忠臣蔵の四十七士銘々伝(その42)吉田沢右衛門兼貞は赤穂藩随一の美男子で孝行息子

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吉田沢右衛門

「忠臣蔵」と言えば、日本人に最も馴染みが深く、かつ最も人気のあるお芝居です。

どんなに芝居人気が落ち込んだ時期でも、「忠臣蔵」(仮名手本忠臣蔵)をやれば必ず大入り満員になるという「当たり狂言」です。上演すれば必ず大入りになることから「芝居の独参湯(どくじんとう)(*)」とも呼ばれます。

(*)「独参湯」とは、人参の一種 を煎じてつくる気付け薬のことです 。転じて( 独参湯がよく効くところから) 歌舞伎で、いつ演じてもよく当たる狂言のことで、 普通「 仮名手本忠臣蔵 」を指します。

ところで、私も「忠臣蔵」が大好きで、以前にも「忠臣蔵」にまつわる次のような記事を書いています。

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しかし、上に挙げた有名な人物以外にも「赤穂義士(赤穂浪士)」は大勢います。

そこで今回からシリーズで、その他の赤穂義士(赤穂浪士)についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.吉田沢右衛門兼貞とは

吉田沢右衛門兼貞

吉田兼貞(よしだ かねさだ)(1675年~1703年)は、赤穂浪士四十七士の一人で、通称は沢右衛門(さわえもん)です。変名は田口左平太、町人 佐助。

元禄14年の凶変時は部屋住み(蔵奉行説あり)の身で29歳。開城後は父と共に加東郡に退きひたすら時機を待ちました。兼貞を兼定とする書もあります。

家紋 丸に剣花菱

2.吉田沢右衛門兼貞の生涯

延宝3年(1675年)、赤穂藩士・吉田忠左衛門兼亮の三男として生まれました。母は熊田新八の娘りんです。幼名は千之丞。のち文蔵と称しさらに沢右衛門と変えました。兄2人は夭折・早世したため、吉田家の嫡男とされました。

父と同様に赤穂藩に仕え、家督前の部屋住みでしたが、分限帳のなかには10両3人扶持の近習兼蔵奉行としているものもあります。

元禄14年(1701年)3月14日に江戸城で主君浅野長矩が吉良義央に刃傷に及び赤穂藩は改易されました。

浅野家が改易されると主に父と行動を共にしました。

60歳を過ぎた父親が仇討ちのために奔走する姿をみて元禄14年7月28日の円山会議前後より同志に加わっています。8月下旬に京都を発ち下向し、9月2日に江戸に到着。父とともに新麹町六丁目大屋喜右衛門裏店に同居し、以後吉良邸の探索に奔走します。

吉良邸討ち入りの際には父とは別に表門隊に所属しました。

討ち入り後は長府藩毛利家に預けられた。元禄16年(1703年)2月4日毛利家家臣・進藤為右衛門の介錯で切腹しました。享年29

戒名刃当掛剣信士で、主君浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られました。

京都市の本妙寺の境内にも墓がありますが、宝永元年(1704年)に綿屋善右衛門という商人が建てた、遺骸の埋葬を伴わない供養塔です。しかし同5年(1708年)の宝永の大火で焼失し、現在の新しい石塔は再建されたものです。

3.吉田沢右衛門兼貞にまつわるエピソード

(1)赤穂藩随一の美男子

赤穂藩浅野家随一の美男子と伝わります。

(2)妹のおさんが寺坂吉右衛門の面倒を見る

伊藤十郎太に嫁し本多中務大輔の家臣として仕えた夫を支えました。

父の忠左衛門と兄の沢右衛門が切腹した後は寺坂吉右衛門夫妻を引き取り長年生活を共にしました。

次兄の吉田伝内が伊豆大島での連座の刑を終えて江戸に帰った時、寺坂吉右衛門に出迎させ江戸で僧籍を得るべく世話を命じています。

4.吉田沢右衛門兼貞の辞世・遺言

辞世・遺言ともに無し。