忠臣蔵の四十七士銘々伝(その4)大石主税良金は内蔵助の嫡男で最年少の義士

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大石主税

「忠臣蔵」と言えば、日本人に最も馴染みが深く、かつ最も人気のあるお芝居です。

どんなに芝居人気が落ち込んだ時期でも、「忠臣蔵」(仮名手本忠臣蔵)をやれば必ず大入り満員になるという「当たり狂言」です。上演すれば必ず大入りになることから「芝居の独参湯(どくじんとう)(*)」とも呼ばれます。

(*)「独参湯」とは、人参の一種 を煎じてつくる気付け薬のことです 。転じて( 独参湯がよく効くところから) 歌舞伎で、いつ演じてもよく当たる狂言のことで、 普通「 仮名手本忠臣蔵 」を指します。

ところで、私も「忠臣蔵」が大好きで、以前にも「忠臣蔵」にまつわる次のような記事を書いています。

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しかし、上に挙げた有名な人物以外にも「赤穂義士(赤穂浪士)」は大勢います。

そこで今回からシリーズで、その他の赤穂義士(赤穂浪士)についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.大石主税良金とは

大石主税

大石良金(おおいし よしかね)(1688年~1703年)は、赤穂浪士四十七士の一人で、通称は主税(ちから)、幼名は松之丞(まつのじょう)です。変名は垣見左内。「仮名手本忠臣蔵」では大星力弥(おおぼしりきや)。家紋は右二つ巴。

家紋・右二つ巴

父は大石良雄。母はりく。弟に大石吉之進と大石大三郎、妹に大石くうと大石るりがいます。本姓は藤原氏。家紋は右二ツ巴。

目が吊り上がった大柄な体躯でした。大石家は母親の血筋を受けてみな大柄で、錦絵などで主税もそのように描かれる場合が多く、身長は五尺七寸(172cm前後)です。

独身ですが、赤穂藩士山岡覺兵衛の娘が許嫁との説もあります。

2.大石主税良金の生涯

元禄元年(1688年)に播磨国赤穂藩筆頭家老大石良雄の嫡男として赤穂に誕生しました。幼いころに疱瘡を患ったということです。

松之丞(主税)が8歳の時、13歳の少年だった後の藤江熊陽(ゆうよう)忠康と矢頭右衛門七の二人が学友となりました。

忠康は21歳の時に伊藤仁齋の門に入って古儀古学を究め、後に隣藩である龍野藩脇坂家の侍講となって西播にその名を謳われました。藤江熊陽の墓は義士にもゆかりのある永應寺にあります。

元禄14年(1701年)3月14日(4月21日)、主君浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及んで即日切腹し、赤穂藩が改易となった時、良金は数え年で14歳であり、元服前でした。

赤穂城を幕府の収城使脇坂安照に引き渡した後、良金の父の良雄は遠林寺において藩政残務処理にあたりました。

この間の、5月11日(6月16日)、良金は生母りくや弟吉之進、妹くうとるりの四人を連れてりくの実家但馬豊岡藩家老石束毎公の屋敷へ向かいました。この豊岡滞在中に良金は毎公より脇差を与えられました。

その後、7月に良雄が京都山科へ移り住むと、りくや良金たちも山科へ移りました。このとき良雄は浪人となった旧赤穂藩士たちから誓紙血判状を受けて、浅野家御家再興運動に尽力中でした。

良金は、12月に元服して義盟に加わりました。翌元禄15年(1702年)4月、良雄は妻りくを離別して幼い子どもたちとともに再び実家の豊岡へ帰しましたが、良金は山科に残り父と行動を共にします。

7月、浅野長矩の弟浅野長広の広島浅野宗家への永預けが決まり、浅野家再興が絶望的となると、良雄は円山会議において吉良義央への仇討ち一本に決定しました。

9月19日(11月8日)、良金は良雄に先立って江戸に下り、垣見左内と名乗って江戸では日本橋石町三丁目(現東京都中央区日本橋本町)の宿屋小山屋弥兵衛店に滞在します。続いて下向してきた大石良雄もここに入りました。

12月15日未明。47名の赤穂浪士は吉良義央の屋敷へ討ち入り、良金は裏門隊の大将を務めました。討ち入りの戦闘剣豪といわれた若手が多く配属された裏門で殆ど行われ、将としての責任は良金のほうが父より重いものでした。

武林隆重が吉良義央を斬殺し、一同がその首をあげて高輪泉岳寺へ引き上げたのち、義士たちは幕府大目付に出頭しました。

幕府は赤穂浪士を四大名家にお預けとし、良金は堀部武庸、大高忠雄ら9名と共に松平定直(久松松平家・伊予松山藩)屋敷へ預けられました。松平家では良金らを罪人として厳しく扱った記録が残っています。寛大な対応を取った細川家と大違いだったようです。

鉄砲まで準備して監視し、見回り番、不寝番を置きました。「火の許不用心」という理由で煙草・暖房具(火鉢など)も禁じました。更にまだ処分も決まってない時期から、全員の切腹における介錯人まで決めてしまいました。

このことが「細川の 水の(水野忠之)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の 沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」(当時の狂歌)と批判されました。

翌元禄16年(1703年)2月4日、公儀により赤穂浪士へ切腹が命じられ、良金は同家お預けの10人のうち最初に切腹を仰せ付かりました。松平家家臣波賀朝栄の介錯で切腹しました。

享年16最年少の義士)で、主君浅野長矩と同じ泉岳寺に葬られました。戒名刃上樹剣信士

なお大石親子は、家格が殿様の名代が務める譜代の城代家老(代々世襲)のため、別格扱いで赤穂藩での菩提寺の花岳寺では、良金の戒名には院号の超倫院が付されています。

3.大石主税良金にまつわるエピソード

(1)討ち入り時の見事な働き

裏門隊長として攻め入り、屋外の敵を討ち取る任に当たりました。その時、同志の一人が大きな穴を見つけて「これこそ日頃聞いておる抜け穴だろう」と覗き込みましたが、暗くて中の様子が分かりません。

主税はそれを見て「かような時こそ少年相応の役廻り」と言いながら身を躍らせて飛びこみ調べました。

その剛胆さは、後に主税が松平邸へお預けになった時、木村岡右衛門がこの時のことを「我ら一党は何れも死を決した仲間であるから命の惜しかろう筈もない。然るにあの際、躊躇したことを思えば恥ずかしい。さすがは主税殿、ただただ感服の外はない。」と語り、「若輩なれど見事」と義士の間でほめられたということです。

(2)子供のいない主君から我が子同然に可愛がられた

子供のいない長矩からも、学の深い聡明さを愛でられ(良金は、赤穂生まれの藤江熊陽という学者に付き学んでいました。後に熊陽は龍野藩で藩儒となります)幼い時からわが子同然に可愛いがられたため、終生その恩を忘れませんでした。

(3)拝謁時に馬を拝領したいと堂々と請願した

幼少時に、お城で拝謁の折に馬を拝領したいと堂々と請願し、「流石は武士の子である」と殿様に褒められたという逸話があります。

(4)若輩ながら優れた判断力と統率力があった

原惣右衛門の堀部武庸宛書簡に「主税、年ぱいよりひね申し候」というくだりがあります。家老になっていたら、父以上の能力があったといわれます。

反目して父のもとから離脱しようとした堀部ら急進派の江戸組に対し、自ら人質志願し、父に先立ち江戸入りするほどの判断力と統率力がありました。良雄が江戸入りするまで、よく江戸若手チームの暴発を防ぎ、偵察などに全力するよう老将とともに指導しました。

(5)豊岡に母を訪ねた時の逸話と和歌

最後に母に会った時の心情を小野寺十内に話しています。

蒲団を通してほのかに母の体の温みがかよってきた様におもわれまする。しかし眼を明けて母に気まずい思いをさせてはならじと一心に瞼を閉じておりましたが、まなじりから涙がにじみ出て仕方がありませんでした。

その時に詠んだのが次の和歌です。

あふ時は かたりつくすと おもへども 別れとなれば のこる言の葉

(6)恋愛(男色)

京都滞在中の元禄15年(1702年)、四条河原の色子(歌舞伎役者)相山幸之助と衆道(男色)の契りを結んだということです。

(7)江戸の人気者

お預け中の話として、細川家世話役の「堀内伝右衛門覚書」に次のように記されています。

道すがら駕舁(かごかき)共申候は、四十六人の衆は昔の弁慶、忠信にはましたる人柄、男振までそろひ大男にて、就中(なかんずく)大石主税殿と申候は、若年に御座候へども大男大力にて其夜も大長刀にて弁慶にもまさりたると承候と申候。誠に心なき其日ぐらしの駕舁日雇のものまで奉感候事。

(8)両親の離婚を知らずに切腹

良金は両親の離婚を知らず切腹しています。証拠として良雄は、預け先の熊本藩邸経由で大目付(公儀最高の評定所)宛てに提出した自筆親類書では、妻りくを離縁した者として書いていますが(連座回避のための離婚)、良金が久松松平家経由で提出した親類書には、りくを母として認定し「両親」扱いで記載されています。

なお「大名家預かり」となったことは、幕府にとって「またもの(大名である殿様の更に「目下」の家来だから)」に過ぎない浪士たちが、「旗本格」としての扱いとなったことを意味しています。

(9)切腹後

介錯人が手柄顔で良金の首を振って検使に見せたので、 血が飛び散ったと言われる梅の木が「主税梅」として泉岳寺にあります。なお、良金の切腹を見守った堀部武庸の孀婦と自称する堀部ほりが、所有していた鉢植えの梅を移植したものとの異説もあります。

4.大石主税良金の辞世

極楽の 道は一筋 君と共に 阿弥陀を添えて 四十八人

江戸の地に しばしやすらふ かひもなく 君のためとて 捨つる身なるを

死出の旅 手に手を取って 行くからは 六の衢(ちまた)の 道しるべせん

溝ばたの 藪にはもれぬ 野梅かな