ホトトギス派の俳人(その13)高浜年尾:虚子の長男でホトトギス主宰を継承

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高浜年尾

「ホトトギス派」の俳人と言えば、高浜虚子が代表格ですが、大正期には渡辺水巴(すいは)、村上鬼城(きじょう)、飯田蛇笏(だこつ)、前田普羅(ふら)、原石鼎(せきてい)が輩出しました。

昭和に入ると、山口誓子(せいし)・水原秋桜子(しゅうおうし)・阿波野青畝(あわのせいほ)・高野素十(たかのすじゅう)・山口青邨(せいそん)・富安風生(とみやすふうせい)を擁し、花鳥諷詠・写生俳句を提唱して『ホトトギス』の全盛期を形成しました。

特に山口誓子・水原秋桜子・阿波野青畝・高野素十は、「ホトトギスの四S」と称されます。

さらに中村草田男(くさたお)、川端茅舎(ぼうしゃ)、星野立子(たつこ)、中村汀女(ていじょ)ら新人を加えて、新興俳句の勃興にも伝統を堅持して揺るがず、俳壇の王座に君臨しました。

1951年、虚子は長男・高浜年尾(としお)に『ホトトギス』を継承させ、年尾没後の1979年からは年尾の二女・稲畑汀子(いなはたていこ)が受け継ぎました。

2013年(平成25)汀子の長男・稲畑廣太郎(こうたろう)が主宰を継承し、明治・大正・昭和・平成・令和の五代にわたる最古の俳誌としての歴史を誇っています。

そこで今回から、ホトトギス派の有名な俳人を(既に記事を書いている人を除いて)順番に詳しくご紹介したいと思います。

1.高浜年尾とは

高浜年尾(たかはま としお)(1900年~1979年)は、高浜虚子の長男で、ホトトギス派の俳人です。ホトトギス代表。「年尾」の名は正岡子規の命名によります。

高浜年尾は、東京市神田区猿楽町に虚子・いと夫妻の長男として生まれました。開成中学校から小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)に進みました。

小樽高商時代は同期に小林多喜二、1期下に伊藤整がおり、全員でフランス語劇に出演したこともあります。

卒業後、旭シルクに入社。のち転勤により兵庫県芦屋市に転居しました。句作は父虚子の手ほどきを受けて中学時代から始めていましたが、この時期に一時中断、1938年に『俳諧』を発行し連句を始めました。

「俳諧」は俳句、連句、俳文、俳詩、俳論などのほか俳句の英・仏・独訳を載せるなど意欲的な俳誌でした。

1939年、旭シルクを退社し以後俳句に専念、関西の俳壇の中心として活躍しました。

1944年、戦時下の物資不足のため『俳諧』を『ホトトギス』に合併させました。

1951年『ホトトギス』雑詠選者。1959年、朝日俳壇および愛媛俳壇選者。同年虚子より『ホトトギス』主宰を継承しました。

1979年10月26日78歳で死去しました。死後『ホトトギス』主宰は次女の稲畑汀子に引き継がれました。句集に『年尾句集』ほかに『俳諧手引』などの著書があります。

2.高浜年尾の俳句

<春の句>

・お遍路の 美しければ あはれなり

・雑草園 都忘れは 淡き色

・八荒の 波に昃(かげ)りの うつりゆく

・春立つや そゝろ心(ごころ)の 火桶(ひおけ)抱く

・立春の かがやき丘に あまねかり

・ベンチあり 春の山みち こゝ平ら

・雛の間の 更けて寂しき 畳かな

<夏の句>

・終りつゝ ある朴の花 なほ匂ふ

・紫は 水に映らず 花菖蒲

・桑海や 大夕立あと なほけぶる

・火蛾落つる 灯下に湖(うみ)の 魚来る

・引潮の 今がさかひや 鱚(きす)を釣る

・夏館 フランス人形 窓にあり

・石南花(しゃくなげ)は 日陰をよしと 盛りなる

・泳ぐ人 あり月の波 くだけをり

・修道女 午後は海蘿(ふのり)を 干すいとま

・杉落葉 かゝれる枝の 木の間(このま)かな

・立ち上がる 一人に揺れて 船料理(ふなりょうり)

・花びらの 日裏日表(ひうらひおもて) 紅蜀葵(こうしょくき)

・甚平着て 饅頭笠着て 土佐の人

・九頭竜(くずりゅう)に 辣韮(らっきょう)洗ひの 屑流れ

<秋の句>

・秋草の 乱るる中に 荘閉す

・船音の 呼子の夜長 杯重ね

・茸狩の 尾根みちへ出て 戻るなり

・菊枕 かくて老いゆく 人の幸

・時代祭 華か毛槍 投ぐるとき

・土佐も果 刈田の多き 岬のみち

・溝蕎麦(みぞそば)は 水の際より 咲きそめし

・建仁寺 抜けて六道 詣りかな

<冬の句>

・遠き家の 氷柱(つらら)落ちたる 光かな

・暮れる前 からのかゞやき 寒の月

・鰭酒(ひれざけ)や 逢へば昔の 物語

・寒梅の 固き蕾の 賑しき

・万両に かゝる落葉の 払はるゝ

・カーテンの 動いてゐるは 隙間風

・京らしや 茶所の媼(おうな)の 頭巾きて

・冬浜の 暮るるに間ある 焚火かな

<新年の句>

・かまくらと いふもの雨に あはれなり

・朝の間の 初凪とこそ 思はるる