忠臣蔵の四十七士銘々伝(その27)間十次郎光興は吉良上野介を炭小屋で発見し一番槍をつけた

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間十次郎

「忠臣蔵」と言えば、日本人に最も馴染みが深く、かつ最も人気のあるお芝居です。

どんなに芝居人気が落ち込んだ時期でも、「忠臣蔵」(仮名手本忠臣蔵)をやれば必ず大入り満員になるという「当たり狂言」です。上演すれば必ず大入りになることから「芝居の独参湯(どくじんとう)(*)」とも呼ばれます。

(*)「独参湯」とは、人参の一種 を煎じてつくる気付け薬のことです 。転じて( 独参湯がよく効くところから) 歌舞伎で、いつ演じてもよく当たる狂言のことで、 普通「 仮名手本忠臣蔵 」を指します。

ところで、私も「忠臣蔵」が大好きで、以前にも「忠臣蔵」にまつわる次のような記事を書いています。

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しかし、上に挙げた有名な人物以外にも「赤穂義士(赤穂浪士)」は大勢います。

そこで今回からシリーズで、その他の赤穂義士(赤穂浪士)についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.間十次郎光興とは

間十次郎光興

間 光興(はざま みつおき)(1678年~1703年)は、赤穂浪士四十七士の一人で、通称は十次郎もしくは重次郎(じゅうじろう)です。変名は杣荘十次郎(そまのそう じゅうじろう)。

は堀内源左衛門正春(真心影流)門下で堀部安兵衛・奥田孫太夫と並ぶ達人で、槍術を水沼久太夫に学び山鹿流兵学を学んだ武芸者でした。

[家紋]三階松

2.間十次郎光興の生涯

延宝6年(1678年)、播磨国赤穂藩士・間光延の長男として誕生しました。弟に間 光風がいます。

元禄14年(1701年)3月14日、主君の浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及んだことで切腹となり、赤穂藩が改易となったとき、光興はまだ部屋住みの身分でした。

しかし知らせを受け、父親と共に登城して最初から義盟に加わります

吉良への仇討ちを決定した円山会議の後に江戸へ下向し、杣荘十次郎(そまのそう じゅうじろう)を名乗って潜伏しました。

元禄15年(1703年)12月15日の吉良屋敷討ち入りには父や弟とともに参加し、表門隊に属しています。

大高忠雄とともに邸内へ一番乗りし、忠雄と近松行重と組んで屋敷内で奮戦しました。光興たちが炭小屋を探索し、中にいた人物の一人に光興が初槍をつけ、武林隆重が斬殺しました。死体を改めると吉良義央と判明し、光興が首をはねました

浪士たちは浅野長矩の墓所・芝泉岳寺へ引き揚げ、一番槍をつけた光興が最初に焼香した。三河岡崎藩水野忠之の芝中屋敷にお預けとなりました。

仙石久尚からの「九人は長屋に差し置くべし」との指示で、間ら全員は使っていない部屋にまとめて収容され、外から戸障子などを釘付けにされるという厳しい扱いを受けました。また、藩士に昼夜問わず長屋の内外を巡回させ、見張りを厳重にしました

水野は、義士について何の感想も感情も示していませんが、岡崎藩の記録では「九人のやから、差し置き候庭のうちへも、竹垣これをつむ」と敬意が微塵もありません。

二重の囲いを設けて逃亡を警戒したり、「臥具増やす冪あり申せども、その儀に及ばず初めの儘にて罷りあり」と「寒気強く候」にもかかわらず寝具の増量を拒絶したなどの記述があります

元禄16年(1703年)2月4日、幕命により光興は、水野家家臣・青山武助の介錯により切腹しました。享年26

戒名刃澤藏劔信士で、主君・浅野内匠頭長矩と同じ高輪の泉岳寺に葬られました。

3.間十次郎光興にまつわるエピソード

(1)吉良上野介に一番槍をつけた功労者

台所近くの炭部屋に踏み込むと、奧に誰か居る気配なので槍をつけました。うめき声がしたので武林唯七が一刀を浴びせて討ちとめました。

引きずりだして見ると白綸子の下着を着ています。これは普通の人ではないと、灯りで照らして見ると背中にうすく傷跡がありました。

これこそ吉良上野介であろうというので呼び子の笛を吹いて一同を集め、大石内蔵助が止めをさしました。

そのあと第一発見者として首級をあげ、泉岳寺では一番に焼香する栄に浴しています。

なお、光興は武林隆重と親しく、彼ら二人が吉良への一番槍と絶命という武功を挙げたことになります。また、隆重の兄に宛てた手紙が現存しています。

(2)武芸

光興は間家伝来の天流剣術を父から、起倒流柔術を藩士の平野頼建からそれぞれ学びました。江戸の著名な剣客であった堀内正春の道場では堀部武庸や奥田重盛とともに堀内流剣術を学んで高弟に数えられ、さらには槍術を水沼久太夫に学んだ武芸者でした。

(3)渡辺半右衛門宛の手紙

「渡辺半右衛門宛書簡抄(11月5日付)」には、江戸における長屋住まいの生活が記されています。

「(前略)私共居候処は麹町新五丁目にて候。同名喜齋儀も道中無事に先月十七日爰元へ致着申候。大食いたし被申笑申事にて御座候。

御気遣被下間舗候。私共家は表口壱間半に裏へ七間ほど御座候家にて御座候。畳は十二畳ほどしけ申候。

千馬三郎、同名喜齋、私、弟四人居申候。先月廿三日迄は中田藤内居申候か、俄に故郷恋しく罷成候哉廿三日之晩、爰元に林小左衛門と申仁御座候、藤内一家の者之由、是へ参候とて出申候か、廿四日の朝、小左方より発足上京申候。

扨々にくきやつにて御座候。(略)爰元の様子もいまだいつとても知不申候、然共当月中には善悪知可申候(下略)」

(4)遺品は泉岳寺の住職が無断で売却

「脇差 吉光二尺」は泉岳寺の住職が無断で売却して寺の費用に充てたため、現存しません。

(5)『赤穂義士銘々伝 間十次郎』あらすじ

講談「十次郎親子別れ」など忠臣蔵ものでは、光興の妻は夜鷹、一人息子は乞食をして暮らしていましたが、両人とも瘡頭になり死んだという話があります。(また、不憫に思う光興が両名を手に掛けた、あるいは母が子の喉を刺した後に自害したとする話もあります。)

光興は「魂この世にあらば見物あれ」と討ち入りに参加、見事一番槍の手柄を立てます。

しかし史実では、光興に妻子は存在しません。赤穂義士が切腹前に提出した『親類書』にも光興には「妻子なし」と記されています。

浅野家が改易になった際、間十次郎は江戸詰めであった。その日のうちに屋敷を引き払って播州・赤穂まで行かなければならない。女房と子供を連れてでは足手まといである。そこでかねてから懇意にしていた浅草田原町の植木屋喜平次の元を訪れ、妻の織江と子の十太郎とを預かって欲しいと頼む。喜平次は十次郎にはいろいろと世話になっていたので、その恩返しにと快く引き受ける。喜平次の家には大勢の職人がいるので気兼ねさせてはならないと、向島・牛の御前に九尺二間の長屋を借り、ここに二人を住まわせる。毎月、米・味噌・醤油と幾許かのお小遣いを与えて面倒を見る。

しかし翌年一月、喜平次は芸州浅野家の庭のやり替えで、職人15人ほどを連れて広島まで旅立たなければならなくなった。そこで女房のおしまに間十次郎の妻子の世話を頼むのであった。おしまは挨拶をしに二人が住む長屋まで行く。入り口でみた7歳になる子、十太郎を見てびっくりする。この子が他人の空似で喜平次によく似ているのだ。間様の妻子だなんてとんでもない、喜平次の愛妾とその倅だと勘違いする。この誤解が元でおしまは二人に対する仕送りを絶ってしまった。二人にはもう二ヶ月も何も届かないが、好意でしてもらっていることなので催促するわけにもいかない。織江は手内職をして暮らしを立てる。こうしている間にも十次郎からは何の連絡も届かない。

秋口になってふとした病から織江は寝込んでしまう。お医者様を頼むにも金がない。途方に暮れた十太郎は向島の橋の袂に立っていると、往来の人が物貰いと間違えて1文、2文とお金をくれる。こうして十太郎は袖乞いになり、少しずつ金を貰っては米を買いそれを母親に食べさせている。7歳の子供に袖乞いさせているとは母親も辛い。

12月14日、この日は雪で通る人もいなく、十太郎は金を貰うことが出来ない。暮れ六つの鐘が鳴ってもお貰いが無い。そこへ雪を踏みしめ歩いてきた一人の侍。十太郎は前に座り頼み込むと、これが父親の十次郎である。十太郎はこれまでの事を語る。吾妻の渡しで待っていた木村、武林の両名には事情を話し、十次郎は十太郎とともに妻の織江のいる長屋へと向かう。「父上がお帰りになりました」と喜んで母親に伝える十太郎。

十次郎は織江と再会し、喜平次を過信していたことを詫びる。十次郎は今度、鍋島藩に100石で仕官することになったと語る。しかし織江はこれを喜ばない。吉良上野介を討ち、浅野内匠頭の無念を晴らすのを待っていたと言う。十次郎は立派な妻であると思う。実は今夜吉良邸に討ち入りすると伝えたかったが、妻子眷属に至るまで口外してならないとの固い誓いがある。十次郎が「新しい家に仕官して少しは楽をして暮らそう」というと、織江は「考え直してください」と返す。明朝必ず戻るからと告げて十次郎は長屋を離れる。織江は十太郎とともに「忠義のため」に死ぬ覚悟である。

もうすぐ九つ、十次郎はもう今なら伝えても良いだろうと思いなおし、妻子のいる長屋へと戻る。まさに今、織江が十太郎の喉を短剣で突こうという時だった。十次郎は、鍋島家に仕えるというのは嘘である、今夜吉良邸に討ち入る手はずであると語る。織江は喜び、「心置きなくお働きください」と見送る。こうして妻子の期待に応え、間十次郎は吉良上野介の隠れ場所を発見し、一番槍を入れたのであった。

4.間十次郎光興の辞世・遺言

終にその 待つにぞ露の 玉の緒の 今日(けふ)絶てゆく 死出(しで)の山道

遺言:「剣の同門である細井広沢に鉄帽を贈りたい」