「大坂冬の陣図屏風」の発注者は誰か?また描いた画家は誰か?

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大坂冬の陣屏風デジタル復元

大坂冬の陣図屏風(デジタル想定復元)完成記念 夏の展示 大坂冬の陣・夏の陣図屏風~豊臣VS徳川 激闘の記憶~」が、2020年7月23日から10月7日まで大阪城天守閣で開催されています。

1614年の大坂冬の陣を描いた「大坂冬の陣図屏風」については、江戸時代後期に描かれた模写本が東京国立博物館に所蔵されているだけで、原本は行方不明です。しかも、この模写本は、「狩野家に伝わっていた色の指示が書き込まれている未完成版(下絵)」です。そこで、凸版印刷が最新のデジタル技術を駆使し、昨年同屏風図を復元しました。

今回の展示では、デジタル想定復元された大坂冬の陣図屏風とともに、大阪城天守閣が所蔵する「大坂夏の陣図屏風」も展示しています。

1.「大坂冬の陣図屏風」の発注者は誰か?

大坂冬の陣屏風

NHKBSプレミアムの「英雄たちの選択」という番組で、「謎の屏風が語り出す~復元推理大坂冬の陣図屏風」が放送(2019年8月14日)されました。

番組では、この屏風の発注者が誰であるかを、歴史家の小和田哲男氏、歴史家の平山優氏、復元プロジェクトに関わった城郭考古学者の千田嘉博氏、そして番組司会の磯田道史氏が推理しました。

(1)「真田信之」説

これは、「真田丸の活躍を中心に描いていること」から、真田家ゆかりの真田信之ではないかという推理です。

小和田氏が「謀反を疑われるような立場にいた信之が、これを描かせるのは危険ではないか?」と指摘し、平山氏も「信之は自分は徳川の武将という意識が強く、豊臣にはそれほどシンパシーがなかったのではないか?」と指摘し、却下されました。

(2)「伊達政宗」説

次に登場したのは「九陽紋(くようもん)の軍勢が描かれていること」から、九陽紋を用いていた伊達政宗ではないかという推理です。

伊達政宗の家臣の片倉氏が真田信繁から娘を託されているし、伊達政宗は豊臣家に十分シンパシーを感じていたと思われるからです。

これについては「政宗ならもっと自分を中心に描かせただろう」との指摘があり、「ほとんど活躍しなかった冬の陣よりも活躍した夏の陣を描かせたのでは?」という疑問が出て、却下されました。

(3)「徳川秀忠」説

千田氏は、「秀忠の陣がかなり大きく描かれていることと、あえて家康の存在を消すかのように家康の陣は半分しか描かせていないのが秀忠らしい」と推理します。

しかし、秀忠が描かせたにしては豊臣方が活躍し過ぎているのが気になります。それに秀忠が描かせたのであれば、徳川家にきちんと原本が保存されているはずだとの指摘がありました。

(4)「蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)」説

平山氏は、「屏風中央下で戦闘している蜂須賀至鎮」説を提案しました。彼は元々豊臣大名であったので、豊臣方に対するシンパシーもあるからです。彼は製塩でかなり儲けていたので財力もあったそうです。

しかし、屏風に描かれている蜂須賀勢は、明らかにやられているシーンなので、蜂須賀至鎮が描かせたというのは疑問だとの意見が出ました。

(5)「千姫」説

最後に磯田氏が「秀頼とともに過ごした大坂城には愛着があり、化粧料10万石と財力も十分にあった千姫が依頼者ではないか?」という面白い説を提示しました。

家康も秀忠も千姫に対しては後ろめたさもあるので千姫の要求は拒めないし、千姫にとって大坂城は懐かしい夫との思い出の場でもあるからです。千姫に懇願されて秀忠が渋々描かせたという推理です。

徳川家にとっては「豊臣方の勝利」ばかりが描かれた恥になる屏風なので、千姫の死後密かに処分したということもありうる話です。

(6)「豊臣秀頼

これは2019年7月3日に放送された「歴史秘話ヒストリア」の「よみがえる大坂の陣 幻の金屏風 誰が描かせたのか」の時に出されていた推理です。

冬の陣の後に豊臣秀頼が発注したが、翌年の夏の陣で秀頼が自決に追い込まれ、豊臣家が滅んでしまったため、完成品が作られなかった」という説です。「豊臣秀頼本人が『和平』を記念して描かせた」というわけです。

これはかなり説得力があります。

2.「大坂冬の陣図屏風」を描いた画家は誰か?

これは狩野家に伝わっていた屏風なので、「狩野派」の絵師が「下絵」(下書き)を描いた段階で、何らかの理由で中断したようです。上記の1.(6)の「豊臣秀頼」説が正しいとすると辻褄が合います。

3.「大坂の陣図屏風」について

大坂夏の陣図屏風(右隻)

(1)概要

左隻と右隻(上図)とがあり、各々150.3cm×360.7cmの大画面に、人物5071人、馬348頭、幟1387本、槍974本、弓119張、鉄砲158挺などが精緻に描かれています。

右隻には、1615年6月3日の大坂夏の陣の最後の戦いの様子が、左隻には、大坂城の落城間際と落城後の大混乱の様子が迫真的に描かれています。

この屏風の大きな特徴は、左隻全面に、逃げようとする敗残兵や避難民と、略奪・誘拐・首狩りをしようとする徳川方の兵士や野盗のいわゆる「乱妨取り(らんぼうどり)」が描かれていることです。

このような生々しい描写は、他の合戦図屏風には見られず、「戦国のゲルニカ」とも評されています。

筑前福岡藩黒田家伝来で、「黒田屏風」「黒田本」とも呼ばれています。

(2)発注者

福岡藩の故実によると、徳川秀忠に属して合戦に参加し豊臣方と戦った黒田長政(1568年~1623年)が、この戦いを記録するために筆頭家老の黒田一成、または家臣の竹森貞幸に命じて当代一流の絵師を集めて描かせたということです。

(3)制作者

制作時期は、生々しい描写から陣後間もなくだと推測されています。描いたのは「八郎兵衛」なる絵師が一人で描いたとする説や、土佐派を学んだ「久左衛門」とする説、「八郎兵衛」と「久左衛門」の合作とする説、左隻だけはやや後に別の絵師が描いたとする説、同一工房内の複数の絵師が描いたとする説などがあります。

なお、左隻には「岩佐又兵衛風」が認められることから、又兵衛が制作に関わった可能性も指摘されています。制作を命じられた黒田一成は、元々荒木村重の家臣の息子で、岩佐又兵衛が村重の息子というつながりを考えると、可能性は十分にあります。

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