平戸藩第9代藩主松浦静山(1760年~1841年)と「甲子夜話」については、「松浦静山とは?16歳で藩主となり47歳で隠居後、62歳から甲子夜話を執筆。」「甲子夜話とは?平戸藩主の松浦静山が隠居後に、死の直前まで書き続けた随筆集」という記事を書きました。
前に「隠者の心の中は穏やかではない!?」という記事も書きましたが、隠者の深層心理は、決して悟りきった諦観のように穏やかなものではなく、俗世間への未練・執着や名誉欲・出世欲などが渦巻き、混沌としている方が多いのではないかと思います。
松浦静山は外様大名ながら、幕閣となって幕政に参画する野望を持ち続け、有力者へ賄賂を贈ったりして猟官運動もしましたが、結局果たせませんでした。
そこで今回は、松浦静山が「甲子夜話」を書いた深層心理について考えてみたいと思います。
1.松浦静山のカタルシス
彼は鬱屈した気持ちを晴らす「カタルシス(精神の浄化)」(*)を期待して、この「甲子夜話」を書いたのではないかというのが、私の見立てです。
(*)「カタルシス」はギリシャ語で「精神の浄化」を意味します。 不安や怒りなどの心の汚れや罪の意識などを取り除いて、精神を正しい状態に戻すことです。 ギリシャの古代医学では、体から血などの体液を体外へ排出することを「カタルシス」と呼んでいました。
というのも、「甲子夜話」には、昇進や出世にまつわる話が数多く収録されているからです。
幕府の有力者に賄賂を贈った大名たちの話、息子に役職を与えてくれるよう若年寄の公用人に贈賄したことを咎められて免職になった旗本の話、大名旗本の露骨な猟官活動に対する風刺記事、等々・・・。
実は彼自身、ほかのどの大名にも劣らないくらい役職獲得に邁進した殿様であり、さらには贈賄工作の経験者ですらあったのです。
また、「甲子夜話」という膨大な見聞録・随筆を書き残すことによって、出世が叶わなかった自分の存在意義を確かめたかった(自己満足を含め、自分をアピールしたかった。爪痕を残したかった)のではないかと私は思います。
彼は幕府での役職獲得には失敗したものの、「甲子夜話」という書物を書いたことによって、結果的に後世に名を残すことになりました。
2.松浦静山の出世欲
「甲子夜話」の至る所で、平戸藩主時代の彼が抱いていた旺盛な「青雲の志」(出世欲)を垣間見ることができます。
彼の晩年の述懐に次のようなものがあります。
予壮年の前は青雲の志有りしかば、窃(ひそか)に三奉行の所為を学ばんと、評定所留役(とめやく)万年某と云に懇(ねんごろ)にして・・・。(三篇巻二)
幕府の要職である三奉行(寺社奉行・町奉行・勘定奉行)のうち、いずれの役職に就いても困らないようにと、幕府の役人を先生に頼んで実務の学習をしていたのです。
平戸六万石(内実は十万石だったといわれる)の藩主で、江戸城「柳の間」に詰める外様大名の間ではリーダー格だった彼も、外様大名ということもあって、実際は三奉行を拝命する可能性は低かったのです。
しかし5代将軍綱吉の時代に、5代前の藩主松浦鎮信(しげのぶ)が「奥詰(おくづめ)」に、そして4代前の松浦棟(たかし)が「寺社奉行」を拝命した前例にすがって、いつかは自分もと、青雲の志を燃やしていました。
予、若き程は青雲の志も有りて、諸家の浮沈も能(よ)く識(しり)しが・・・(続篇巻九十二)
したがって、他の大名の昇進・不遇にも絶えず注意を払い、自分の可能性を計算するのに余念がありませんでした。
希望の役職を得るには、幕府の実力者とできるだけ親しく接し、さまざまな情報を集めて機敏に対応しなければなりません。
ところが、平戸藩主は、長崎の警備を担当させられており、彼が藩主となった当時、毎年11月に江戸に参勤し、翌年2月には御暇(おいとま)して国許(くにもと)に帰らなければなりませんでした。
これでは江戸に滞在する期間(ひいては猟官活動できる期間)が短すぎます。
そこで彼は、先述の鎮信と棟の時代のように1年間在府したいと積極的な運動を展開しました。
その願いが叶い、寛政4年(1792年)以降は毎年4月に参勤し、翌年4月に江戸を発(た)つことになりました。
三十代前半の青年藩主の彼は、江戸城内でも精力的な姿を見せています。
予もその頃は青雲の思ありて、唯(ただ)大城(江戸城)のみ慕はしく有けるゆゑ、纔(わずか)一月(ひとつき)三日の登営なれば、御礼畢(おわ)りても遅々として下殿せり(巻三十五)
平戸の松浦史料博物館が所蔵する『柳之間家格』によれば、登城の日に「柳の間」に詰める大名(非職)78家のうち、平戸松浦家は豊後岡藩主中川家(七万石)に次ぐ2番目の席次でした。
「柳の間」の大名たちが江戸城に登るのは、月次(つきなみ)の登城日と五節句などを合わせてもだいたい月三回くらいでした。
しかし「青雲の思い」に憑かれていた彼には、とても足りないと感じられたので、せめて登城した日はできるだけ城内にいようと、最後まで居残っていたのです。
次のようなエピソードもあります。
ある日のこと、江戸城中で「柳の間」に詰める大名たちが「習礼(しゅうらい)」(儀式の予行演習)のために集まっていたところ、すぐ近くで老中松平定信らの幕閣が政治向きの話し合いを始めました。邪魔なのだが、「柳の間」の大名たちは定信の権力を恐れて衝立ごしに様子を窺っていったり来たりするだけで、誰も「邪魔なのでどいて下さい」とは言えませんでした。
そこで彼が歩み出て、定信の前に手をつき、「柳間同席の者共習礼仕度(つかまつりたく)、各(おのおの)様御用談の処御免なさるべし」と申し上げました。これを聞いた定信は「是は是は居処悪(あ)しくて気毒(きのどく)也」と謝って場所を移したという・・・。
これは、彼が権威を恐れずに筋を通したという「美談」のように見えます。しかし、仲間の大名たちが困っているのを見かねた彼の勇気ある行動というよりは、時の実力者に自分をアピールし印象付けるための演出(スタンドプレー)だったようです。
同じく平戸の松浦史料博物館が所蔵する『柳之間家格』という史料によると、趣の異なる次のような話があります。
彼が「御忠義の御心から、是非とも幕府の役職を勤めたい」と運動しているのを、世間ではそうは取らなかったというものです。
静山が東叡山(寛永寺)、三緑山(増上寺)両山の将軍家墓所にまめに参詣するのは役職獲得の打算からで、参詣に出掛けた折も、ことさらその姿を老中や若年寄などの幕閣に見せつけるように仕組んでいると噂されていた。
面白いことに、この史料を記した彼の側近と思われる人物自身も、この世評を「いかさま其思召(そのおぼしめし)も無きにしもあらねども・・・」と、否定し切っていないことです。
3.松浦静山の挫折
晩年、彼はこのような若き日の行動を忸怩(じくじ)たる心境で振り返り、失敗談の一つを「甲子夜話」続篇巻二に書き留めています。
平戸藩の本所下屋敷の庭には、三代前の藩主篤信が隠居後に集めた多くの奇花珍木が植えられていました。なかでも、紫と白の二色の藤の花は、とりわけ珍重されていたそうです。
妻の実家の当主(妻の兄)で、当時幕府の老中を勤めていた松平伊豆守信明が屋敷の庭園を造営中であることを知った静山は、信明が自分の夢を実現してくれるかもしれないという熱い願望を込めて、この珍種の贈呈を申し入れました。
こうして喜び勇んで藤の花を送り届けた静山は、後日、信明と対面する機会を得ました。相手からなかなか藤の話が出ないので、こらえ切れなくなって静山の方から「先日進上の藤はいかが、園中に植えられしや」と尋ねたところ、信明はただ「忝(かたじけな)き」と礼を述べただけで、ほかに何も語ってくれなかったということです。
愕然として退出した静山は、このときのことを思い出して、晩年こう述懐しています。
今に至て思へば、豆州(松平信明)の賢賞すべく、予が愚歎ずべし。総(そうじ)て世上権門に奔走する徒は皆是(これ)なるべし、よくぞ翻然と隠倫の境に入り、青雲の志を絶(たち)しと、皎月(こうげつ)の下、独(ひとり)自ら楽む。
静山の「猟官運動」の主なものは次の通りですが、悉(ことごと)く失敗に終わりました。
・田沼意次が幕府の実権を握っていた時期は、田沼意次に対する頻繁で積極的な贈賄
・田沼の失脚後は、昌平坂学問所の聖堂再建費助成として二万両の献金
・寛政11年(1799年)の3代将軍家光の百五十回忌における日光参拝でアピール
「猟官運動」として、このように多額の贈賄や献金・寄進をした静山ですが、当時の平戸藩の財政が豊かだったわけでは決してありません。
逆に藩は「財政逼迫状態」にあったと言えます。これより前の寛政6年(1794年)に関東諸河川の普請(護岸工事)を幕府から命じられ御用金として九千両余りを上納した際には、凶作続きであったため、やむなく先代が倹約政策によって残した予備金(「囲金(かこいきん)」で不足を補っていました。
彼自身もこの時期、藩の重役を入れ替え、積極的に冗費節減策を図るなど、藩の財政改革を断行しています。
このようにともかく彼は、無理をして頑張っていたのです。
にもかかわらず、妻の兄の老中松平信明は、藤の花のエピソードが語るように、意外なほど彼に冷たかったのです。
松平定信の改革路線を受け継いだ老中松平信明の立場からすれば、親類の者を役職に就けると周囲から「情実人事」と受け取られかねないと思ったのかもしれません。
その上、江戸城で「柳の間」の大名たちを代表してあれほど鮮やかに見得を切って見せた相手の松平定信も、寛政5年(1793年)、彼の願望を叶えてくれないまま、突然、老中職を辞してしまいました。
4.松浦静山の隠居の本当の理由
彼は47歳で隠居しました。表向きは「病気」が理由でした。申し渡しの文言にも「病気に付(つき)、願の通り仰せ付けられ、家督相違なく嫡子肥前守へ下さる」とあります。
しかし、家督を譲らなければならないほどの重病だったのでしょうか?
「仮病」ではないにしても、どうも江戸に留まりたいがために(とりもなおさず「猟官運動」のために)「病」を申し立てたようにも見えます。
彼は後年、本当の理由を率直に次のように告白しています。(続篇巻九十八)
若い頃から、私は、先祖の鎮信、棟公のように、将軍の「御膝下(おひざもと)」で奉公したいと念願し続けていた。しかし一体どんな障害があるというのだろう。私には一向に機会が訪れない。
その一方で、ほかの大名が幕府の役職に就いていくのを見るにつけ、鬱情抑えがたくなり、このうえは隠居してしまったほうがいいと囁く「悪神」の声にそそのかされ、とうとう決断してしまったのだ。
あのとき、親友の林述斎は、そんな自暴自棄はやめたほうがいいと忠告してくれたし、妻の実家の兄の松平信明も、「まだお若いのだから」と、やはり隠居を思いとどまるよう勧めてくれた。
当時、国許に帰っておられた松平定信公(楽翁)にも手紙で意中を述べたところ、公は「隠居には不同意」と返答された。ところが意固地になっていた私がなおも隠居の意志を告げると、気分を害されたのであろう、それなら志のままになさるがよいとおっしゃったので・・・
隠居を願い出た当時の混乱した精神状態は、晩年になってからも鮮やかに思い起こされました。それほど切羽詰まった心境だったようです。
其頃(そのころ)は唯一途(いちず)に悲歎と忿懥(ふんち)(癇癪)との心燃るが若(ごと)く、或ときは火後のことゆゑ(注:この年に火災で藩邸が焼失したことを指す)、園中の小亭に在て侍臣下に頭髪を梳(くしけず)らせゐしに、俄かに雨灌(そそぎ)て、池内に族立つ(そうりつ)せし荷葉(はすのは)に、水盈(みち)て代る代る覆(くつがえる)有さま、世態を目(ま)の当り観る心地して、愈々(いよいよ)切思増長し・・・
<現代語訳>
火災後、庭の仮宅で家来に髪を整えさせていると、にわか雨。雨水がたまって、その重さで蓮の葉がひるがえる光景を見るにつけても、まるで世の中の無情、人の頼りなさを思い知らされたようで、胸中のわだかまりが刺激され悲しみがいや増しになった・・・
いつまでも成果が表れない猟官運動の疲れといらだち、それに、自分とは裏腹に役職を得た他人に対する羨望や猜疑心が重なって、ついに心神がしてしまった状態が窺えます。
しかも先年来、確かに体調も思わしくありませんでした。(持病の癪、痔疾、水腫など)
かくして文化3年(1806年)、47歳の平戸藩主は、その深い学識と英明を惜しまれながら、いわば気持ちの整理もつかないまま、辞表を提出してしまったのです。
その結果、彼は以後長い間、「隠居を早まった」と後悔し続けたのでした。
5.松浦静山の見果てぬ夢
広大な住まいと豊かな生活、そして隠居生活を取り巻く多彩な人々。十分に満たされているはずなのに、彼の胸中には依然として「夢」を実現できなかったという鬱々とした気分がわだかまっていました。
確かに、心身を擦り減らすような出世競争から身を引いた現在の生活に、一種の安堵感、安らぎを覚えないでもありませんでした。
さまざまな方法で気持ちを慰めようとしながらも、彼は挫折した夢に寄せる複雑な思いを、どうしても拭い去ることができませんでした。
73歳のとき彼は、正直な気持ちを次のように吐露しています。
今ははや古稀に余り、頭は白雪を冒(こうむり)たれど、人はしらず、心は青雲を凌(しの)ぎ、志の奪ひがたければ、今に壮年のこゝちぞすれ。(続篇巻八十)
裏返せば、いつか幕府の役職を拝命するかもしれないという夢を抱き続けていたことが、彼の若さの秘密だったのかもしれません。
もし彼が、世間の情報から完全に遮断された文字通り「隠倫」の日々を送っていたのであれば、胸の中のわだかまりも、自然に薄れていったのかもしれません。
しかし、幸か不幸か、彼の耳には後輩だった大名たちの栄進のニュースが、否応なく入ってきて、彼の気持ちをかき乱しました。
後輩の栄達を喜び祝うと言いながら、羨望と後悔の念でいっぱいの彼の心中は、次の文章にはっきりと読み取れます。
狭山候北条氏は、嘗(かつ)て予と柳班(柳の間)に在て勤事せしが、予は年長じ、且(かつ)上座に列し、候は未だ年少にして、下位に在りしを、予殊に候の為人(ひととなり)を好し、屡々(しばしば)進仕志を立るの旨を開諭せしが、予は不幸にして退隠し、候は(中略)権家に奔走して、遂に内班に入り、大番頭と為(な)る。予が喜び知るべし(三篇巻四十一)
北条氏喬が大番頭に抜擢された天保6年(1836年)に、彼は将軍家斉の寵臣であった中野碩翁(1765年~1842年)の屋敷を訪ねています。
中野碩翁は隠居後の名で、前名は中野清茂です。小姓頭取、小納戸頭取と将軍の側近を長く勤めた旗本ですが、養女お美代の方が時の第11代将軍徳川家斉の寵愛を受けたことが、その絶大な信任を得るきっかけとなりました。
天保元年(1830年)に隠居しますが、隠居後も新番頭格式として奥詰を続けることが許されました。登城して家斉の話し相手を勤めるよう命じられたのであり、信任は引き続き厚いものでした。
家斉の信任を背景に幕府の政治や人事に強い影響力を行使した石翁のもとには、猟官運動や官位の昇進に血道を上げる大名や旗本からの金品がとめどもなく流れ込みました。
隠居後は向島の屋敷で豪勢な隠居生活を送りましたが、その元手となったのは賄賂として贈られた金品でした。
その贅沢な生活ぶりは世間から注目され、家斉の父である一橋治済(穆翁)、薩摩藩前藩主の島津重豪(栄翁)とともに、「三翁」と称されました。
中野碩翁は1765年生まれで、静山の方が5歳年上ですが、当初は快く思っていなかった碩翁に近づいたのは、役職に就きたい一心からです。
静山が住む本所と碩翁が住む向島は同じ隅田川東岸で、距離も3kmもありません。碩翁との仲を取り持ったのは、静山のもとに出入りしていた植木屋平作です。平作は碩翁のお気に入りでした。
やがて静山は碩翁と親しくなりますが、政界の闇将軍のような人物との付き合いを深めたことで、周囲からは不審の念を持たれます。
松浦家の分家である旗本で、かつて碩翁と同僚だった松浦忠右衛門なども、静山とは肌の合わない人物であるのに、なぜかくも懇意なのかと不審がりました。
そんな話も静山は「甲子夜話」に書き留めており、自分が批判されていることは承知していましたが、静山は碩翁の政治力に大いに期待していました。
天保9年(1838年)3月、江戸城西の丸御殿が焼失しました。すぐさま幕府は再建に取りかかりましたが、静山はこれに目をつけ、修復費として二百両を献上したいと碩翁に相談すると、献上を仲介する労を取ってくれました。
4月11日、碩翁が二百両献上の件を家斉に披露したところ、殊の外満足したということです。前年、家斉は将軍の座を家慶に譲り、本丸御殿を出て西の丸御殿に移っていました。
家斉が静山の心遣いに満足した旨を書面で碩翁から伝えられた静山は大いに喜び、江戸城の方に向かって遥拝し、屋敷で祝宴を開いて快く酔いました。
天保10年(1839年)3月、今度は静山の本所下屋敷が火事に遭いますが、碩翁は見舞いの品として、かつて下賜された家斉着用の小袖と現将軍家慶着用の帯を贈ってくれました。
これを喜んだ静山は、先の二百両献上に喜んだ家斉が碩翁をして贈ってくれたのではと想像を巡らせています。
碩翁を通じて家斉に自分の存在をアピールできた静山は大いに喜び、次なる恩恵を期待しましたが、その期待が現実のものとなることはありませんでした。
天保12年(1841年)閏正月に家斉が死去し、やがて碩翁も江戸城の出仕を止められて政治力を一気に失ったからです。
6.松浦静山の悲哀
文化8年(1811年)、52歳の彼は「若かりし時かたらひし女の書(かき)をきし筆の跡を久しくして見たりけるとき思出(おもいいで)て」との詞書(ことばがき)を添えて、「みし夢のむかしおほゆる水くきの あと(跡)にもうかふ人の面影」という和歌を詠んでいます。
若い頃契った女性とは、22年前に27歳で亡くなった妻の鶴年子(つねこ)と思われます。久しぶりに彼女の遺墨をしみじみ眺めながら、彼は妻の在りし日の面影を懐かしんだのです。
妻に先立たれた夫の悲しみとはいえ、元藩主の彼には身近に女性がいなかったわけではありません。
隠居後も複数の側女(そばめ)との間に20人もの子をもうけ、経済的に何不自由なく、多彩な学芸と交友を楽しんだ健康なエピキュリアン(快楽主義者)で、しかも女性との性の愉悦を享受し続けた彼の老後に垂涎しない男性はいないでしょう。
しかし多くの女性との交情は、長寿を全うした彼にとって、同時に悲しみの種になったことも事実です。
文化14年(1817年)、58歳の彼は「あはれこの花の台(うてな)にあとゝめよ 我はいつくに往くとしらねど」と詠んでいますが、これは6月に没した側女の墓に花を手向けた折の歌です。
翌年にも翌々年にも、側女たちが相次いでこの世を去りました。
文政2年(1819年)の一首「ちる花を冬と春とにさきたてゝ のこる老木のミ(身)をなけきつゝ」に添えられた「そはめなるものか山は去年の冬身まかり里美はこの春ミうせぬ。哀のあまりかくなむ」という詞書から、それがわかります。
文政元年の冬に「か山」、同2年の春に「里美」と、二人の側女の花の命が散り、花も実もない老木のわが身ばかりが後に残ってしまったと嘆いているのです。
愛する女たちとの永別と日ごと深まるわが身の老い、老醜。誰もが羨望する彼の恵まれた老後の生活の中で繰り返された人生の悲哀、老いのため息。
隠居した殿様である松浦静山は、敷地面積4,900坪(*)の広大な「本所下屋敷」に住みました。これは幕府から拝領した土地ですが、平戸藩では近くの農地7,500坪を買い取って併合したため、実際の規模は優に1万坪を超えていました。ちなみに「浅草鳥越上屋敷」は14,582坪でした。
1万坪を超える規模の本所下屋敷には、彼とその妻子、身の回りの世話をする奥女中、家臣、奉公人が住んでいました。
彼には1年間の生活費として、藩から1万石と金360両が支給されました。平戸藩の表高は6万石ですが、実際は10万石といわれていました。これは米の生産高であって、そのまま藩の収入となるわけではありません。
「五公五民」つまり年貢率が50%とすれば、実際に懐に入るのはその半分です。そこから1万石が彼の生活費として割かれたわけで、藩の歳出に占める割合は20%にもなりました。
藩予算の5分の1に相当する手当てをもらって経済的に何不自由なく、多くの側女を持って快楽に耽り、僧侶・力士や刀鍛冶・弓職人らを抱えて趣味を楽しみ、多くの学者や文化人と交友を持つなど一般の庶民から見れば羨ましい限りの余生を送りました。
しかし彼のように恵まれた人でも、結局のところ、人生に「悠々自適」という夢のような境涯などありはしないということがわかります。
7.松浦静山の跡を継いだ息子の悲運
最後に、文化3年(1806年)に静山の跡を継いで第10代藩主となった三男の熈(ひろむ)についてご紹介します。
(1)松浦 熈の隠居を早めたのは父の期待と主君の出世を望まない家臣の思惑
16歳で父の跡を継いで第10代藩主となった三男の熈(1791年~1867年)は、天保12年(1841年)に51歳で隠居し、長男の曜(てらす)(1812年~1858年)に家督を譲りました。
静山に続いて熈も隠居したことで、平戸藩は隠居の殿様が2人となりましたが、本所下屋敷で親子一緒に生活したのではありませんでした。熈は国元の平戸で隠居生活を送ったのです。
ところで、熈の隠居の理由は何だったのでしょうか?
体調が思わしくなく、これでは藩主の勤めを果たせないと判断して隠居を決断したのですが、体調悪化の原因は父・静山の過剰な期待にあったようです。
つまり、幕府の役職に就くという自分が果たせなかった夢を託されたことが、大変な重荷となっていたのです。
熈は幼少の頃から聡明で知られ、文武に優れた人物でした。学問や武術だけでなく、茶の湯、和歌、蹴鞠、香道などを幅広く嗜み、謡(うたい)などは専門家も一目置くほどの水準に達していましたが、いずれも父・静山による英才教育の賜物でした。
文化5年(1808年)には、松平定信の娘を正室に迎えますが、これも熈に箔をつけて立身出世の糸口を掴ませようとする静山の親心でした。
いずれにせよ、静山は熈に大変期待していました。熈も父の期待に応えようとしましたが、家臣たちは主君の立身出世を望んではいませんでした。
熈が奏者番に任命され、その優れた能力により寺社奉行などに抜擢されると、松浦家は「お国替え」になると危惧したのです。
幕府の要職に抜擢されると、西国など遠国に所領を持つ大名は関東や中部地方に転封されるのが習いでした。
松浦家とその家臣たちは、先祖の代から平戸で生活しており、今さら住み慣れた土地から離れたくはなかったのです。
主君の出世は喜ばしいことながら、それと引き換えに移住を強いられるのは困るとして、その立身出世を望まなかったわけです。
熈は、自分の出世を望む静山と、出世を望まない家臣たちとの板挟みになって苦しみました。
思い悩んだ結果、心神を擦り減らし、文政10年(1827年)頃から頭痛に苦しみ始めます。そして、天保4年(1833年)には大病を患います。
それ以来、熈は体調が思わしくない状態が続き、同12年(1841年)に隠居を決断するに至ったのです。
父と家臣の板挟みの状態から解放された熈は、その後長寿を保ち、幕府の歴史が終わる慶応3年(1867年)に77歳で死去しました。
(2)松浦 熈とは
松浦 熈(1791年~1867年)は、第9代藩主・松浦清の三男として平戸にて誕生しました。母は外山光時の娘・松子で、幼名は三穂松です。
寛政7年(1795年)、江戸に移り、同年、父・清の嫡子となります。長兄・章の廃嫡、次兄・武の死去に伴う措置でした。なお、年齢の上積みをはかり、幕府には8歳と届け出ました。
享和3年(1803年)6月1日、11代将軍徳川家斉に御目見します。同年12月16日、従五位下・肥前守に叙任しました。天保5年(1834年)3月、若年寄・永井尚佐の官名と重なるため、幕府に肥前守の改名伺いを提出しましたが、同年8月、改名は必要ないとの返答を受けました。
文化3年(1806年)11月、父清の隠居により家督を相続しました。文化5年(1808年)、松平定信の娘と結婚しました。
家斉が死去した同じ天保12年(1841年)閏1月、51歳で隠居して長男の曜(てらす)(1812年~1858年)に家督を譲りました。
父・清の意向により平戸で隠居し、曜とその跡を継いだ詮(あきら)(三男・秋の子)の後見にあたりました。慶応3年(1867年)、77歳で死去しています。