丹波篠山発祥の「デカンショ節」は広く知られていますが、その意味や由来について詳しく知っている方は少ないのではないでしょうか?
そこで今回は、「デカンショ節」についてわかりやすくご紹介したいと思います。
1.「デカンショ節」とは
デカンショ節(デカンショぶし)は、兵庫県丹波篠山市を中心に盆踊り歌として歌われる民謡であり、学生歌としても広く歌われました。「篠山節」、「篠山デカンショ節」ということもあります。篠山市無形文化財。
2015年(平成27年)4月24日、文化庁により日本遺産の最初の18件の一つとして「丹波篠山 デカンショ節―民謡に乗せて歌い継ぐふるさとの記憶」が選ばれました。
2.「デカンショ節」の歴史
江戸時代から篠山市域で歌われていた「三つ節(みつぶし)」が変形したものであると伝えられています。大正時代には、「デッコンショ節」などとも呼ばれていたようですが、次第に「デカンショ節」という名称が定着しました。
「デカンショ節」が学生歌として全国に普及したきっかけとして、以下のような伝承があります。
旧篠山藩主の青山家は、明治維新後は学問を奨励し、篠山に鳳鳴義塾等の私立の中学校を作り、その中の優秀な者を東京に寄宿舎を作り遊学させました。
篠山からの遊学生は、例年、夏には千葉県の八幡の浜で過ごしていました。明治31年(1898年)の夏、宿泊先の江戸屋の二階で元藩主青山忠誠の養子青山忠允をはじめとする篠山出身の若者達が郷土の盆踊り歌を蛮声を張り上げ「デコンショ、デコンショ」と歌っていました。
それをたまたま階下に宿泊していた旧制一高の水泳部員の塩谷温(しおのや おん)(1878年~1962年)達がこの歌を聞きとめ、たちまち気に入り、有名な哲学者のデカルト、カント、ショーペンハウエルの名前をもじって「デカンショ節」と名付けて歌ったそうです。
そこで、一高水泳部員達は、篠山出身の若者たちに付添っていた亘理章三郎(後の東京高等師範学校教授)などから歌の指導をうけ、意気投合しました。それを、東京に戻ってからも歌いました。旧制高校の寮歌のようなノリだったのでしょう。
これによって多くの学生や若者の共鳴を受けて愛唱されるようになり、全国に広まったのです。また、「デカンショ節」の歌詞の多くを亘理章三郎が作成したという伝承もあります。
「一弦の琴」(宮尾登美子著)や「一高ロマンス」(大佛次郎著)には、学生たちの間で愛唱される様子が描かれています。こうして、明治中頃から大正にかけて、「デカンショ節」は、書生節としての雰囲気を歌詞に加えながら全国を駆け巡り、かたやこの頃から始まる新聞社等による新作歌詞の募集では、篠山城、八上城などの文化遺産や黒豆や栗などの産物を題材に、ふるさとへの思いを歌詞に刻みこんだものが多く登場し、さらに郷土色豊かな民謡へと厚みを増していきました。
篠山市域での盆踊り歌は、みつ節が衰退し、播州音頭などが中心になっていました。そこへ学生歌として高唱されていた「デカンショ節」が逆輸入されます。
戦後は、観光資源として「デカンショ祭」をはじめとして積極的に利用されるようになります。これによって、現代では「デカンショ節」は丹波篠山市を代表する民謡となっています。
大正時代の普選運動で作られた「デモクラシー節」なる替え唄も存在し、近年、チンドン楽団のソウル・フラワー・モノノケ・サミットがアルバム『アジール・チンドン』で取り上げています。
3.「デカンショ節」の歌詞と「デカンショ」の名前の由来
(1)「デカンショ節」の歌詞
「デカンショ節」は学生歌として広く歌われていたこともあって、さまざまな歌詞が創作され伝わっています。また、「デカンショ節」の節回し(七・七・七・五、都々逸に同じ)にさえ合うならば、どのような歌詞の創作も可能です。
現在、篠山市域で広く歌われている歌詞は、以下のように丹波の風物をよみこんだものです。
デカンショデカンショで半年暮らす アヨイヨイ
あとの半年ねて暮らす ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ
丹波篠山山家の猿が アヨイヨイ
花のお江戸で芝居する ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ
酒は飲め飲め茶釜でわかせ アヨイヨイ
お神酒あがらぬ神はなし ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ
灘のお酒はどなたが造る アヨイヨイ
おらが自慢の丹波杜氏 ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ
雪がちらちら丹波の宿に アヨイヨイ
猪がとびこむ牡丹鍋 ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ
丹波篠山鳳鳴の塾で アヨイヨイ
文武きたえし美少年 ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ
(2)「デカンショ」の名前の由来
①「デカンショ節」は学生歌という経歴を持つことから、かけ声の「デカンショ」は、「デカルト」「カント」「ショーペンハウエル」の略であるという説。
兵庫県篠山市ホームページのデカンショ節考によると、「篠山町七十五年史」で上記の「デカルト」「カント」「ショーペンハウエル」の略であるという説が正しいであろうと述べていますが、「篠山町百年史」では、様々な説があるが、デカンショという言葉は掛け声にすぎないとしてこの説を推しているわけではありません。
デカルト・カント・ショーペンハウエル説は附会(こじつけ)とする説もあります。
②「出稼ぎしよう」の意味であるという説。
③「デコンショ」という盆踊り歌からきたという説。
④「ドッコイショ」の転訛という説。
⑤「出稼ぎしょ」「デゴザンショ」の意味をもつという説。
⑥旧味間村の農婦の哀歌(糸紡ぎ歌)「てこんしょてこんしょで半年ァ暮らす、あとの半年ァ泣いて暮らす」が、前述の水泳部員たちによって広まったという説。
⑦この歌詞を灘の酒造りに半年出稼ぎする杜氏を指すとする説。
⑧徹夜で酒を飲み明かすという意味の「徹今宵(でっこんしょう)」とする説
4.「デカンショ節」を広めた塩谷温とは
当時旧制一高の水泳部員で、「デカンショ節」を広めたとされる塩谷温(しおのや おん)(1878年~1962年)は、日本の漢学者で東京帝国大学名誉教授です。70代で30代の元芸妓を妻にし、「老いらくの恋」と騒がれました。
塩谷温は、東京市下谷区で漢学者塩谷青山の子として生まれました。号は節山。学習院、第一高等学校を経て、1902年東京帝国大学漢学科を卒業、優等賞を下賜されました。
一高時代は水泳部に属し、その当時、「デコンショ、デコンショ」と歌う丹波篠山の盆踊り歌をもとに、塩谷がデカルト、カント、ショーペンハウエルをもじって「デカンショ節」と名付けたとされます。
1905年学習院教授、1906年東京帝国大学助教授。同年からドイツのライプツィヒ大学、清国の北京および長沙に留学し、中国文学研究を行っています。1912年に帰国し、1920年元曲に関する研究を提出して文学博士号を授与され、同年東京帝国大学教授となりました。
1929年に御講書始を務め、1931年には皇子浴湯の儀で読書役控を務めました。1939年、東京帝国大学を定年退官、名誉教授。同年、正三位に叙されています。
元の「全相平話」や明の白話小説集『古今小説』(「三言」の一書)を再発見するなど、中国近世の小説・戯曲の研究・紹介に多大な業績を残しました。また『新字鑑』は標準的な漢語辞典として長く愛用されました。
1948年に長年連れ添った妻・せつを亡くし、翌年、36歳下の元芸者・菊乃と17年ぶりに再会し、1950年から小田原で同棲を始めて周囲を驚かせましたが、翌年菊乃が入水死し新聞沙汰となり、塩谷は週刊朝日に手記「宿命」を発表しました。
死後、勲一等瑞宝章を授与されました。