<ハドリアヌス帝のヴィッラのモザイクに描かれた悲劇および喜劇用の仮面>
「ギリシャ悲劇」は大変有名で、私も前に「ギリシャ悲劇とは?」「古代ギリシャの三大悲劇詩人(その1)アイスキュロス」「古代ギリシャの三大悲劇詩人(その2)ソポクレス」「古代ギリシャの三大悲劇詩人(その3)エウリピデス」という記事を書きました。
反対に「ギリシャ喜劇」はあまり一般には知られていませんが、どのようなものだったのでしょうか?
そこで今回は「ギリシャ喜劇」について、わかりやすくご紹介したいと思います。
1.「ギリシャ喜劇」とは
ギリシア喜劇(古代ギリシャ語: κωμῳδία、kōmōidia、 コーモーイディア)とは、古代ギリシャで、アテナイのディオニューシア祭等で上演されていた喜劇です。
ギリシア喜劇を意味する「コーモーイディア」(κωμῳδία)は、「祭りの行列」を意味する「コーモス」(κῶμος, kōmos)と、「歌(頌歌)」を意味する「オーイデー」(ᾠδή, ōidē)の合成語であり、「祭りの行列の歌」という意味で、英語の comedy 等も、この語に由来します。
「コーモス」とは、ディオニューソスの祭礼において、「男根」(パロス)のハリボテを先頭にして豊饒を祝いながら練り歩いたお祭り騒ぎの行列のことです。この際、卑猥な冗談や揶揄を交わしながら、男根崇拝歌(パリカ)や風刺歌が歌われたりしましたが、そこからギリシア喜劇が発展したとされます。
(また、アリストテレスは、アテナイ人が郊外の村落を「デーモス」と呼ぶのに対して、ドーリア人は「コーメー」と呼ぶことと関連付けて、喜劇の起源を町を追われて郊外の村々を転々とした者を風刺したのが起源であり、自分達が発祥だとするドーリア人達の俗説も紹介しています。
紀元前5世紀頃に、形式が確立しました。
アリストテレスの規定では、悲劇は優れた者を描く(再現する)のに対して、喜劇は劣った者を描く(再現する)ものだということです。
2.「ギリシャ喜劇」の種類
ギリシャ喜劇は、「旧喜劇」、「中喜劇」、「新喜劇」に分けられます。アリストパネスは、最も初期の「旧喜劇」(オールドコメディ)である「アカルナイの人々」(紀元前425年)の作者です。
「中喜劇」(ミドルコメディ)(紀元前400年~紀元前323年)は、「ペロポネソス戦争」のほぼ終わりからアレキサンダー大王の死まで続きました。この期間の完全な演劇は存続しません。
「新喜劇」(新しいコメディ)(紀元前323年~紀元前263年)は、メナンドロスによって作られた喜劇です。
古代アテナイ(アテネ)では、紀元前486年から、悲劇だけでなくコメディーでも毎年恒例の大会が開催されました。レーナイア祭は紀元前440年にコメディー大会を開催し始めました。通常、5つのコメディーが競い合いましたが、ペロポネソス戦争中は数は3に減りました。一連の4つの演劇を行った悲劇の作家とは異なり、コメディの作家は1つのコメディを1つずつ制作しました。
3.「ギリシャ喜劇」の喜劇詩人(喜劇作者)と作品
ギリシア喜劇のほとんどは散逸しており、現存するのは
- アリストパネスの作品中、11篇
- メナンドロスの作品中、6篇
等のみです。
(1)アリストパネス
アリストパネス(古代ギリシャ語:Ἀριστοφάνης/Aristophanēs、 紀元前446年頃~紀元前385年頃)は、古代アテナイの喜劇詩人・風刺詩人です。アリストファネス、あるいはアリストパネース、アリストファネースと長母音でも表記されます。なお現在のギリシア語ではアリストファニスのように発音されます。
代表作はソクラテスに仮託する形でソフィストを風刺した『雲』、デマゴーグのクレオンを痛烈に面罵した『騎士』、アイスキュロスとエウリピデスの詩曲を材に採り、パロディーなどを織り交ぜて優れた文芸批評に仕上げた『蛙』などがあります。
(2)メナンドロス
メナンドロス(古代ギリシャ語: Μένανδρος / Menandros、紀元前342年~紀元前292年/291年)は、古代ギリシャ(ヘレニズム期)の喜劇作家です。ギリシャ喜劇 のうち、「新喜劇」(アッティカ新喜劇(Attic new comedy) あるいは アテナイ新喜劇(Athenian new comedy))と呼ばれる作品群の代表的な作者です。
3.アテナイの演劇について
紀元前5世紀のアテナイ(アテネ)で、悲劇を初めとする演劇が盛んであった事情については、次の手短かな説明がわかりやすいので引用します。
紀元前5世紀のアテネには、アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスの三大悲劇詩人と喜劇のアリストファネスがでて、ギリシア演劇を完成した。彼らの作品はディオニュソス神の祭典での競演のために創作され、市民のあいだから選挙と抽選の二重の手続きで選ばれた審判員の秘密投票で優劣の順位が決められた。
ギリシア劇には役者のほかに大勢の歌舞、合唱の隊員が必要であるが、この隊員や役者の衣装の調整、練習期間の給養という金のかかる仕事(合唱隊奉仕)には、富裕市民が輪番で奉仕した。芝居見物が市民にとっての最大の娯楽であるとともに一般教養を高める機会であったことは、たとえば喜劇が言論の自由に恵まれておこなった辛辣な政治批評や人物評論を一考すればたりよう。
かような娯楽をすべての市民にわかちあたえるために、アテネ当局(ペリクレス)は観劇入場料(テオリコン)を市民の誰にでも支給するという文化政策を始めた。その主旨は立派だったが、のちにはこれから、市民大衆のあいだに国家による享楽という悪い傾向が生まれてくる。
<村川堅太郎ほか『ギリシア・ローマの盛衰』1997 講談社学術文庫 p.103>