南方熊楠(1867年~1941年)と言えば、日本が生んだ偉大な博物学者・生物学者・民俗学者として有名ですね。
しかし彼は常軌を逸した数多くの奇行・エピソードに事欠かないユニークな人物でした。
彼は知的好奇心のあり方から、他人に拘束されれない自由自在な生きざま、さらには学歴や権威に囚われた日本の学界への反発など、ほとんど全ての点で、明治以後の日本で支配的だった方向に背くような生き方を選択しました。
そこで今回は、南方熊楠の「外伝(がいでん)」「アナザーストーリー(和製英語、another story)」とも言うべき面白い奇行・エピソードをご紹介したいと思います。
なお、南方熊楠の生涯については「南方熊楠は博覧強記の博物学者で語学の天才!」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧下さい。
1.南方熊楠の奇行
・異常な癇癪持ち
異常な癇癪持ちであり、一度怒り出すと手がつけられないほど凶暴になると、両親など周囲の人々は熊楠の子供時代から頭を抱えていたそうです。
熊楠も自分のそういった気性を自覚しており、自分が生物学などの学問に打ち込むことは、それに熱中してそうした気性を落ち着かせるためにやるものだと、交流のあった民俗学者の柳田國男宛の書簡で書いています。
・多汗症
多汗症から、薄着あるいは裸で過ごすことが多かったそうです。田辺の山中で採集を行った際、褌(ふんどし)だけの裸で山を駆け下り、農村の娘たちを驚かせたために「てんぎゃん」(紀州方言で天狗のこと)と呼ばれたという話も残っています。
なお、裸になるのは6月頃から9月半ばまででした。裸は裸でも普通の人とは違い、盛夏には邪魔になるものは全部取り除け、一糸まとわぬ(生まれたままの)姿になったそうです。
・風呂から上がっても裸で過ごす
風呂から上がっても濡れた体を拭くこともせず浴衣も着ずに裸でいたので、妻が風呂から台所までゴザを敷き詰めていました。寒い日でも変わらずに同じ行動をしていました。
・渡米前の決意の都々逸
渡米の前に「僕もこれから勉強をつんで、洋行すましたそのあとは、降るアメリカをあとに見て、晴るる日の本立ち帰り、一大事業をなしたのち、天下の男といわれたい」という決意の都々逸を残しています。
・落第で大学教育に見切りをつけ、中退
幼少のころは興味のない科目には全く目を向けず散漫な態度を教師に叱られ、大学予備門時代も勉学に打ち込む同級生を傍目に「こんなことで一度だけの命を賭けるのは馬鹿馬鹿しい」と大学教育に見切りをつけ、中退しました。
彼は数学が苦手で、大学予備門の期末試験で代数1科目だけ及第点を取れずに落第しました。
これは同じく帝国大学国文科を落第で中退した正岡子規とよく似ていますね。なお、正岡子規と同級生だった夏目漱石は自身の落第経験も踏まえて、中退しないよう勧めましたが子規は聞き入れませんでした。
漱石は自身の落第の経験を「落第」という随筆に書いています。青空文庫で読めますので、興味のある方はぜひご覧下さい。
・大の猫好き
猫好きであったことで有名。ロンドン留学から帰国後、猫を飼い始めました。名前は一貫して「チョボ六」。ロンドン時代は、掛け布団がわりに猫を抱いて寝ていたそうです。
後に妻となる松枝に会う口実として、何度も汚い猫を連れてきては猫の体を松枝に洗ってもらったそうです。
・大の亀好き
熊楠は亀も好きで、多いときには約60匹もの亀(イシガメやクサガメ)を飼っていたそうです。
熊楠が飼っていたクサガメの「お花」は、熊楠が亡くなってから60年も生き、2001年7月に老衰で死亡。100年以上生きたといわれます。
・反芻胃を持つ体質
自在にヘドを吐くことができ、ヘドを喧嘩の武器としたそうです。
口から胃の内容物を自在に嘔吐できる反芻胃を持つ体質で、小学校時代も喧嘩をすると“パッ”と吐いたそうです。そのため、喧嘩に負けたことがなかったということです。
・不要な本はたとえ贈呈されても返却
蔵書家でしたが、不要な本はたとえ贈呈されたものであっても返却したそうです。また、「学問は活物(いきもの)で書籍は糟粕だ」との言葉も残しています。ただし、残されている蔵書のほとんどはシミ一つなく色褪せない状態で保存されているそうです。
・酒にまつわる失敗も多い
酒豪であり、友人とともに盛り場に繰り出して芸者をあげて馬鹿騒ぎをするのが何よりも好きだったそうです。酔って喧嘩をして警察の世話になるなど、酒にまつわる失敗も少なくありませんでした。
・男色関連の文献研究
江戸川乱歩や岩田準一とともに男色(衆道)関連の文献研究を熱心に行ったことでも知られています。戦前の日本では男色行為は決して珍しいことではありませんでしたが、熊楠自身にそういった経験があったかどうかは不明です。
・昼夜逆転の夜型人間
朝8時に研究室から出て寝室に入り、夕方6時に熟睡から覚めて研究室に入る夜型の生活を送っていたそうです。このため昼間の訪問客は常に門前払いをされており、人間嫌いと評されていました。
・昼間の客に見え透いた居留守を使う
熊楠が昼寝中に来客があった時のこと、留守だと言うのですが伸ばした両足が玄関から見え、居留守だと分かっていました。
客が「本当なのですか」と尋ねると「本人自身でそう言ってるので間違いなし」と答えるので家の者たちは冷や汗をかいたそうです。
・部屋に籠って仕事に没頭
本を読んだり書き物をしている時は八畳の離れに籠り、そこから一切出なかったそうです。「飯も言うてくるな」と自分に食事をさせるなと言ったが、そのうち出てきて「今朝から飯食ったか」と食べたかどうかさえ覚えていない程、没頭していたそうです。
・短い睡眠時間で徹夜も
夏は離れの部屋でうたた寝する程度の就寝習慣で、蚊帳に入って寝たことがなく、大抵は起きて過ごしていたそうです。このような睡眠時間であっても3日くらいは大丈夫でした。
・暴力事件
東洋図書目録編纂係として勤務していた大英博物館の図書館で、閲覧者に人種差別発言を受けた熊楠は、大勢の前で頭突きを喰らわせ3か月の入館禁止となりました。1年後に再度同じ者を殴打したため博物館から追放されましたが、学才を惜しむ有力イギリス人たちから嘆願書が出され復職しました。
岡倉天心のように、得意の英語力を駆使して相手をユーモアをもってやり込めればよかったのですが、熊楠の場合は口より先に手が出てしまったようですね。
・電灯が嫌いで提灯を使いぼやを起こす
電灯が嫌いで常に提灯を使用していましたが、ある時、本棚へかけて燃えだすぼやを起こしてしまい、これをきっかけに電灯を使うようになったそうです。
・風呂好き
風呂好きで、ぬるめの湯船に目をつむって長時間過ごすのが常だったそうです。何か構想を練るときの憩いの場所で、二時間ぐらい入っていたそうです。
気に入った人がくると自分が風呂に入っているときは、風呂の所に立たせてぬくもりながら二時間ぐらい話していたそうです。
・護身用に十手を常備
護身用に、十手を常に持ち歩き、寝るときも枕元に置いたそうです。
・変わった節約法
高い本を買うときは、ご飯のおかずをしばらくみそ汁だけにしたそうです。
・噛まれた蟻の種を明らかにするための変わった方法
あるとき蟻に陰茎を噛まれて全身が腫れました。その蟻は何の種なのかを明らかにするため、彼処へ砂糖または鶏の煮汁を塗り、庭にうずくまって蟻が来るのを待ちましたが、ついに蟻は現われなかったそうです。
2.南方熊楠の面白いエピソード
・驚異的な記憶力の持ち主
熊楠は自身の記憶法については土宜法龍(真言宗僧侶)に書簡で述べています。それを簡単にまとめると以下の通りです。
①自分の理解したことを並べて分類する。
②分類したまとまりを互いに関連させ連想のネットワークを作る。
③それらを繰り返す。
日本の雑誌に論考を発表するようになってからも、必要なデータがどの本のどのページにあるか記憶していて、いきなりそのページをぱっとあけたり、原稿を書くときも、覚えていることを頭の中で組み立ててすらすらと書いていったそうです。
蔵の中へ出たり入ったりしていてどこに何ページということはちゃんと覚えていました。よく「何ページにあるとおもったら、やっぱりあった」と言って喜んでいたそうです。
田辺在住の知人野口利太郎は熊楠と会話した際、“某氏”の話が出ました。熊楠は即座に「ああ、あれは富里の平瀬の出身で、先祖の先祖にはこんなことがあり、こんなことをしていた」ということを話した。野口は「他処の系図や履歴などを知っていたのは全く不思議だった」と述べています。
現代はインターネットの膨大なアーカイブによって、古今東西の書物・伝承から最新の科学技術の知識まで容易に知ることができます。
しかし熊楠の生きた時代はインターネットもありませんので、いくら膨大な蔵書があっても熊楠のような驚異的な記憶力の持ち主でない限り、それを縦横無尽に駆使して思索を深めることは不可能だったと思います。
・8歳で『和漢三才図会』105巻を書き写し
熊楠は子供の頃から、驚異的な記憶力を持つ神童でした。また常軌を逸した読書家でもあり、蔵書家の家で100冊を超える本を見せてもらい、それを家に帰って記憶から書写するという卓抜した能力をもっていたとのことです。
具体的には、8〜9歳の頃から『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』(江戸時代の百科事典)105巻を3年かかって筆写。12歳までに『本草綱目』『諸国名所図会』『大和本草』等も筆写したそうです。
ただしこの伝説については、一部分を丸暗記して筆写した可能性はありますが、105巻すべてをそのまま記憶して筆写したというのは虚構で、むしろ本を借りてきて写し書くことによって内容を隅から隅まで記憶していったというのが真相のようです。
・優れた語学力
熊楠は語学に堪能で、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ラテン語、スペイン語は特に優れていた上に、ギリシア語とロシア語もある程度できたそうです。
しかし実際のところはわからず、英語に関しては話したり書いたりもできたことが証明されていますが、他の言語については「何ヶ国語も自由に操ったという伝説」に過ぎないと言われています。
ただ、ロンドンの大英博物館に勤務しながら、世界各国の人類学・博物学・民俗学の資料・専門書(ラテン語の書物を含む)を渉猟し、辞書を引きながら読破して咀嚼し、思索を重ねながら自分の知識として吸収・蓄積していったことは事実だと私は思います。
・緻密な抜書(ぬきがき)
熊楠は膨大な情報(文献)を収集し、そこから「抜書」しました。これは今の「コピペ」と同じです。そして、関係する事項をリンクでつなぎ、原稿としてアウトプットしました。
たとえば『十二支考「虎」』を出版した時の思考の流れを示すと、まず虎の語源や生物学的特徴、史話、民俗などあらゆる分野から情報を収集し、その後グループ化して関連付け、流れをつなげています。
・徴兵逃れ
熊楠のアメリカ留学は、徴兵で子供を失うことを危惧していた父と、徴兵による画一的な指導を嫌った熊楠との間で利害の一致を見たために実現したと考えられています。
・日本の民俗学の体系化に大きな影響を与える
熊楠は、柳田国男にジョージ・ゴム(George Laurence Gomme)編『The handbook of folklore(民俗学便覧)』を貸しています。これは、日本の民俗学の体系化に大きな影響を与えることとなりました。
・熊楠が牧野富太郎に送ったハチク(淡竹)が、学説通り今年120年ぶりに地元で開花
NHK朝ドラ「らんまん」のモデルとなっている植物学者の牧野富太郎(1862年~1957年)に120年前、和歌山県の在野の博物学者だった熊楠が送った標本に、開花したハチク(淡竹)が含まれていたことが、史料を保管する南方熊楠顕彰館(同県田辺市)の調べでわかりました。
ハチクは120年周期で一斉に開花するとされますが、生態は今も多くの謎に包まれています。地元では今年、ハチクの開花が確認されていて、南方の標本は120年周期を裏付ける貴重な証拠の一つになるということです。(朝日新聞デジタルの記事より引用)
・ホメロスの『オデュッセイア』が中世日本にも伝わったとの説を唱える
ホメロスの『オデュッセイア』が中世日本にも伝わり、幸若舞などにもなっている説話『百合若大臣』に翻案されたという説を唱えました。
・西洋の「シンデレラ物語」は中国・唐の「「酉陽雑俎」を翻案したものとの説を唱える
ホメロスの『オデュッセイア』と『百合若大臣』のように、西洋から東洋に伝わったものもあれば、東洋のものが西洋に伝わったものもあるとの説を唱えました。
後者を代表するものとして熊楠があげるのはシンダレラ(英語ではシンデレラ、フランス語ではサンドリオン)の物語です。これは日本語には「灰かぶり姫」などとも訳され(シンダーとは灰という意味)、西洋各国に広く流通する物語ですが、実は殆ど同じ内容の話が、九世紀中国の唐の時代の書物「酉陽雑俎」に載っているとのことです。
シンデレラ物語では灰とか竈とかが重要な役割を果たしているのに対して、「酉陽雑俎」では魚がその役果たしているいるなど、細部に違いはみられるものの、話の大筋は一致しています。
・金銭問題で弟と軋轢が生じ絶縁
生涯定職に就かず無位無冠で、収入はろくになかったそうです。
そのため、父の遺産や造り酒屋として成功していた弟・常楠の援助に頼りっきりでした。
常楠は、奇行が多い上に何かにつけて自分に援助を求めてくる兄を快く思っておらず、研究所設立のため資金集めをしていた時に遺産相続の問題で衝突して以降、生涯絶縁状態になりました。
熊楠が危篤の際には電報を受けて駆けつけましたが、臨終には間に合いませんでした。
・写真に撮られるのが好き
当時の人間にしては珍しく、比較的多くの写真が残っているため、写真に撮られるのが好きだったといわれています。
・臨終の際、医者を拒否
亡くなる前日、床に就く際に「天井に紫の花が一面に咲いている。医者が来ると花が消えるから医者を呼ばないでほしい」と言い残したそうです。
・幽体離脱や幻覚の原因は脳の海馬の萎縮の可能性
熊楠の脳は大阪大学医学部にホルマリン漬けとして保存されています。熊楠本人は幽体離脱や幻覚などを度々体験していたため、死後自分の脳を調べてもらうよう要望していたそうです。
MRIで調べたところ右側頭葉奥の海馬に萎縮があるため、「側頭葉てんかん」の患者だったと推測され、それが幻覚の元になった可能性があるといわれています。
・あんパンが好物
甘いもの、特にあんパンが好物で、近所の子供や好きな人にもよくあげたそうです。徹夜の時はアンパン6つと決まっていました。
・初対面の人や大勢の前で話すのが不得手でビールをがぶ飲み
初対面の人や大勢の前で話すのが不得手で羞恥・恐怖心をまぎらすためビールを鯨飲しましたが、昭和には酒を止めています。娘の文枝によれば、深酒して孫文の手紙を騙しとられたのが理由と述べています。
・タバコや食べ物の好み
タバコはゴールデンバットや吸い口のついた敷島でした。ブランチはバターを塗った食パンが中心でした。他に好物はニラの味噌汁、肉類(特にステーキ)、ウナギの蒲焼き、鶏のレバー、空豆の醤油煮、鶏の天ぷら。苦手なものは刺身で、理由は寄生虫を心配したためだそうです。
・洋服嫌い
洋服は最初のボタンをかけ違えば最後までうまく合わないからと嫌って、四季を通じて和服だったそうです。
・決して反故(ほご)にしない
手紙でも原稿などを書き出したら決して反故にせず、書き損じて破ったりするようなことも一切なく、続けて一気に書いたそうです。
休むにしても2時間程で起き出して、夜中の何時であっても構うことは無かったそうです。
・畳好き
机の上では書き物をせず、畳の上で何も敷かずに描いていたそうです。手紙を書く時も座布団を除けて畳の上へ巻き紙を置き、座って書いたとのこと。
若いうちは机にしたりテーブルにしていましたが、晩年は足の具合が悪いので畳だったそうです。
・ストーブを使わず火鉢に炭団で暖をとる
ストーブは無かったため、妻はいつ熊楠が起きてもいいように火鉢に炭団をくべて暖をとり、お茶はいつでも沸いているようにしていたそうです。
・7歳から3年がかりで『訓蒙図彙』を読んで漢字を覚えた
熊楠が幼少の頃、父は金物屋を営み、鍋や釜を包むのに反古紙を利用しました。彼は7歳の頃、反古として売りに来た10冊本の『訓蒙図彙』を手に入れ、3年がかりで読んで漢字を覚えたそうです。
・「鍋屋の熊公」と呼ばれて馬鹿にされた
幼少の頃、父が金物屋を営んでいたので、紀州藩旧藩士族の子弟から「鍋屋の熊公」と呼ばれ卑しめられたようです。
・高橋是清から英語を学んだ
熊楠は東京神田の共立学校(現・開成高校)に入学し、高橋是清に英語を学んだそうです。
・自宅の柿の木から新種の粘菌を発見
自宅の柿の木から新属新種の粘菌を発見しました。のちに「ミナカテラ・ロンギフィラ(Minakatella longifila)」と命名されました。
・幽霊に教えられて珍しい植物を発見
幽霊に教えられて、たびたび珍しい植物を発見したそうです。
・監獄で粘菌の新種を発見
監獄で新種の粘菌を発見したこともあるそうです。
・キューバで植物の新種発見
キューバで地衣の新種を発見し、のちにギアレクタ・クバナと命名されます。これは東洋人の白人領地内における最初の植物新種の発見です。
・お金に困りサーカス団の一員となった
キューバ採集旅行中に資金が尽き、ハイチ、ベネズエラ、ジャマイカなどを2か月あまりサーカス団の一員となって生活したそうです。
・孫文と意気投合
ロンドンで亡命中の孫文と出会い、意気投合。「願わくはわれわれ東洋人は一度西洋人を挙げてことごとく国境外へ放逐したきことなり」と述べたそうです。
・生前に出版した本は3冊のみ
熊楠は英語の論文や日本語の手紙など膨大な文章を残しましたが、熊楠個人で生前に刊行した本は『南方閑話』『南方随筆』 『続南方随筆』 の3冊のみでした。
・昭和天皇への進講
昭和天皇へ粘菌学などを進講したとき、粘菌標本110点をキャラメル箱11個に収めて進献しました。
昭和天皇のことについて熊楠は「普通の家に生まれていらしたら、大変な学者になられたやろうに」 と気の毒がっていたそうです。
・宮武外骨とも交流し、彼の編集する雑誌、新聞にも投稿
熊楠は大阪の「奇才・奇人」と呼ばれた宮武外骨(1867年~1955年)とも交流し、彼の雑誌、新聞(『此花』『滑稽新聞』など)に投稿しています。
3.南方熊楠を題材にした漫画を多く書いた水木しげる
「ゲゲゲの鬼太郎」でおなじみの漫画家水木しげる(1922年~2015年)には、老年にさしかかってからの代表作「猫楠」はじめ、「怪傑くまくす」「怪少年」「てんぎゃん」など南方熊楠を題材に描いた作品がたくさんあります。
水木しげるは実在した人物をマンガにすることが多かった作家です。ヒットラー(「20世紀の狂気 ヒットラー他」)や近藤勇を描いたものもありますし、「神秘家列伝」という東西の神秘家の伝記を描いた連作もあります。
しかし、南方熊楠ほど何度も描いた人物はありません。なぜ熊楠に惹かれるのか。そう問われた水木は、次のように語っています。
風変わりな人だったからね。好きだった。(中略)普通でないですよ。例えば、フンドシもしないで真っ裸で生活していたとかね。それでいて、頭はバカにいいんです。
熊楠は数ヵ国語(一説によれば十数ヵ国語)を解することができました。彼の初の論文はイギリスに今でもある科学雑誌『ネイチャー』に英語で発表されていますし、多くの本に原書で接しています。
「猫楠」はこのエピソードを敷衍(ふえん)することにより、熊楠が猫語を話せたとして、猫(猫楠)を案内役として熊楠を描いた作品です。
猫楠はゴッホと熊楠を比して次のような意味のことを語っています。
ゴッホは絵筆を置くと精神が錯乱した。だから描かずにはいられなかった。あの常人にはとてもできない色の配列はそうして生み出されている。熊楠の研究も同じだ。
「猫楠」はやがて、「大いなる哀しみ」として熊楠の息子・熊弥の発病(統合失調症)を語ります。作品では触れていませんが、遺伝的なものも大きかったのでしょう。
「猫楠」の物語の中で熊楠が涙を流すのはここだけですが、その涙には「自分の子だから」「自分の血には狂気が入っているから」という思いが含まれていたはずです。
最終回で、猫楠は「自分は幸福観察猫である。人間の幸福の観察者として大昔から人間に混じって暮らしている」と明かすと同時に、次のように語っています。
熊あんは自分ほど不幸な者はないと思っていたフシがあるが、わしはそうとは思わない。