私の家に初めてテレビが来たのは、1959年(昭和34年)の夏休みで、小学4年生の時でした。それまで、テレビと言えば、「街頭テレビ」でプロレス中継を見に行ったり、早々とテレビを買った親戚の家に行って「月光仮面」などを見せてもらったりしていました。
私が家のテレビで見た番組で、最初に好きになったのは「ララミー牧場」という西部劇です。あの有名な映画評論家の淀川長治さん(1909年~1998年)が解説者でした。最初に「ハイ皆さんこんばんは、またお会いしましたね」で始まり、「怖いですねえ、恐ろしいですねえ」という独特の口調があって、最後に「それではまた次回をお楽しみに、サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」で締めくくるのが強く印象に残っています。
もと植木等の付き人でコメディアンの小松政夫さん(1942年~2020年)が、淀川長治さんの物まねをして、流行語にもなりましたね。
「ララミー牧場」の魅力は、他の「西部劇」と違って、派手な銃撃戦はそれほどありませんが、ロバート・フラーが演じた主人公の「ジェス・ハーパー」の人懐っこい優しさと強さを合わせ持つ姿です。彼は一匹狼の流れ者ガンマンですが、さすらい旅の末にたどり着いたワイオミング州ララミーの牧場で、牧場を守りながら様々な困難に立ち向かう物語でした。
そのほかにも、アメリカから輸入されたテレビ映画では、「ローハイド」「ローンレンジャー」「ブロンコ」「モーガン警部」「ハイウェイ・パトロール」「サーフサイド6」などもよく見ていました。特に「サーフサイド6」で、映像とともに出演者を紹介する生の英語のナレーションの発音が、とても格好よく感じました。
あの頃は、まだ日本で時代劇も盛んに放映されていたと思いますが、なぜこれほどアメリカのテレビ映画が輸入されたのでしょうか?それは、「映画界」が「新興テレビ」に脅威を感じて、映画俳優をテレビに出演させない協定を結んだことと、そもそも日本のテレビ局に「ドラマ制作能力」がまだなかったことです。
音楽においても「ジャズ」や「アメリカンポップス」がいち早く取り入れられました。やがて、日本語の歌詞が付けられ日本の歌手が歌って大流行するなどアメリカ文化が洪水のように流れ込んだ時代でした。
私も原曲でプラターズの「オンリーユー」、ポール・アンカの「ダイアナ」、ドリス・デイの「ケセラセラ」、ニール・セダカの「恋の片道切符」、ポール・アンカの「君はわが運命(ユーアーマイデスティニー)」、ハリー・ベラフォンテの「バナナボート」などをラジオでよく聞いたものです。その後、「ヴァケーション」(弘田三枝子)や「ロコ・モーション」(伊東ゆかり)などが日本語の歌詞で大流行する時代が来ました。