宮本武蔵は剣豪とも卑怯者とも言われる不思議な人物。五輪書の言葉と絵画は秀逸

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宮本武蔵

宮本武蔵と言えば、佐々木小次郎との巌流島の決闘や、吉岡一門との決闘などから「剣豪」として知られています。また、吉川英治などの小説や映画でも有名です。

ただ一方で、その決闘が心理戦も含めて「卑怯なやり方」で勝ったようにも見えるので「卑怯者」という見方もあるようです。

しかし、彼が著した剣術書の「五輪書」や彼の描いた「掛け軸」や「屏風」などの絵画を見ると、なかなか秀逸で研ぎ澄まされた「剣の達人」の心境が窺える不思議な人物です。

今回は宮本武蔵について掘り下げてみたいと思います。

1.宮本武蔵とは

宮本武蔵(1584年?~1645年)は、江戸時代初期の剣術家・兵法家・芸術家です。二刀を用いる「二天一流兵法」(二刀流)の開祖でもあります。

五輪書で出生地は播磨国(兵庫県高砂市)と記していますが、美作国(岡山県)との説もあります。

宮本武蔵の「宮本」は母方の苗字で、父方の苗字は「新免」です。

1600年の関ケ原の戦いでは、父親の新免無二とともに東軍の黒田如水に従って雑兵として戦ったようです。

2.他流派の武芸者との決闘や試合

(1)巌流島の決闘

佐々木小次郎が刀の鞘を海に捨てたところ、「小次郎敗れたり。勝つ者が何ゆえに鞘を捨てるか」と言ったという話が私は印象に残っています。漫画「北斗の拳」の主人公ケンシロウの「お前はもう死んでいる」という「死の宣告」のようなセリフも、この武蔵の言葉から考え出したような気がします。

①小倉碑文

巌流島の決闘の最も古い記録は、武蔵の養子である伊織が記した1654年の「小倉碑文」ですが「武蔵は舟嶋で、木刀を用いて岩流という者と戦った」というあっさりした記述のみで「小次郎」の名前はありません。

②沼田家記

次に古い記録は、1672年に編纂された「沼田家記」で、「小次郎」という人物が登場します。「立ち合い自体は一対一で行われ、武蔵が小次郎に勝利したものの、その後息を吹き返した小次郎を、隠れ潜んでいた武蔵の弟子たちが袋叩きにして殺した」とあります。

③本朝武芸小伝

1714年の「本朝武芸小伝」でも、武蔵は多くの弟子を連れて島に乗り込み、一人でやって来た巌流を殺したことになっています。

④西遊雑記

1783年の「西遊雑記」では、次のように詳しく書かれています。

岩龍が事前の約束通り一人で島に渡ろうとしたところ、浦の者たちが「武蔵は門人を大勢連れている。一人では敵わないので今日は島に渡らないようにしてください」と止めに入った。しかし岩龍は「武士は言葉を違えはしない。固く約束したことであるから、今日島へ渡らないのは武士の恥である。もしあなた方の言うように、武蔵が大勢で私を討ったりすれば、かえって武蔵の恥になるだろう」と言って島に渡った。その結果、試合中に武蔵の門弟が四人襲い掛かって来て、岩龍は殺されてしまったのだという。

⑤武公伝

武蔵が晩年に滞在した細川藩で、彼の死後の1755年に筆頭家老松井家の二天一流兵法師範の豊田正脩が武蔵の伝記を集めた「武公伝」を著しています。この書物は後世の武蔵伝に大きな影響を与えました。

当時の武蔵の年齢が29歳だったとか、小次郎の出自や、小次郎が鞘を捨てたことに関して武蔵が「小次郎敗れたり!」と言い放つ有名なエピソード群はこの書物に由来します。

(2)吉岡一門との決闘

①小倉碑文

1654年の「小倉碑文」によれば、京で代々足利将軍家剣術指南役だった吉岡一門と戦っています。

まず蓮台野で吉岡清十郎と戦って勝利し、敗れた清十郎は出家します。その後弟の吉岡伝七郎が武蔵に挑みましたが撲殺されてしまいます。これに怨念を抱いた門弟ら数百人が兵仗弓箭で武装し、一乗寺下がり松で武蔵を襲おうとしましたが、武蔵ただ一人に蹴散らされてしまいます。

②吉岡伝

1684年に福住道祐が記した吉岡側の史料の「吉岡伝」によると次のようになっています。

武蔵は、蓮台寺野ではなく、所司代を検分役として松平忠直の御前で吉岡憲法の長子・源左衛門直綱と戦い敗北。武蔵は再試合を申し込んだが、自分で申し込んだ日に来ることなく逃走している。

ただし吉岡伝では、武蔵は松平忠直の家臣で無敵流を号し、二刀の名手で北陸奥羽で有名であるとされており、二刀流の名手であること以外は他の史料にある武蔵の経歴とあまりにも違っています。

③本朝武芸小伝

1714年の「本朝武芸小伝」では引き分けとなっています。

④古老茶話

1740年代の「古老茶話」では、武蔵は遅刻してやって来たが結局勝てなかったとあります。

(3)宝蔵院流槍術との戦い

1775年に細川藩の二天一流兵法師範の豊田景英が著した武蔵の伝記「二天記」によると、武蔵は初代・胤栄に手合わせを願ったものの、胤栄は80歳を超える老体のため、弟子の奥蔵院が相手をした。武蔵は木剣一本のみでこれに圧勝。技量に感服した奥蔵院は、武蔵を泊めてもてなし、武芸談義に花を咲かせて一夜を明かしたとのことです。

ほかにも「柳生新陰流との戦い」「高田又兵衛との戦い」「夢想権之助との戦い」などの伝説があります。

五輪書での記述によれば、13歳で初めて新当流の有馬喜兵衛と決闘して勝利し、16歳で但馬国の秋山という強力な兵法者に勝利し、以来29歳までに60余回の勝負を行い、すべてに勝利したそうです。

これに加えて、吉川英治の小説「宮本武蔵」によって、「最強の剣豪」という伝説が生まれたものと思われます。

しかし、有名な決闘・試合の伝説でも、巌流島の決闘では相手を焦らせたり、相手の負けを宣言して動揺を誘ったりする「心理作戦」もあり、吉岡一門との決闘では一乗寺下がり松の上に隠れて相手の様子を窺うという卑怯な戦術を取っており、「卑怯者」という見方も成り立ちます。

ただ、「実際に命を懸けた戦い(実戦)」には「道場での剣道のようなルールの縛りはない」という考え方に立てば、木刀や二刀を使ったり、全体がよく見渡せる木の上から敵の様子を観察するなど様々な工夫・作戦・戦術を考えることは非難されるべきではないと言えます。

「孫子の兵法」も本質は「兵は詭道なり」です。つまり俗な言い方をすれば、「だまされた奴が悪い」「勝つためにはどんな嘘もペテンもまかり通る」ということです。

豊臣秀吉もなかなかの策略家であったようです。加藤廣の小説「空白の桶狭間」では、桶狭間の戦いは、「信長の奇跡的な奇襲作戦」ではなく、「秀吉(「山の民」出身)による、大勢の山の民を動員した陽動作戦と、非常に訓練された猟犬による用意周到な今川義元暗殺計画」であったということです。確かに、いくら今川義元が油断していたとしても、厳重な警護の家臣もいることだし、そう簡単に討ち取られるわけはないので、この作家の仮説には説得力があります。

徳川家康も、関ヶ原の戦いの前には敵方の一部を寝返らせる(裏切らせる)「調略」を多用しました。豊臣秀頼・淀殿との対決では「方広寺鐘銘事件」のような「言いがかり」を付けたり、大坂冬の陣の「外堀だけを埋める」和睦条件に違反して内堀まで埋めさせたりと卑怯な「策略」を駆使して成功し、264年続く徳川幕府の基礎を築きました。

「英雄人を欺く」の好例かもしれません。この言葉は中国明代の文人李攀竜の「選唐詞序」にあり、「英雄は才知にたけているので、策略を用いて人の意表を突くことが多い」という意味です。

3.五輪書(ごりんのしょ)

剣術の奥義をまとめた兵法書で、武蔵の代表的著作です。1643年から1645年にかけて執筆されたということです。

仏教(密教)で宇宙・万物を構成しているとされる五大(要素)の「地・水・火・風・空」を由来とし、それに合わせて五巻に分かれています。

(1)「地の巻」

武蔵の生涯、兵法について書かれています。「真っ直ぐな道を地面に書く」という意味でこのように名付けられたそうです。

(2)「水の巻」

心の持ち方、太刀の持ち方や構えなど、実際の剣術に関することが書かれています。水を手本とする剣さばき、体さばきからこのように名付けられたそうです。

(3)「火の巻」

戦いのことについて書かれています。個人対個人、集団対集団の戦いも同じであるとし、戦いにおいての心構えなどが書かれています。戦いを火の勢いに見立ててこのように名付けられたそうです。

(4)「風の巻」

他の流派について書かれています。「風」というのは、昔風、今風、それぞれの家風などのこととされています。

(5)「空の巻」

兵法の本質としての「空」について書かれています。

4.宮本武蔵の名言

(1)我、神仏を尊びて、神仏を頼らず

(2)心、常に道を離れず

(3)身を浅く思ひ、世を深く思ふ

(4)一理に達すれば、万法に通ず

(5)我、事において後悔せず

(6)身を捨てても、名利は捨てず

(7)空を道とし、道を空とみる

(8)千日の稽古をもって鍛となし、万日の稽古をもって錬となす

(9)構えあって、構えなし

(10)観見二つのこと、観の目つよく、見の目よわく、遠き所を近く見、近き所を遠く見ること、それが兵法の要である

(11)初めの少しのゆがみが、あとには大きくゆがむものである

(12)体の大きい者も小さい者も、心をまっすぐにして、自分自身の条件にとらわれないようにすることが大切である

(13)役に立たぬことを、せざること

(14)打ち込む態勢をつくるのが先で、剣はそれに従うものだ

(15)人のまねをせずに、その身に応じ、武器は自分の使いやすいものでなければならぬ

(16)一生の間、欲心を思わず

(17)武士は己を知る者のために死す

5.宮本武蔵の絵画

国の重要文化財に指定された「鶉図」「枯木鳴鵙図」「紅梅鳩図」をはじめ、「正面達磨図」「蘆葉達磨図」「蘆雁図屏風」「野馬図」など水墨画があります。

特に「枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず)」は剣の達人の研ぎ澄まされた心境が滲み出ているような水墨画です。「一芸に秀でる者は多芸に通ず」を具現したような絵画です。

宮本武蔵の水墨画


五輪書 (いつか読んでみたかった日本の名著シリーズ) [ 宮本武蔵 ]

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