ホトトギス派以外の俳人(その7)金子兜太:戦争の悲惨さや社会問題を題材にした自由な句風

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金子兜太

高浜虚子渡辺水巴村上鬼城飯田蛇笏前田普羅原石鼎水原秋桜子阿波野青畝山口誓子高野素十山口青邨富安風生川端茅舎星野立子高浜年尾稲畑汀子松本たかし杉田久女中村汀女などの「ホトトギス派の俳人」については、前に記事を書きました。

このように俳句の世界では、「有季定型」「花鳥諷詠」「客観写生」を旨とする「ホトトギス派」が伝統的に一大勢力となっており、上記のように有名な俳人が多数います。

しかし、最初ホトトギス派に所属したものの後にホトトギス派を離脱した「元ホトトギス派」をはじめ、ホトトギス派に反発した「反ホトトギス派」、独自の道を歩んだ「非ホトトギス派」の俳人もいます。

そこで今回から、このような「ホトトギス派以外の俳人」を順次ご紹介していきたいと思います。俳句に興味をお持ちの方なら、名前を聞いたことのある俳人が必ず何人かいるはずです。

なお、日野草城加藤楸邨・中村草田男河東碧梧桐荻原井泉水種田山頭火尾崎放哉などの「ホトトギス派以外の俳人」については、前に記事を書いていますので、それぞれの記事をぜひご覧ください。

1.金子兜太とは

金子兜太(かねこ とうた)(1919年~2018年)は、埼玉県出身の俳人です。現代俳句協会名誉会長。日本芸術院会員。2008年に文化功労者に選出されました。小林一茶、種田山頭火の研究家としても知られます。

加藤楸邨に師事し、「寒雷」所属を経て「海程」を創刊、主宰しました。戦後の社会性俳句運動、前衛俳句運動において理論と実作の両面で中心的な役割を果たし、その後も後進を育てつつ第一線で活動しました。上武大学文学部教授、現代俳句協会会長などを歴任しました。

彼彼の功績をひとことで言えば、現代日本という社会に、俳句の根を大いに張ろうと尽力した点にあるといえます。俳句を詠む主体の存在を認めることは、日々転変し価値観の多様化する社会の中で「現代俳句」という器を設けることにつながり、多くの人が俳句に参加する道を開いたと言えます。

2.金子兜太の生涯

金子兜太は、1919年に埼玉県比企郡小川町の母の実家で、父の金子元春と母のはるの長男として生まれました。

父の元春は開業医で、「伊昔紅(いせきこう)」の俳号を持つ俳人でした。水原秋桜子の「馬酔木」に所属し、1930年に自身の俳誌「若鮎」を創刊し、秩父音頭の復興者としても知られています。

伊昔紅の代表句は「元日や餅で押し出す去年糞」で、桂三木助が「蛇含草」を演する時にこれを引用し、その流れから『ビートたけしのオールナイトニッポン』初回にビートたけしが「元旦や餅で押し出す二年糞」と同句を捻ったものを第一声としたために有名になりました。

母の金子はるは、元春の集める俳人たちが乱痴気騒ぎを繰り返す様を見ていたため、「俳句の俳は『人に非(あらざ)る』だ」として、兜太が俳人になることを歓迎しなかったと言われています。そのため俳句に没頭する兜太を「与太」と呼んでいたそうです。

2歳から4歳までその父の勤務地であった上海で、帰国して以降は埼玉県秩父郡皆野町で育ちました。彼は、豊かな自然の皆野町を愛し、自分にとっての産土(うぶすな)と表現しています。

旧制熊谷中学を卒業し、1937年旧制水戸高等学校に入学しました。高校在学中の1937年に、一級上の出澤三太に誘われて同校教授宅の句会に参加してはじめて句作し、「白梅や老子無心の旅に出る」と詠みました。

以来、本格的に句作をはじめ、翌年に全国学生俳誌「成層圏」に参加し、竹下しづの女、加藤楸邨、中村草田男らの知遇を得ました。

1939年に、嶋田青峰の「土上」に投句しましたが、「土上」は「新興俳句弾圧事件」によって廃刊に追い込まれました。

1940年に高校を卒業し、1941年に東京帝国大学経済学部に入学すると、加藤楸邨主宰の「寒雷」に投句し、以来楸邨に師事しました。

1943年に大学を繰り上げ卒業し、佐々木直の面接をうけて日本銀行へ入行しました。海軍経理学校に短期現役士官として入校して、海軍主計中尉に任官、トラック島で200人の部下を率いました。

餓死者が相次ぐなか、2度にわたり奇跡的に命拾いしました。

1946年に捕虜として春島でアメリカ航空基地建設(中継地として)に従事し、11月に最終復員船で帰国しました。

1947年2月に日本銀行へ復職し、4月に塩谷皆子と結婚しました。

1949年から翌年末にかけて、日本銀行労働組合の専従初代事務局長を務め、その間に浦和から竹沢村に住居を移しました。

1950年末に福島支店、1953年に神戸支店、1958年に長崎支店へ転勤ののち、1960年に東京本店に戻りました。

支店まわりから「窓際族ではなく、窓奥。1日2-3回開けるだけの本店の金庫番。だから書けた」という仕事で、1974年の55歳定年まで勤めました。

1947年に「寒雷」へ復帰し、沢木欣一の「風」創刊に参加して主唱する社会性俳句運動に共鳴しました。

1951年に福島の藤村多加夫の持ち家に居住しながら、「波郷と楸邨」を『俳句研究』に執筆しました。

1955年から日本ペンクラブ会員になりました。

1957年、西東三鬼の勧めで「俳句の造型について」を『俳句』誌に発表して俳句造型論を展開し、自身の創作方法を理論化しました。

1958年に「新俳句人連盟」の中央委員に推薦され、栗林一石路とともに同誌雑詠欄の選者を1959年10月号までの1年間担当しました。

1960年頃より前衛俳句の旗手に数えられました。

1962年に隈治人、林田紀音夫、堀葦男らと同人誌「海程」を創刊し、1985年より結社誌となり主宰に就任しました。

1974年から1979年まで上武大学で教授を、1983年から現代俳句協会会長、1987年から朝日俳壇選者をそれぞれ務め、1992年に日本中国文化交流協会常任理事、2000年に現代俳句協会名誉会長にそれぞれ就き、2005年から日本芸術院会員となりました。

2006年に妻の皆子が死去しました。

2015年にいとうせいこうとともに『中日新聞』『東京新聞』の「平和の俳句」選者、ほかに一ツ橋綜合財団理事などを務めました。

2018年2月6日に誤嚥性肺炎の疑いで熊谷市内の病院に入院し、20日に急性呼吸促迫症候群により98歳で死去しました。

2018年6月22日、有楽町朝日ホールで「お別れ会」(発起人は黒田杏子や現代俳句協会など)が開催されました。

3.金子兜太の句風

季語や定型(5・7・5)・花鳥諷詠といった伝統的な形式にとらわれず、戦争の悲惨さや社会問題を題材にして自由な俳句の世界を築き、人気を集めました。

素朴で骨太の叙情スローガン的とも言われるダイナミックな文体を特徴とし、戦後俳壇の中心的存在として伝統派の飯田龍太と並び称されます。

戦後参加した「社会性俳句」については、沢木欣一が社会主義イデオロギーを根底にもった句と規定したのに対して、「社会性は態度の問題であり、自分を社会的関連のなかで考え、解決しようとする社会的な姿勢が意識的に取られている態度」であるという見解を示しました(1954年、「風」誌のアンケート)

1957年の「俳句の造型について」では、従来の俳句を自分と対象との直接結合による素朴な方法によるものとした上で、自分と対象との間に「創る自分」という意識を介在させ、暗喩的なイメージを獲得する「造型」の方法を提唱しました。

のち1960年に、「創る自分」を発展的に解消した「造型俳句六章」へと繋がりました。この前後から前衛俳句の旗手とも見なされ、中村草田男、山本健吉らの俳句観と対立し論争も行っています。

また小林一茶、種田山頭火を論じ、漂泊詩人の再評価も行いました。

主宰を務める「海程」の結社活動においては、「俳諧自由」をキーワードに個性重視の方針をとり、門人を自身の俳句観に従わせるのではなく、それぞれの個性を発揮できるようにするためのアドバイザーとしての立場に身を置きました。

彼はまっすぐに本質をつかみ取る実直さ、質実剛健を感じさせる性格で、確固たる信念を持ち、人間としての核心が揺らぐことがありませんでした。そう感じさせる次のようなエピソードがあります。

ある時、師の楸邨が自分の俳句を採ってくれないことに業を煮やした兜太は、楸邨を批判する文章を書き、楸邨本人につきつけました。師を批判するなどということは、よほど芯の強い人間でなければなし得ないことです。

なお、後日談として、師の加藤楸邨は兜太の批判文を見開きページで俳誌に掲載したと言われています。兜太の性格とともに楸邨の器の大きさや師弟関係をも物語るエピソードです。

我流の個性的な書も人気を得ています。2015年7月・8月の平和安全法制反対集会などで掲げられたプラカード「アベ政治を許さない」は、澤地久枝の依頼を受けて揮毫したものです

最晩年の2018年、窪島誠一郎(「無言館」館主)とマブソン青眼(俳人)と共に「俳句弾圧不忘の碑」(「無言館」近辺建立)の筆頭呼びかけ人となり、その碑文を揮毫しました。

4.金子兜太の俳句

山桜

<春の句>

・山桜の 家で児を産み 銅色(あかがねいろ)

・人体冷えて 東北白い 花盛り

・階下の人も 寝る向き同じ 蛙の夜

・梅咲いて 庭中に青鮫が 来ている

・猪(しし)が来て 空気を食べる 春の峠

・三月十日も 十一日も 鳥帰る

<夏の句>

・水脈(みお)の果て 炎天の墓碑を 置きて去る

・独楽(こま)廻る 青葉の地上 妻は産みに

・おおかみに 蛍が一つ 付いていた

・車窓より 拳(こぶし)現われ 旱魃田(かんばつだ)

・蛾のまなこ 赤光(しゃっこう)なれば 海を恋う

・暗闇の 下山くちびるを 分厚くし

・コツプかざす 夕焼の馬 来る空へ

・青春が 晩年の子規 芥子(けし)坊主

・どれも口 美し晩夏の ジヤズ一団

・夏の山国 母いてわれを 与太(よた)という

・「夕べに白骨」などと 冷や酒は飲まぬ

<秋の句>

・曼珠沙華(まんじゅしゃげ) どれも腹出し 秩父の子

霧の村 石を投(ほう)らば 父母散らん

・秋芝に さかしまに寝て 青年達

・流れ星 蚊帳を刺すかに 流れけり

鰯雲(いわしぐも) 故郷の竈火(かまどび) いま燃ゆらん

・星がおちない おちないとおもう 秋の宿

<冬の句>

・暗黒や 関東平野に 火事一つ

・冬眠の 蝮(まむし)のほかは 寝息なし

・昔の友 夜着から頭だけ出して

冬旱(ふゆひでり) 眼鏡を置けば 陽が集う

・マッチの軸頭 そろえて冬逞し(たくまし)

・枯草に キャラメルの箱 河あわれ

<無季>

・銀行員等 朝より蛍光す 烏賊のごとく

・彎曲し 火傷(かしょう)し 爆心地のマラソン

・陽の柔わら(やわら) 歩ききれない 遠い家

5.金子兜太の言葉

あれは、決して過ぎ去ったことじゃないと思ってます。それを、感じてほしいですよ。そう願いますよ。「私たちの時代に来るんじゃないか」と感じてほしい。いや、「感じてほしい」じゃない、「そんな時代にしてはいけない」と思ってほしい。注意してほしいと、そう思います。

—『金子兜太 私が俳句だ(のこす言葉 KOKORO BOOKLET)』金子兜太著

人間が、戦場なんかで命を落とすようなことは絶対あってはならない。それを言葉だけで語り継ごうといっても無理なわけで、体から体へと伝えるという気持ちが大事なんだ。そのときに、五七五という短い詩が力を発揮するんです。俳句は、体から体へと伝わるからね。

—『金子兜太 私が俳句だ(のこす言葉 KOKORO BOOKLET)』金子兜太著

創作において作者は絶えず自分の生き方に対決しているが、この対決の仕方が作者の態度を決定する。

—『定型の詩法』金子兜太著