「マイウェイ」はポール・アンカがフランク・シナトラの人生をイメージして作詞した!

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フランクシナトラ

1.「マイウェイ」誕生秘話

「マイウェイ」と言えば、アメリカの代表的なジャズ・ポピュラー歌手で俳優でもあったフランク・シナトラ(1915~1998)の代表曲ですが、この曲については面白いエピソードがあります。

「マイウェイ」は、フランスの歌手クロード・フランソワの楽曲「Comme d’habitude」(コム・ダビテュード/いつものように)にポール・アンカ(1941~ )が1969年に英語詞を付けたものです。この曲は、124週にわたってシングルチャートに、51週にわたってアルバムチャートにとどまる大ヒットとなりました。カバーされた回数が史上2位と言われています。

なお、「マイウェイ」の歌詞は、ポール・アンカがフランク・シナトラのことをイメージして書いたもので、原曲とは無関係です。

最初、この曲をもらった時、フランク・シナトラは、あまり気に入らなかったようです。当時のフランク・シナトラは、「ポップソングを歌うのがもう嫌でうんざりしており、本当はとっととこんな仕事はやめたいのだ」とポール・アンカに語っていたそうです。

2.フランク・シナトラとは

フランク・シナトラは、イタリア系移民の子で、20歳の頃からイタリア人トリオに参加して全米巡業してレストランやバーで歌手活動を行いましたが、レストランなどを牛耳っていたマフィアとの関係も、このころ出来たそうです。

その後、楽団の専属歌手としてプロデビューし、人気が高まります。1941年に日米が開戦すると、彼も兵役を志願しますが、生まれた時の難産で鼓膜が破れていたため、不合格となりました。

そこで、「慰問部隊」の歌手の一人として、全米の基地や欧州前線を回ったほか、レコードのリリースや、戦意高揚のためのプロパガンダ映画にも出演しました。

アメリカ全土から若者が戦場に赴いた結果、若々しい歌声のフランク・シナトラに、若い女性たちは熱狂し、たちまち「アイドル」となりました。

しかし。戦時中の熱狂の反動で、戦後は人気が低迷した上、喉の疾患で一時声が出なくなり、スランプに陥ります。

そのまま「過去の存在」「過去の人」になるかと思われましたが、1953年に第二次大戦前夜のアメリカ軍兵士を描いた文芸映画「地上より永遠に」に、脇役ながら「イタリア系アメリカ人兵士」役で出演し、「アカデミー賞助演男優賞」を獲得し、奇跡的なカムバックを果たします。

彼のこのようなエピソードは、マフィアを描いた映画「ゴッドファーザー」でも取り上げられています。

話が脱線しますが、金井克子さんの「他人の関係」という曲についても、面白いエピソードがあります。金井克子さんと言えば、スタイル抜群でダンスもキレがよく人気がありましたが、やがて人気が低迷し、もう歌手をやめようかと思っていた時に、この曲に出会ったのです。「この曲がヒットしなければ、きっぱり歌手をやめよう。最後の勝負の曲にしよう」と臨んだこの曲ですが、振り付けとアンニュイな歌唱がよかったのか、大ヒットしたのです。

3.日本語版「マイウェイ」

閑話休題、話を元に戻しましょう。現在、日本のカラオケには、フランク・シナトラの英語版の原曲のほかに、布施明さんの日本語版と、クミコさんの日本語版が入っています。

布施明さんの方は、「歌手」として「我が道」を歩んできたことを誇り高く思い振り返る様子を、力強く歌ったもので、布施明さんが本人のことを歌っているようでもあります。

しかし、クミコさんの方(訳詞:岩谷時子)は、原曲の歌詞に近い内容で、「人生の最後を迎えた人が、静かに友人に、自分の歩んできた苦難の道を振り返って、『精一杯生きて来た。後悔はしていない』としみじみと話しかける」もので、少し暗い感じはしますが、歌い方も淡々としています。

「一年の計は元旦にあり」と言いますが、私も、人生の最後にこの曲のような心境になれるよう、精一杯残りの人生を有意義に生きて行きたいと思います。

My Way (マイ・ウェイ) – Frank Sinatra (フランク・シナトラ) 和訳付き