属を変更しました。この所属変更の理由として、ゾルゲ自身は日本の検察の訊問調書において、コミンテルンでは諜報活動ができないこと、世界革命の見通しが裏切られたこと、ソ連における一国社会主義路線への転換を挙げています。
ヨシフ・スターリンの政権掌握後、コミンテルンはセクト主義に傾斜し、それに反対する人員は組織を追われましたが、ゾルゲもその一人だったという指摘があります。
(3)上海でスパイ活動開始
赤軍に移ったゾルゲは、上司のヤン・ベルジンとの話し合いにより、中華民国の上海に赴くことになります。その使命は、蔣介石政権に派遣されていたドイツの軍事顧問団の情報収集のほか、中華民国の内政外交や中華民国に対する日本・イギリス・アメリカ合衆国の外交政策など調査対象は多岐にわたっていました。
1929年末にモスクワを発ち、1930年より1932年まで上海で諜報活動をしながら自分に協力するグループ(ゾルゲ諜報団)を築きました。
なおこの頃「ラムゼイ」というコードネームを与えられています。
半年程度で現地の指導的立場となり、中華民国全土に情報網を持つに至りました。活動は漢口、南京、広東、北京、そして1932年に満州国として独立することとなる満州地方などを中心にして行われています。
ゾルゲ自身も各地を巡り、中華民国および日本の政治、歴史、文化に関する書物を読み、両国の言葉も学習し、アジア問題に通じるようになりました。上海におけるゾルゲ諜報団の日本人は、尾崎秀実(おざきほつみ)、鬼頭銀一、川合貞吉、水野成、山上正義、船越寿雄でした。
上海では、仕事を通じて当時中国共産党の毛沢東に同行取材するなど活躍していたアメリカ人左翼ジャーナリストのアグネス・スメドレーと知り合います。
スメドレーはゾルゲが中華民国を去るまで彼のスパイ組織の一人として活動しました。朝日新聞記者だった尾崎秀実とは、アメリカ共産党から派遣された鬼頭銀一から紹介を受けて知り合いました。水野成をゾルゲに紹介したのも、尾崎ではなく鬼頭です。
ゾルゲは、ドイツの軍事顧問団長のハンス・フォン・ゼークトや蔣介石から軍事情報を入手し、蒋介石軍の飛行機を爆破し、武器を略取するなど、中国共産党を支援しました。また、オットー・ブラウンやゲアハルト・アイスラーら、コミンテルンから中国共産党に派遣されたドイツ人顧問とも接点を持ちました。のちに核兵器情報をソ連にもたらしたことで知られるウルスラ・クチンスキーはゾルゲの助手かつ愛人でした。
ゾルゲは1932年1月には日中両軍が衝突した第一次上海事変を報道しました。同年12月にモスクワに戻っています。
上海共同租界の工部局イギリス警察は1932年1月頃から、ゾルゲをソ連のスパイではないかと疑い始め、その後捜査を進めた結果、1933年5月にゾルゲをソ連のスパイとほぼ断定しました。
(4)日本でのスパイ活動
1933年、ゾルゲに日本でのスパイ活動指示が出されました。その主な内容は日本の対ソ政策や軍備の動向、日独関係(ナチスが政権を握ったのはこの年1月でした)や日本の対中国政策などの調査でした。
ゾルゲはまずドイツに赴いてからアメリカ経由で日本に向かいました。ドイツでゾルゲは地政学者のカール・ハウスホーファーらから駐日ドイツ大使館員への紹介状を得ます。職業をジャーナリストとしたドイツのパスポートも入手しました。
来日前に『フランクフルター・ツァイトゥング』の特派員となったという記述もありますが、1941年の逮捕後に当時の日本支局代表者がドイツ外務省に出した書簡では、ゾルゲと正式な特派員契約を交わしたことはなく、ゾルゲを寄稿者として利用するようになったのも1936年2月ゾルゲからベルリンの本社に宛てた売り込みの手紙を受け取ってからであるとしています。
1933年9月6日にゾルゲはバンクーバー発のカナダ客船で横浜港に到着し、日本での活動を開始します。
ゾルゲはジャーナリストとして駐日ドイツ大使館で信頼を得ていきました。来日間もない1933年秋に東京からナチスに入党申請し、1934年10月に正式なナチス党員となりました。
日本におけるドイツ人社会で、日本通かつナチス党員として知られるようになっていたゾルゲは、駐日ドイツ大使館付陸軍武官補のオイゲン・オットの信頼を得ました。彼は来日前に『テークリッヘ・ルントシャウ』紙論説委員であるツェラーの紹介状を入手していました。政治的逃避のため日本に派遣されることになった当時のオット中佐は日本に関する知識がほとんどなく、そのため日本の政治などに関して豊富な知識とコネクションを持ったゾルゲとの出会いを喜びました。
一方、ゾルゲよりも先に来日していたユーゴスラビア人のブランコ・ド・ヴーケリッチ(当初はユーゴスラビアの新聞『ポリティカ』特派員、1935年にフランスのアヴァス通信社東京支局に移籍)、ゾルゲより少し遅れて帰国したアメリカ共産党員の洋画家宮城与徳と接触を持って諜報団のメンバーとしました。
ソ連との交信のための無線通信士としてブルーノ・ヴェントという人物があてがわれましたが、ゾルゲはその能力や性格に問題があると判断し、上海でもともに活動したドイツ人無線技士のマックス・クラウゼンの派遣を要請、クラウゼンは1935年12月に来日しました。
しかし、ゾルゲは日本の政府や軍の最高レベルでの決定事項を探ることのできる人材を欠いていました(ヴーケリッチや宮城は諜報活動に未熟で人脈もありませんでした)。
そこでゾルゲは、当時大阪朝日新聞に勤務していた尾崎秀実をその任に充てることとし、1934年春に奈良の猿沢池で尾崎と再会、尾崎はゾルゲの依頼を受け入れました。尾崎は1934年秋に朝日新聞社の東亜問題調査会勤務となり、東京に転勤します。
これで明らかなように、尾崎秀実はまさに「売国奴」と言えます。
こうしてゾルゲは少しずつ諜報網と情報源を築いていきましたが、来日から1935年までは「積極的な活動をするための土台を作るのに精いっぱい」であり、「任務を遂行するどころの話ではなかった」と後の手記に記しています。
クラウゼン・尾崎以外のメンバーの役割は、ヴーケリッチは同盟通信社や外国通信各社 での検閲前のニュース収集と、集めた資料の写真撮影(マイクロフィルムに焼いた)、宮城は日本人協力者からの情報収集、資料の英訳、および尾崎とゾルゲの連絡でした。
集まった資料の分析と報告はゾルゲ一人が担い、短いものはクラウゼンが自作した無線機による無線通信、長文の報告書はマイクロフィルムにして駐日ソ連大使館のクーリエに託されました。無線通信の場合は、文章を数字に置換の上、1935年版『ドイツ統計年鑑』を乱数表としてさらに加工した暗号が使用されました。
日本の官憲は、怪しい無線電波が送信されていることを把握していましたが、クラウゼンが複数の拠点を転々としながら送信したために発信元を特定できず、また暗号も解読できませんでした。
ゾルゲは1935年7月から9月まで、モスクワに戻りました。これがゾルゲにとって最後の帰国となりました。その後、ゾルゲがソ連への帰任を希望した電報が複数残されています(1939年1月20日付、同6月4日付)。
しかし代わりの人員がいないという理由でゾルゲの希望は認められませんでした。その一方、ソ連本国では上司だったベルジンらが粛清され、「帰れば粛清される」ことをゾルゲは察してもいました。
同時期に日本で諜報活動を行っていたアイノ・クーシネンの回想では、1937年11月にゾルゲから彼女にソ連への帰国命令を伝えられた際に、ゾルゲは自分にも命令が出ているが組織維持のため今は帰れないと伝えるよう頼んだということです。
1936年の二・二六事件の際にはドイツ大使館内にいたことが、大使館と戒厳司令部の連絡将校として館内に出入りしていた馬奈木敬信によって戦後証言されています。
ゾルゲはこの事件を日本の対外政策と内部構成を理解する好機ととらえました。オットや大使のヘルベルト・フォン・ディルクセンにも協力を求めて情報収集に努め、事件を分析した報告書をドイツ外務省や所属先である赤軍第四本部、ドイツの雑誌に送っています(ドイツ外務省と雑誌では匿名)。
これを契機に大使館側のゾルゲに対する信頼は向上しました。なおドイツの雑誌に掲載された論文は、カール・ラデックがゾルゲの筆とは知らずに評価してソ連の新聞に転載しました。ゾルゲはこれに抗議し、以後はこうした事態は避けられました。
馬奈木は陸軍の「ドイツ通」とされ、やはりドイツへの駐在経験のある山県有光・西郷従吾・武藤章らとともに、ゾルゲから手記で「陸軍省の情報源」として名を挙げられています。
松崎昭一は、日中戦争の状況打開を狙ってドイツとの関係強化を図る陸軍側が、ドイツ大使館を通じて(ギブアンドテイクの形で)情報をゾルゲに与えていたのではないかと指摘しています。
1936年11月にオットの補佐官として駐在武官のショル中佐が着任、第一次世界大戦で同じ戦闘に参加したこともあり、ゾルゲはショルとも親交を深めました。日中戦争(支那事変)が1937年に勃発すると、駐日ドイツ大使館ではオット(1938年4月に大使就任)がショル、ゾルゲとの3人で「支那事変に関する日本軍」という調査研究を始め、これにより収集された資料をゾルゲは撮影してソ連本国に送りました。
一見順調な諜報活動でしたが、ショルは1939年の始めに離任し、前記の研究会も不活発になりました。ゾルゲは同年6月に送った報告で、「活動を続ける上での障害の増大」を訴え、その理由として駐日ドイツ大使館の増員によって新たな関係を作ることが困難になったこと、古くから残っている人物がオットのみとなった上にオットが大使に就任したことで個人的に面談・討議できる機会が激減したことを挙げています。
ゾルゲは後の手記において、日本の軍事情報に関しては1939年 – 1940年頃を境に駐日ドイツ大使館よりも尾崎や宮城が収集してくる情報の方が価値が高くなったと記しています。
尾崎は1938年7月には第1次近衛文麿内閣嘱託となる(1939年1月まで)とともに、近衛文麿のブレーンによる朝飯会のメンバーにも加えられていました。
日独の接近は、それが対ソ軍事同盟につながるのではないかという点で、ソ連の重大な関心事となりました。1939年前半にゾルゲはこの動きに関する情報を複数本国に送り、イギリスとの関係悪化を避けたい日本が同盟締結に消極的で、ドイツも対英戦を対ソ戦より優先していると分析しました。
この後ソ連は同年8月に独ソ不可侵条約を締結、9月にドイツのポーランド侵攻によって第二次世界大戦が勃発します。
ヨーロッパで戦争(第二次世界大戦)が始まるとオットはゾルゲを大使館情報官に任命し、ゾルゲはドイツ大使館の公的な立場を手に入れました。ゾルゲはドイツ大使館と彼の諜報網の両方から日本の戦争継続能力、軍事計画などを入手できる立場となり、1940年9月27日の日独伊三国軍事同盟後にはより多くの情報が得られるようになりました。
一方、長い活動の間にゾルゲに対して行動や前歴を不審と感じる向きが出ていました。ヴァルター・シェレンベルク(当時国家保安本部海外情報部長)の回想『秘密機関長の手記』によると、シェレンベルクはドイツ通信社の総裁からゾルゲの調査を依頼されました。その理由は、総裁がナチス党方面からゾルゲの「不可解な」政治的前歴の情報を伝えられたことでした。
シェレンベルクは、ゾルゲを共産主義者とは裏付けられませんでしたが不審な印象を拭えず、保安警察長官のラインハルト・ハイドリヒの意向で、駐日大使館付警察武官として1941年5月に赴任することになった国家保安本部のヨーゼフ・マイジンガーにゾルゲを監視する任務を与えました。しかしゾルゲはマイジンガーと酒席も通じて交友を結び、隙を見せませんでした。
(5)独ソ戦に関する諜報活動
1940年12月29日にゾルゲが送った報告では、ドイツが東部国境に80個師団を配備しているというドイツ軍人からの情報を伝え、ドイツ軍がハリコフ・モスクワ・レニングラードの線に沿って領土占領が可能だと記しました。しかし、この情報はソ連本国では疑問視されました。
5月に入るとゾルゲはドイツの対ソ開戦の兆候があるという連絡を複数送り、さらにタイ王国への赴任の途中東京に立ち寄ったショル中佐から、「6月15日にドイツが対ソ開戦する」と伝えられ、6月1日付で送信しました。
しかし、この通信に対してもソ連では「疑わしい、挑発のための電報のリストに入れるよう」という書き込みがなされ、6月20日付で送った「オットが対ソ開戦不可避と述べた」という通信に対しても重要情報として扱われた形跡はありません。ソ連侵攻作戦が開始されると、ソ連赤軍は緒戦で大敗しました。
他のスパイの情報やイギリスからの通報も独ソ開戦を補強していたにもかかわらず、スターリンはこれらを無視しました。その理由については、諜報機関の情報自体への不信、イギリスによる独ソ離間策という疑念、独露混血であるゾルゲに対する二重スパイ疑惑、赤軍への悪感情等が挙げられています。
また、ソ連本国でゾルゲの通信の翻訳を担当したシロトキンには「日本のスパイ」という疑惑がかけられており、ゾルゲが所属した労農赤軍参謀本部第4局のコルガノフ少将は「シロトキンとゾルゲはスパイ」とする報告書を同年8月11日付で記していました。
独ソ開戦後、ソ連からゾルゲには、改めて日本政府の対ソ政策やソ連国境への軍隊の移動について情報を探る指示が出されました。日本の対ソ開戦を恐れたためでした。外務大臣の松岡洋右が日ソ中立条約を破棄しても対ソ開戦すべきと主張したことはゾルゲにも伝わりましたが、ゾルゲは日本の関心は南方だとしてこれを疑問視しました。日本政府や軍部の多くは、ソ連への侵攻には消極的ではあったものの、まだ流動的でした。
諜報団は諜報活動以外の宣伝や謀略を禁じられていましたが、ゾルゲはドイツ大使館で日本の対ソ開戦は期待できないという意見を説いて回り、尾崎は「朝飯会」でソ連は崩壊せず日本がソ連に開戦するのは無意味だと主張しました。もっともこれらの効果については両人とも限定的なものだったと後の訊問調書で述べています。
7月2日の御前会議決定(情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱)では、南進を主眼としつつ、独ソ戦の形勢が日本に有利になれば参戦できるよう準備をするという「両構え」の方針となります。
ゾルゲはオットと尾崎の両方からこの決定を入手します。尾崎は、日本軍の矛先が南北いずれに向かうのかを政権中枢に近い筋から探りました(西園寺公一や田中慎次郎が主な情報源でした)。ゾルゲは、対ソ戦準備を重視するオットの見解ではなく、南進が主眼だとする尾崎の分析を採用して、7月10日に本国に送りました。
さらに、8月以降、日本の対ソ開戦の可能性が低下したことがオットや尾崎の情報によって確認され、ゾルゲは9月14日に送った報告で「オット大使の意見によると、日本の対ソビエト攻撃は今ではもはや問題外であり、日本が攻撃可能なのは、ソビエトが極東から軍隊を大規模に移動させた場合にだけだろう」と記しました。
このゾルゲの情報に加え、内務人民委員部(NKVD)のセルゲイ・トルストイらによる日本の外交暗号電報(パープル暗号)の傍受解読情報、さらに日本政府内の協力者「エコノミスト」(コードネーム)の情報によって日本の対ソ開戦が低いことを確認したソ連は、ソ満国境に配備された部隊の一部を抽出してヨーロッパ方面へ移動させ、モスクワ前面の攻防戦でドイツ軍を押し返すことに成功しました。
1941年10月4日付の最後の諜報報告に対し、ソ連本国からは「皆さんの実りある仕事に感謝する。あなたとあなたのグループの東京での協力は円満に終ったものと考える」との返信がなされました。
(6)逮捕と処刑
特別高等警察(特高)はアメリカ共産党員である宮城やその周辺に内偵をかけていました。宮城や、同じアメリカ共産党員で1939年に帰国した北林トモなどがその対象でした。満州の憲兵隊からソ連が押収してロシア国内で保管されていた内務省警保局の『特高捜査員褒賞上申書』には、ゾルゲ事件の捜査開始は「1940年6月27日」であったと記されています。
前出のマイジンガーは、密かに内偵していた憲兵隊に「信頼できる人物である」と身分保証してゾルゲに対する尾行を中止するように依頼しています。マイジンガーからゾルゲの調査依頼を受けた警視庁特高部外事課も1941年夏にゾルゲを内偵しましたが、怪しい点を見つけることはできませんでした。
これらにかかわらず、特高は外国の新聞の特派員に対する通常の任務の一環として、その後もゾルゲに対する尾行や調査を続け、これがゾルゲ事件の摘発につながることとなりました。
1941年9月27日の北林を皮切りに事件関係者が順次拘束・逮捕されました。北林の供述から10月10日に宮城が、10月中旬に尾崎が逮捕されました。(ゾルゲ事件)。
ゾルゲは宮城や尾崎と連絡が取れなくなったことに不安を抱き、10月17日の夜、自宅にクラウゼンとヴーケリッチが集まった際にもそれを口にしました。ヴーケリッチの訊問調書によるとこの夜ゾルゲとクラウゼンはドイツに帰国する意思を示し、ゾルゲは本国にその可否を本国の本部に尋ねる電文の原稿も作成していました。しかし、翌10月18日朝にゾルゲは自宅で特高外事課と検察によって逮捕されました。ヴーケリッチとクラウゼンも同日逮捕されています。
これに対し、ゾルゲをナチス党員の記者だと信じ込んでいたオット大使やマイジンガーなどが外務省に対して正式に抗議を行ったほか、ナチス党東京支部、在日ドイツ人特派員一同もゾルゲの逮捕容疑が不当なものであると抗議する声明文を出しました。
さらにマイジンガーは、ゾルゲの逮捕後にベルリンの国家保安本部に対して「日本当局によるゾルゲに対する嫌疑は、全く信用するに値しない」と報告しています。
逮捕されたゾルゲは当初特高外事課の警部補だった大橋秀雄によって取り調べを受けました。ゾルゲは当初は容疑を否認し、ナチス党員・大使館嘱託で新聞記者であると主張して、検挙が日独関係を害すると訴えました。
しかし、大橋が逮捕後の家宅捜索で押収したソ連への離日申請原稿や、クラウゼンの自供で発見された通信機の存在をゾルゲに告げると、ゾルゲは自らが「単なる新聞記者ではない」ことを自供しました。翌日(逮捕から一週間後の10月25日)、ゾルゲは大橋や検事の吉河光貞に対して自分がスパイであるとついに白状し「今までどこにも負けなかったけれど、今度はじめて日本の警察に負けた」と付け加えました。
オット大使の命を受けて外務省と折衝した大使館員のエーリヒ・コルトは、「ゾルゲはソ連のスパイ」と知らされ、オットとコルトは巣鴨拘置所の所長室でゾルゲに面会します。その際ゾルゲはオットに「私はあなたにさよならを言います。奥さんやお嬢さんによろしく」とだけ述べ、沈黙したオットを残してゾルゲは退出しました。
ゾルゲは警察や検察の取り調べに対して自らの所属を明確にせず、訊問調書には「モスコウ中央部」(文献によっては「モスコーセンター」)と記されています。これについて取り調べを担当した大橋秀雄は「『国際共産党のために働いた』と言わせる目的で、ゾルゲと相談して作った架空の組織である」と戦後に証言しています。
日本側には治安維持法で検挙するという事情がありました。ところがゾルゲは公判段階に入ると労農赤軍に所属していたことを認め、「モスコウ中央部」としたのは自らの策略と述べ、その理由として憲兵への引き渡しの回避、ソ連における複雑な組織が理解されづらいと考えたことなどを挙げています。
ゾルゲら20名は1942年に国防保安法、治安維持法違反などにより起訴され、一審によって刑が確定し、ゾルゲの死刑判決が下されました。同じく死刑が決まった尾崎とともに巣鴨拘置所に拘留され、1944年11月7日のロシア革命記念日に巣鴨拘置所で死刑が執行されました。
ゾルゲの死刑執行に立ち会った市島成一東京拘置所所長 は、「ゾルゲは死刑執行の前に、『世界の共産党万歳』と一言、そういって刑に服した。従容としておりました」と証言しています。
処刑後のゾルゲの遺体は、引き取り手がない無縁仏として、巣鴨拘置所に近い雑司が谷霊園の共同墓地に埋葬されました。戦後、ゾルゲの処刑と埋葬を知ったゾルゲの愛人石井花子(1911年~2000年)の奔走により1949年11月16日にゾルゲの遺体(白骨化していた)は発掘されて火葬され、約1年後の1950年11月8日に石井の手により東京都郊外の多磨霊園に埋葬されました。
当初は墓碑がなく、「尾崎・ゾルゲ事件犠牲者救援会」と石井花子の手により墓碑が建立されたのは、1956年11月です。
3.「ゾルゲ事件」と主な日本人関係者の尾崎秀実と西園寺公一
(1)ゾルゲ事件とは
「ゾルゲ事件」とは、コミンテルン本部の指令で 来日したリヒャルト・ゾルゲを頂点とするソ連のスパイ組織が日本国内で諜報活動および謀略活動を行っていたとして、1941年9月から1942年4月にかけてその構成員が逮捕された事件のことです。
この組織の中には、近衛内閣のブレーンとして日中戦争を推進した元朝日新聞記者の尾崎秀実(下の写真・左)(死刑)や、この事件で有罪となり廃嫡となった西園寺公一(禁錮1年6月、執行猶予2年の有罪判決)(下の写真・右)らもいました。
(2)尾崎秀実とは
尾崎秀実(おざきほつみ)(1901年~1944年)は、評論家・ジャーナリスト・共産主義者・ソ連のスパイ・扇動者です。朝日新聞社記者、内閣嘱託、満鉄調査部嘱託職員を務めました。
近衛文麿政権のブレーンとして、政界・言論界に重要な地位を占め、軍部とも独自の関係を持ち、日中戦争(支那事変)から太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直前まで政治の最上層部・中枢と接触し国政に影響を与えました。
共産主義者であり、革命家としてリヒャルト・ゾルゲが主導するソビエト連邦の諜報組織「ゾルゲ諜報団」に参加し、最終的に「ゾルゲ事件」(「ゾルゲ゠尾崎事件」とも呼ばれる)で1941年(昭和16年)に検挙され、首謀者の1人として裁判を経て死刑に処されました。
共産主義者としての活動は同僚はもちろん妻にさえ隠し、自称「もっとも忠実にして実践的な共産主義者」として、逮捕されるまで正体が知られることはありませんでした。
筆名として白川次郎、草野源吉を用いました。
なお、文芸評論家で「ゾルゲ事件」の研究や大衆文学評論に尽くした尾崎秀樹(おざきほつき)(1928年~1999年)は異母弟です。
(3)西園寺公一とは
西園寺公一(さいおんじきんかず)(1906年~1993年)は、華族出身ですがオックスフォード大学に留学してマルクス主義の洗礼を受けました。近衛文麿のコネにより外務省嘱託職員、太平洋問題調査会理事となりましたが、有資格者ではなかったために重要な案件に関係できなかったことを不服に思い辞職し、1936年(昭和11年)にはグラフ雑誌『グラフィック』の社長に就任しています。
同年7月、アメリカ合衆国カリフォルニアのヨセミテで太平洋問題調査会の第6回大会が開かれることとなり、オックスフォード時代の顔見知りで内閣書記官を務めていた牛場友彦のコネにより日本代表団の書記として渡米しました。このとき、牛場から引き合わされて公一と同じ船室に入ったのが牛場の第一高等学校時代の同級生で、ゾルゲ事件で同じく逮捕され有罪となった尾崎秀実でした。
なおこの頃、中国の秘密結社についても研究しており、また中華民国における共産主義運動に関心を持っていました。1937年(昭和12年)に第1次近衛内閣が成立すると、近衛のブレーン「朝飯会」の一員として、尾崎らとともに軍部の台頭に反対し、対英米和平外交を軸に政治活動を展開しました。
1941年(昭和16年)7月には、近衛内閣嘱託になりました。近衛首相より、「日米交渉について陸海軍の意見調整を図る」という任務が与えられましたが、その裏ではソ連のスパイのリヒャルト・ゾルゲの手下である尾崎に協力し、様々な情報をソ連に流していました。
この意味で、西園寺公一も、尾崎秀実と同様にとんでもない「売国奴」と言えます。
4.映画『スパイを愛した女たち リヒャルト・ゾルゲ』とは
<あらすじ>
ナチスドイツの大手新聞社の記者として東京で諜報活動するソビエト連邦のスパイ、リヒャルト・ゾルゲ(アレクサンドル・ドモガロフ)。駐日ドイツ大使を通して、ヒトラーによるソ連侵攻を知ったゾルゲは、スターリン率いるソ連側に情報を伝えるも信用されなかったが、尾崎秀実らとともに諜報活動を続け、その後もソ連に情報を送りつづける。
しかし、頻繁に発信される無線通信により、大崎少佐(山本修夢)率いる特別高等警察に諜報団の存在を感知されてしまう。やがて、41 年にナチスドイツがソ連に攻め込み、ソ連はゾルゲへの評価を改めたものの、ゾルゲ率いる諜報団には危機が迫っていた。
緊張が高まる国際情勢の中で、精神の安定を保つため酒と女にのめり込むゾルゲは、ビアホールで働く日本人女性・花子(中丸シオン)と同棲しながら、元恋人の駐日ドイツ大使の妻にも惹かれていくー。
近年、ロシアで再評価されるようになった 20 世紀最大のスパイ、リヒャルト・ゾルゲ。彼の日本での巧みな諜報活動から逮捕・処刑に至るまでの半生と、知られざる多彩な女性関係を描いたドラマがここに誕生した。
本作は、ウクライナ・オデーサ出身のセルゲイ・ギンズブルグによって、2年以上もの撮影期間と7億円もの巨費を投じて製作され、高視聴率を獲得。
主人公ゾルゲを演じるのは、『ソローキンの見た桜』(2019年)でボイスマン大佐役を演じたアレクサンドル・ドモガロフ。
共演に、山本修夢、木下順介、瀬戸元などの日本人が出演。
ゾルゲの恋人・花子役には、22年7月に惜しくも 38歳の若さでこの世を去った中丸シオンが熱演。
中丸の実父・中丸新将も警察上官役で出演している。
■リヒャルト・ゾルゲ(1895-1944)
アゼルバイジャンバクー生まれ。
1933年にドイツ大手新聞社の特派員として来日し、東京で諜報活動を行なっていたソビエト連邦(現・ロシア)のスパイ。
1941年10月、特別高等警察によって逮捕される。
1944年11月7日に絞首刑。
東京・多磨霊園に花子と一緒に眠る墓がある。1964年、ソ連邦英雄の称号を授与される。
製作・総監督:セルゲイ・ギンズブルグ 監督:ロマン・サフィン 脚本:ドミトリー・ノボショロフ
出演:アレクサンドル・ドモガロフ 『ソローキンの見た桜』、中丸シオン、山本修夢、アンドレイ・ルデンスキー、ヴィクトリア・ゾルゲ・イサコヴァ、中丸新将
STAR MEDIA/2019 年/ロシア・ウクライナ・中国合作/ロシア語・ドイツ語・日本語・英語/原題:Zorge 字幕:大石千恵子
協力:セレモニー 提供・配給:平成プロジェクト © 平成プロジェクト 2023年