高浜虚子・渡辺水巴・村上鬼城・飯田蛇笏・前田普羅・原石鼎・水原秋桜子・阿波野青畝・山口誓子・高野素十・山口青邨・富安風生・川端茅舎・星野立子・高浜年尾・稲畑汀子・松本たかし・杉田久女・中村汀女などの「ホトトギス派の俳人」については、前に記事を書きました。
このように俳句の世界では、「有季定型」「花鳥諷詠」「客観写生」を旨とする「ホトトギス派」が伝統的に一大勢力となっており、上記のように有名な俳人が多数います。
しかし、最初ホトトギス派に所属したものの後にホトトギス派を離脱した「元ホトトギス派」をはじめ、ホトトギス派に反発した「反ホトトギス派」、独自の道を歩んだ「非ホトトギス派」の俳人もいます。
そこで今回から、このような「ホトトギス派以外の俳人」を順次ご紹介していきたいと思います。俳句に興味をお持ちの方なら、名前を聞いたことのある俳人が必ず何人かいるはずです。
なお、日野草城・加藤楸邨・中村草田男・河東碧梧桐・荻原井泉水・種田山頭火・尾崎放哉などの「ホトトギス派以外の俳人」については、前に記事を書いていますので、それぞれの記事をぜひご覧ください。
1.松根東洋城とは
松根東洋城(まつね とうようじょう)(1878年~1964)は、愛媛県宇和島市出身で夏目漱石の門下生の俳人です。本名は豊次郎(とよじろう)で、俳号はこれをもじったものです。
2.松根東洋城の生涯
松根東洋城は、裁判官の松根権六(宇和島藩城代家老・松根図書の長男)の次男として東京の築地に生まれました。母は宇和島藩主伊達宗城の三女敏子で、弟に「電力界のフィクサー」とも呼ばれた実業家の松根宗一(1897年~1987年)がいます。
東洋城は育ちの良さに加え、優れた容姿の持ち主だったので、松山中学時代は校内一の美少年で知られたそうです。
裁判官の父について各地を転々としたのち、松山中学校(現松山東高等学校)時代に同校に教員として赴任していた夏目金之助(漱石)に英語を学んだことから、終生の師と仰ぎ交流を持ち続けました。
一高入学前後から句作を始めた東洋城は、漱石を俳句の師と仰ぎ、すでに熊本に移っていた漱石に添削指導を受けました。
旧制一高、東京帝国大学から転じて京都帝国大学仏法科を卒業しました。
1906年(明治39年)宮内省に入り式部官、書記官、会計審査官等を歴任して、1919年(大正8年)に退官しました。
漱石に紹介されて正岡子規の知遇を受けるようになり、子規らが創刊した『ホトトギス』に加わりました。
1910年(明治43年)には、自身が公務で長期逗留する伊豆・修善寺へ、漱石を胃潰瘍の療養に誘っています。なお、このとき漱石は「修善寺の大患」と呼ばれる大吐血を起こしました。
1914年(大正3年)、宮内省式部官のとき、大正天皇から俳句について聞かれ「渋柿のごときものにては候へど」と答えたことが有名となりました。
河東碧梧桐の新傾向に対抗して虚子らと定型句を主張し、『ホトトギス』『国民俳壇』などに句作を発表しました。
俳壇をリードする『国民俳壇』選者を虚子から受け継いで定型俳句の旗手として活躍し、久保田万太郎、飯田蛇笏などを育てました。
1915年(大正4年)には俳誌『渋柿』(下の写真)を創刊・主宰しました。表題は漱石の筆になります。
一時小説に走った虚子が、子規没後『ホトトギス』を継承し、『国民俳壇』の選者に復帰したことにより、東洋城は『国民俳壇』の選者から下ろされました。
これを契機に1916年(大正5年)に『ホトトギス』を離脱しました。以降、虚子とは一切の付き合いを持ちませんでした。
1919年(大正8年)に公職を退き『東京朝日新聞』俳壇の選者となりました。
虚子らが掲げる「俳句こそは花鳥諷詠、客観写生である」という理念に飽き足らず、「俳諧の道は、生命を打ち込んで真剣に取り組むべきものである」として芭蕉の俳諧精神を尊びました。
東洋城が週に一度開催した句会には、長谷川零余子(れいよし)、岡本松浜、野村喜舟、飯田蛇笏、久保田万太郎、小杉余子ら後世に名を残す俳人が数多く集りました。
各地で渋柿一門を集めて盛んに俳諧道場を開き、人間修業としての『俳諧道』を説き子弟の育成に努め、門下から多数の優れた俳人を輩出しました。
その指導は「俳諧道場」と称されるほど厳しいもので、誤解から離れていく人もいましたが、熱烈な支持者が多かったのも事実です。
1952年(昭和27年)隠居を表明し『渋柿』主宰を喜舟に譲りました。
1954年(昭和29年)日本芸術院会員となりました。
1906年の宮内省入省を機に伯母・初子の婚家である柳原家に寄寓し、離婚して柳原家に出戻っていた柳原白蓮と親しくなりましたが、結婚を許されず、その後は嫡男であったにもかかわらず独身を貫くことになりました。
少壮より眉目秀麗でも知られた東洋城でしたが、俳壇にも参加せず、生前には句集も出しませんでした。
1945年の宇和島空襲で家財を失った東洋城は、以後定まった住居をほとんど持たず、東京オリンピックの開催された1964年10月、心不全のため86歳で東京の貸間にて弧高の人生を静かに終えました。今も続く俳誌「渋柿」は、創刊から1世紀を迎えようとしています。
俳句に情熱を注ぎ続けた偏屈な孤高の俳人という印象がありますが、石川桂郎は『俳人風狂列伝』で数々の女性問題がそうした生き方をとらせたことを指摘しています。宮内省からの早期退職や、『渋柿』誌上での隠居表明なども、東洋城のこの不品行が背景にあるとされます。
3.松根東洋城の俳句
<春の句>
・鷹鳩に 化して晴天 濁りけり
・仲春や 庭の撩乱 古机
・百島の 一島そこに 夏近し
・いかなごに 潜る鵜共や 鯛の率(ひき)
・からからと 鍋に蜆(しじみ)を うつしけり
・黛(まゆずみ)を 濃うせよ草は 芳(かんば)しき
・のどけさに 寝てしまひけり 草の上
・春月や 塔下草に ありく人
・春海の 伊勢海老やトロリ 葡萄酒煮
・水取や 奈良には古き 夜の色
・心行く 馬のかざりや 摩耶詣
・佐保姫(さほひめ)の 眠や谷の 水の音
・稲荷お出(いで)も 塩小路あたり ものめきぬ
・曲水や のそりと鶴が 盞(さかずき)へ
<夏の句>
・青梅を かむ時牙を 感じけり
・すつぽんに 身は養はん 土用かな
・絶壁に 眉つけて飲む 清水かな
・鴫焼(しぎやき)や 高野の坊の 一の膳
・翡翠(かわせみ)の 打ちたる水の 平かな
・大和路や 麦生(むぎふ)に塔に 梅雨晴るる
・青蛙 喉の白さを 鳴きにけり
・午下(ごか)二時の しじまありけり 氷水
・山からの 雨潔き 夏野かな
・梅雨永や 隣の屋根の 瓦浪
<秋の句>
・渋柿の 如きものにては 候(そうら)へど
・団栗や 倶利伽羅峠(くりからとうげ) ころげつつ
・仁和寺を 道の序(ついで)や 紅葉狩
・秋薔薇や 彩(いろ)を尽して 艶(えん)ならず
・梨の肉(み)に しみこむ月を 噛みにけり
・閑(しずか)さは 吾が遠耳(とおみみ)の いとどかな
・薄墨の 鱗の金ンや 紅葉鮒(もみじぶな)
・暁や しらむといへば 男郎花(おとこえし)
・湖に 響きて消ゆる 砧(きぬた)かな
・遡(さかのぼ)る 百里の江なる 鱸(すずき)かな
<冬の句>
・霜の木や 実の紅を 輝ける
・武蔵野は 十一月の 欅(けやき)かな
・冬ざれや つくづく松の 肌の老(おい)
・早稲田の夜 急にしぐれぬ 漱石忌(そうせきき)
・庭裏や 木守(きもり)の柿の 冬夕(ふゆゆうべ)
・熊突(くまつき)や 爪かけられし 古布子(ふるぬのこ)
・山風や 夜落ちしとこ 湖氷る
・薄月の 鱈の真白や 椀の中