NHK大河ドラマ「いだてん」の大不振を見て、私のオリムピック噺を考えました

友情のメダル

今年のNHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」は大河史上最低の視聴率を記録するなど、大不振、大惨敗となっており、脚本家の宮藤官九郎にも少なからぬダメージを与えたのではないかと思います。

ついこの間、「『いだてん』 低視聴率の原因と対策を考える」という記事を書きましたので、言わずもがなの話になります。しかしどう考えても、もったいないという気持ちが捨てられません。

そこで、「もし私がNHKの制作担当プロデューサーだったら」という仮定の下に、私なりの「オリムピック噺」を考えてみました。

1.NHK大河ドラマの「時代」と「主人公」の選択

「時代」としては、多くの人が関心を持っているのが戦国時代から江戸時代、幕末から明治維新なので、この時代を取り上げるのが無難です。

「主人公」としては、歴史上有名な人物を選ぶのが無難です。長丁場の大河ドラマですから、無名の主人公ではネタが続かずとても1年間は持ちません。オリンピック選手なら、金メダリストかそれに匹敵するメダリストでないと誰も知らないと言っても過言ではありません。今年の主人公の金栗四三のように途中棄権した人なら感動も生まれません。

これ以外の「時代」や「主人公」を取り上げる場合は、よほど「視聴者へのサービス精神」を発揮した工夫が不可欠です。

2.オリンピックムードを盛り上げるつもりが盛り下げてしまっては「がっかり」

「オリンピック名選手物語」という趣向で行くなら、棒高跳びの「友情のメダル伝説」で有名な西田修平と大江季雄、「前畑ガンバレ」の実況で有名な水泳の前畑秀子、そして「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた水泳の古橋広之進の三組4名のオリンピックアスリート達を「オムニバス形式」で戦前2篇と戦後1編の三つの独立した物語(1編4ケ月)として放送するやり方もあったと思います。

(1)西田修平(1910年~1997年)と大江季雄(1914年~1941年)

西田修平

(西田修平)

大江季雄

(大江季雄)

1936年に開催されたベルリンオリンピック、男子棒高跳びにおいて、日本人選手二人が決勝に進出しました。

決勝に残ったのは5人ですが、5時間にわたる激闘の末に、アメリカのメドウス選手が4m35cmを跳んで優勝を確定しました。西田修平と大江季雄は、ともに4m25cmを跳んで、メダルを確定しました。

夜の9時を過ぎて2位を決める順位決定戦の際、両選手は競技を打ち切るよう審判に要請しました。その理由は競技が長時間に及んでいることもあり、「これ以上同じ日本人同士が争うべきではない」というものでした。

それは二人とも銀メダルになると思っての要請でした。しかし、審判の判断は、4m25cmを1回目で跳んだ西田を2位、2回目で跳んだ大江を3位としました。

表彰式で表彰台に上る際、これからの活躍を願うという思いから、2位の西田選手は大江選手を2位の表彰台に上るようそっと送り出します。

こうして、大江選手は銅メダルを胸に光らせて、2位の表彰台に立って表彰されました。

オリンピックが終了して帰国した二人は、互いの健闘を称えあい、銀と銅のメダルをつなぎ合わせました。これが有名な「友情のメダル」です。 

西田修平は、競技生活終了後、審判・監督として活躍し、日本陸上競技連盟理事長や日本オリンピック委員会委員も務めました。

一方、大江季雄は、1939年陸軍に召集され、1941年フィリピン・ルソン島での戦闘で戦死しました。27歳の若さでした。

(2)前畑秀子(1914年~1995年)

前畑秀子

彼女は、和歌山県の豆腐屋の娘で、紀ノ川で泳ぎを覚えました。尋常小学校5年生の時、50m平泳ぎで「学童新記録」を出し、高等小学校2年生の時は汎太平洋女子オリンピックに出場し、100m平泳ぎで優勝、200m平泳ぎで準優勝しました。

彼女は当初、高等小学校を卒業したら学業も水泳もやめて家業の手伝いをするつもりでした。しかし、彼女の才能に注目した学校長などの勧めもあり、水泳の名門校である名古屋の椙山女学校(現・椙山女学園)に進みました。

1932年のロサンゼルスオリンピックでは200m平泳ぎに出場し、銀メダルを獲得しました。この時、金メダリストとのタイム差は0.1秒でした。

両親が相次いで亡くなったという家庭の事情もあり、彼女は大会後は引退を考えていましたが、祝賀会に駆け付けた当時の東京市長永田秀次郎氏から「なぜ君は金メダルを取らなかったのか?0.1秒差ではないか。無念でたまらない」と涙を流さんばかりに説得され、現役続行を決意します。

このような周囲の期待に後押しされ、その後は1日2万mも泳ぐ猛練習を重ねました。そして1933年には200m平泳ぎの世界新記録を樹立します。

そして3年後の1936年に行われたベルリンオリンピックの200m平泳ぎに出場し、ドイツのゲネンゲルとのデッドヒートを繰り広げ、1秒差で見事金メダルを獲得しました。

ラジオ実況を担当したアナウンサーが、この真夜中(日本時間)のデッドヒートを伝えるに当たって、「スイッチを切らないでください」という言葉から始めました。そして、前畑がゲネンゲルと凄絶なデッドヒートを展開するに及んで「「前畑ガンバレ!前畑ガンバレ!」と20回以上も絶叫・連呼した話は有名です。

彼女はその後も、世界記録を何度も更新しています。

現役引退後は、椙山女学園の職員として、後進の育成に努め、「ママさん水泳教室」を開くなど水泳の一般への普及にも大いに貢献しました。

(3)古橋広之進(1928年~2009年)

古橋広之進

終戦直後、食糧難という事情もありますが日本国民全体に敗戦による虚脱感が漂っていた時期に、彼は水泳界で次々と世界新記録を樹立して、「フジヤマのトビウオ」という異名を取り、国民を大いに元気づけました。

1947年の「日本選手権」では、公式記録とはなりませんでしたが、400m自由形で当時の世界記録を上回るタイムを出しました。

敗戦国の日本は、1948年のロンドン五輪への参加が認められませんでした。これは、「戦っている者たちも、戦をやめてスポーツに参加しよう」という本来の「オリンピック精神」や「オリンピック憲章」に明らかに反していると私は思います。

1948年のロンドン五輪水泳決勝と同日に開催された「日本選手権」において、彼は400m自由形と1500m自由形で、ロンドン五輪金メダリストの記録および当時の世界記録を上回るタイムで優勝しています。「幻の金メダリスト」です。

1949年6月に、日本はようやく「国際水泳連盟復帰」が認められました。彼は同年8月にロサンゼルスで行われた全米選手権に招待されて参加し、400m自由形・800m自由形・1500m自由形で「世界新記録」を樹立して優勝しました。

アメリカの新聞は、「フジヤマのトビウオ」(The Flying Fish of Fujiyama)と書き立てましたので、大会後は一躍ヒーローになったそうです。

1952年の日本選手権では思うような記録が出ませんでしたが、その年のヘルシンキオリンピックに出場しました。しかし、結果は400m自由形で8位に終わりました。

成績不振の原因は、選手としてのピークを過ぎていたことと、1950年の南米遠征中にアメーバ赤痢にかかり、オリンピックの時も頻繁な下痢に苦しんでいたことでした。

ヘルシンキオリンピックで、彼の400m自由形の実況を担当したアナウンサーが、「日本の皆さま、どうぞ決して古橋を責めないでください。偉大な古橋の存在あってこそ、今日のオリンピックの盛儀があったのであります。古橋の偉大な足跡を、どうぞ皆さま、もう一度振り返ってやってください。そして日本のスポーツ界と言わず、日本の皆さまは温かい気持ちを以て、古橋を迎えてやってください」と涙声で話したそうです。

こういう話を聞くと、私など年寄りになったせいか、その気持ちが痛いほどわかって涙が出てきます。

彼は後に「日本水泳連盟会長」を務めました。また、1990年から1999年までは日本オリンピック委員会(JOC)会長を務めました。


古橋広之進 力泳三十年