忠臣蔵の四十七士銘々伝(その10)小野寺十内秀和はおしどり夫婦で、妻は夫の切腹後自害

フォローする



小野寺十内秀和

「忠臣蔵」と言えば、日本人に最も馴染みが深く、かつ最も人気のあるお芝居です。

どんなに芝居人気が落ち込んだ時期でも、「忠臣蔵」(仮名手本忠臣蔵)をやれば必ず大入り満員になるという「当たり狂言」です。上演すれば必ず大入りになることから「芝居の独参湯(どくじんとう)(*)」とも呼ばれます。

(*)「独参湯」とは、人参の一種 を煎じてつくる気付け薬のことです 。転じて( 独参湯がよく効くところから) 歌舞伎で、いつ演じてもよく当たる狂言のことで、 普通「 仮名手本忠臣蔵 」を指します。

ところで、私も「忠臣蔵」が大好きで、以前にも「忠臣蔵」にまつわる次のような記事を書いています。

忠臣蔵に登場する人物は大石内蔵助を筆頭に人間の生き方についての示唆に富む!

赤穂藩主で松の廊下の刃傷事件を起こした浅野内匠頭とは?好色で無能な君主だった!?

浅野内匠頭はなぜ吉良上野介を斬ったのか?松の廊下刃傷事件の真相を探る!

吉良上野介は単なる意地悪な収賄政治家か?それとも名君か?

『忠臣蔵 瑤泉院の陰謀』は斬新な発想のドラマ

赤穂藩家老で義士の大石内蔵助の実像とは?仇討は不本意で豪遊・放蕩に耽った!?

四十七士のナンバー2吉田忠左衛門とはどのような人物だったのか?

大高源吾とは?赤穂浪士随一の俳人で宝井其角との両国橋の別れが有名

堀部安兵衛とは?高田馬場の決闘の助太刀として名を馳せた剣の達人

清水一学とは?堀部安兵衛と堀内道場の同門だった!?

荻生徂徠は赤穂浪士の切腹処分を主張した御用学者!

寺坂吉右衛門の逃亡の真相と謎の生涯とは?

江戸川柳でたどる偉人伝(江戸時代②)浅野内匠頭・大石内蔵助・吉良上野介・宝井其角・加賀千代女

しかし、上に挙げた有名な人物以外にも「赤穂義士(赤穂浪士)」は大勢います。

そこで今回からシリーズで、その他の赤穂義士(赤穂浪士)についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.小野寺十内秀和とは

小野寺十内

小野寺秀和(おのでら ひでかず)(1643年~1703年)は、赤穂浪士四十七士の一人で、通称は十内(じゅうない)です。雅号は里竜悦貫。変名は、仙北十庵。本姓は藤原氏。家紋は唐(から)花。

家紋:から花

資性温厚で文才に富んでいました。

2.小野寺十内秀和の生涯

寛永10年(1643年)、浅野家家臣・小野寺又八の嫡男として常陸国笠間(赤穂移封前の浅野家城地)に誕生しました。母は多川九左衛門の娘。

弟に岡野包住(岡野金右衛門包秀の父)、姉に貞立尼(大高忠晴の室。大高源吾忠雄と小野寺幸右衛門秀富の母)がいます。また間瀬久太夫正明・孫九郎正辰父子、中村元辰なども縁戚にあたります。

赤穂藩士として仕え、150石を知行。寛文末から延宝初年ごろの間に灰方佐五右衛門の娘の丹(たん)と結婚し、丹と秀和は仲睦まじい夫婦として知られ、丹の妹・いよも秀和の養女に迎えられました。

また、秀和は武道のみならず和歌、古典、儒学にも通じ、元禄7年(1694年)に京都留守居役(役料70石)を拝命したのを機に、京で儒者・伊藤仁斎に経史を学び、さらに夫婦で歌人・金勝慶安に師事して数々の和歌を残しています

元禄14年(1701年)3月14日、主君・浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及び、浅野長矩は即日切腹、赤穂藩は改易と決まりました。

京都でこの凶報に接した秀和は老母と妻を残し、鎧一領、槍一筋を具して篭城討死覚悟で赤穂へ駆けつけました。

恩義ある浅野家に忠義を尽くすのは当然と、息子(養子・小野寺幸右衛門秀富)と義盟に加わりました。

赤穂城開城では大石良雄の右腕として活動江戸幕府目付・荒木政羽、榊原政殊の接待役にあたりました。

赤穂城明け渡し後、6月に京都に戻りました。基本的にはその後も大石派(お家再興優先派)として行動し、7月に大石が長矩の親族である戸田氏定(大垣藩主)に主家再興の嘆願に訪れた時も同道しています。

その後、長矩の実弟・浅野長広に広島本家お預りが決まり、主家再興の望みが消えると、大石良雄は仇討ちを確定し、元禄15年(1702年)10月に秀和も瀬尾孫左衛門とともに江戸へ下り、大石の嫡男・大石良金や養子秀富と麹町中村宿宅にて同居しました。

その後も討ち入りまでの間、大石良雄をよく補佐し続けた秀和ですが、元禄15年(1702年)4月21日には養女いよ、9月5日には弟の岡野包住、9月9日には母と、この頃立て続けに血縁を失っています。

12月14日の吉良邸討ち入りでは裏門隊に属して吉田忠左衛門兼亮、間喜兵衛光延とともに裏門隊大将大石良金の後見にあたりました。

討ち入ろうとした直前、二人の敵が屋敷から飛び出し逃げようとしたので、大石・吉田・間・片岡らと一緒にこれを取り囲み、秀和は槍で杉松三左衛門を討ち取っています。もう一人の牧野春斎は間が突き殺しました。その後邸内に皆で入り、秀和はさらに二人の敵を倒していまs。

武林隆重が吉良義央を斬殺し、一同がその首をあげたあとは、大石良雄らとともに熊本藩主・細川綱利の下屋敷へお預けとなりました。細川家にお預け中は、妻丹と折に触れて和歌のやりとりをしています。

元禄16年(1703年)2月4日、幕府の命により細川家家臣・横井時武の介錯で切腹。享年61戒名刃以串剣信士で、主君浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られました。

3.小野寺十内秀和にまつわるエピソード

小野寺十内の妻

(1)夫婦ともに歌人

①夫:赤穂藩随一の歌人

金勝慶安(兼沢)門下で「赤穂随一の歌人」といわれ、多数の秀歌が遺されています。妻の丹も同門の歌人で「涙襟集」に丹との和歌贈答集が死後に編まれました。

②妻:丹(お丹)

夫婦の絆が強く、妻の丹は秀和の死後の6月18日、京都本圀寺で絶食して自害し、夫の後を追いました。

丹は武具奉行150石の灰方佐五右衛門の娘で、兄の藤兵衛の脱盟を憤って兄妹の縁を切っています。

小野寺十内切腹後の丹は夫と倅、義理の甥・大高源五、岡野金右衛門の名を彫った墓石を東山仁王門通り西方寺に建てて一族の冥福を祈り、四十九日の仏事をすました後、京都猪熊五条下ル日蓮宗木国寺の塔中了覚院で絶食して自らの命を絶ちました。

命日は元禄16年6月18日、戒名は梅心院妙薫日姓信女、墓所は京都市左京区今堀川傍の久成院。

丹の辞世は次の二首です。

夫(つま)や子の 待つらんものを 急がまし 何かこの世に 思ひ置くべき

うつつとも 思はぬ内に 夢さめて 妙なる法の 華にのるらむ

(2)庶子

養子・小野寺幸右衛門秀富(大高源吾忠雄の弟)、養女いよとは別に、妾との間に徳之丞という庶子があり、連座を怖れて各地を放浪したとも伝わります。

4.小野寺十内秀和の辞世・遺言

まよわしな 子とともに行く 後の世は 心のやみも はるの夜の月

※子は小野寺幸右衛門のこと

むさし野の 雪間も見へつ 古郷の いもか垣根乃 草ももゆらん

今ははや 言の葉草も なかりけり 何のためとて 露結ぶらむ

我が罪は 人のるたびに さゝりけり なにとあらしに 迷ふ山風

忘れめや 百に余れる 年を経て 事へし代々の 君がなさけを

遺言:

①切腹前日の妻への手紙

「我等事御仕置にあって死するなれば、かねて申しふくめ候ごとくに、そもじも安穏にても有るまじきか。さ候はば予て覚悟の事驚き給ふ事も有るまじく、取り乱し給ふまじきこと心易く覚え候。(後略)(前略)

幸右衛門事も心易く思ひ給ふべし、我が歌にてあきらめ給へかし。『まよはじな子と共に行く後の世は心のやみもはるの夜の月』死ぬべきわれならば、故里も忘れたるらむかと思ひぬさるべきか。

此の歌此の頃思ひ付き候まま申し入れ候。膳ぶに色々の春の野菜出されたるをみて『武蔵野の雪間も見えずふるさとのいもが垣根の草も萌ゆらむ』(後略)(前略)そもじは引きとるべき身よりもなし。あはれとや申さん。

えこういん殿へ御心得頼み入り申し候。いかさま書きても尽すまじければこれまでに候。親子とも腹切って死にたりといふ左右ほどなぅ聞え申すべく候。何事も人界の常なきを悟り申され候より外あるまじく候」

②弓削太郎左衛門が京都にいるから今日の様子をお伝え下さい。そうすれば妻のたんの方へも通じる