「百人一首」のミステリー。藤原定家はなぜ不幸な人の歌を多く選んだのか?

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百人一首

百人一首と言えば、かつてはお正月のカルタ遊びの定番で、中学生か高校生の時に暗記した方も多いのではないでしょうか?

「競技かるた」も盛んで、最近ではアニメ「ちはやふる」の人気から、小中学生や外国人にまで愛好家が増えているようです。

私も高校生の時に暗記しましたが、歌の意味や百人一首の成り立ちについての詳しいことは恥ずかしながらあまり覚えていません。

そこで今回は百人一首のミステリーについて考えてみたいと思います。

1.百人一首とは

「百人一首」とは、「百人の歌人の和歌を、一人一首ずつ選んで作った秀歌撰」のことです。特に藤原定家が京都小倉山の山荘で選んだとされる「小倉百人一首(おぐらひゃくにんいっしゅ)」が「歌かるた」として広く用いられたため、普通、百人一首と言えば「小倉百人一首」を指すようになりました。

2.藤原定家とは

藤原定家(ふじわらのていか)(1162年~1241年)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の公家・歌人です。彼は同じく公家で歌人の藤原俊成(ふじわらのしゅんぜい)(1114年~1204年)の子です。俊成は、後鳥羽院(1180年~1239年)が再興した「和歌所」の寄人(よりうど)にも加えられ、歌壇の長老の地位を築きました。

定家も、後鳥羽院に和歌の才能を認められ、父と同様に「和歌所」の寄人となり、「新古今和歌集」の撰者の一人に抜擢されます。

しかしその後、定家は後鳥羽院と歌道に対する意見の対立などから、院の逆鱗に触れます。今風に言えば社長と喧嘩をしたり反旗を翻した幹部社員のようなもので、出世の望みは絶たれたも同然です。

ただ、定家にとって幸いだったのは、このように後鳥羽院から距離を置くことになった結果、「承久の乱」を起こして隠岐へ配流となった後鳥羽院とは対照的に順調に出世を遂げて行きます。

彼は「有心体(うしんたい)」の歌風を確立し、歌壇の指導者として活躍しました。和歌の名家である「冷泉家」の祖先です。「有心」とは、「心情と言葉とが統一され、華やかさの中に寂しさを漂わせる妖艶な余情美」「現実に基調を持つ整った趣と、思索的・内省的な味のある情緒・情操の深さを求めること」です。

「小倉百人一首」は、実は定家の姻戚で歌仲間でもある蓮生(れんしょう)法師(定家の嫡男が蓮生の娘と結婚しています)から、小倉山の山荘の襖障子に和歌の色紙を貼りたいので良い歌を選んでほしいと頼まれて作った「百人秀歌」が原型だと言われています。

3.「百人秀歌」と「百人一首」の相違点

主な相違点の一つは「百人秀歌」には、後鳥羽院と順徳院の歌が入っておらず、一条院皇后宮・権中納言国信・権中納言長方の歌が入っていて、百一首あることです。

もう一つは、源俊頼の歌は「百人一首」の「うかりける・・・」ではなく、「百人秀歌」では別の歌(山桜咲きそめしより・・・)を選んでいることです。

そのほか、同じ歌でも細部の異なっているものが複数あり、「百人秀歌」の方が古態を留めている場合が多いと言われています。

後鳥羽院と順徳院(1197年~1242年)(後鳥羽院の子で、「承久の乱」で佐渡へ配流となり、同地で死去)の歌の有無は、「承久の乱」と関係がありそうです。

「百人一首」が後で成立したとすれば、「承久の乱」に関わった院ではあるが、配流となったことでもあり、定家がかつて自分を引き立ててくれた恩義のある不幸な二人の歌を最後(99番と100番)に入れたものと思われます。「院」とありますので、後鳥羽院・順徳院が亡くなり定家も亡くなった後に改編されたものかもしれません。

「百人秀歌」が後で成立したとすれば、「承久の乱」に関わった院なので「政治的配慮」で入れるのを遠慮したものと思われます。

4.藤原定家はなぜ不幸な人の歌を多く選んだのか?

百人一首の研究家である草野隆氏の『百人一首の謎を解く』によれば、定家は「悲劇に見舞われた人や不幸な人生を送った人の歌を意図的に多く選んだ」ということです。

三条院(976年~1017年)は、25年間もの皇太子時代を経て即位しますが、藤原道長の意向で譲位を迫られ、わずか5年で退位させられています。そして何の実権も得られないまま42歳で亡くなっています。彼の歌は、「心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな」です。

1156年の「保元の乱」の結果讃岐に流罪となり同地で亡くなった崇徳院(1119年~1164年)は、菅原道真・平将門と並ぶ「三大怨霊」の一人です。彼の歌は、「瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ」です。

上に述べた後鳥羽院・順徳院も配流先で亡くなった悲運の人です。後鳥羽院の歌は「人もをし人も恨めしあぢきなく世を思ふ故にもの思ふ身は」で、順徳院の歌は「百敷(ももしき)や古き軒端(のきば)のしのぶにもなほあまりある昔なりけり」です。

また鎌倉幕府の第3代将軍源実朝も、源頼家の子公暁に暗殺されるという悲運に見舞われています。彼は藤原定家を和歌の師と仰ぎ、新古今和歌集を送ってもらうなどの交流があったようです。定家は実朝の和歌の才能を高く評価していました。彼の歌は、「世の中は常にもがもな渚こぐあまの小舟(をぶね)の綱手(つなで)かなしも」です。

陽成院(869年~949年)は、わずか7歳で即位したため藤原基経が摂政となりました。ところが天皇在位中に彼の乳兄弟である源益が宮中で殴殺される事件が起きます。この事件に天皇が関与していた、あるいは天皇自身が起こしたという噂が立ったため、藤原基経は15歳の彼を退位させ、仁明天皇の皇子である光孝天皇を即位させました。80歳で亡くなるまでの実に65年間を上皇(歴代最長記録の上皇)として過ごしました。

彼の歌は、「筑波嶺(つくばね)の峰より落つるみなの川恋ぞつもりて淵となりぬる」です。

光孝天皇(830年~887年)は、陽成天皇の廃位を受けて、急遽54歳で即位し、57歳で亡くなっています。彼は即位直前の53歳までは、「小松殿」と呼ばれる宮中の一間でつつましく暮らしていたそうです。

彼の歌は、「君がため春の野に出でて若菜摘む我が衣手に雪は降りつつ」です。

5.百人一首の歌はそれぞれの歌人の「代表作」「秀作」なのか?

私は和歌の良し悪しを判別する能力を持ち合わせていませんが、放送作家・エッセイストの織田正吉氏の『絢爛たる暗号 百人一首の謎を解く』によると、「駄作」「愚作」も多いそうです。

彼は、「藤原定家が後鳥羽院と式子内親王への鎮魂の思いを込めて歌を選び、それがわからないように時代順に並べ替えたものである」とする新説を提唱しています。

ちなみに、式子内親王(1149年~1201年)の歌は、「玉の緒(を)よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする」です。

この歌には藤原定家と式子内親王の恋愛関係を匂わせる逸話があります。内親王と定家の噂が立ったため、定家の父の俊成が定家の家にやって来ると、定家は留守で、部屋に内親王自筆のこの歌が残されていました。これを見た俊成は二人の想いの真剣さを感じて、何も言わずに帰ったという話です。

なお、定家の歌は「来ぬ人をまつほの浦の夕(ゆふ)なぎに焼くや藻塩(もしほ)の身も焦がれつつ」です。俊成の歌は「世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる」です。

もう一つ、百人一首に選ばれた歌の特徴として、「賀の歌」(めでたい歌)がひとつも選ばれていないことです。

世をはかなんだり、嘆き悲しんだり恨んだりするような歌が多く、恋の歌でもかなわぬ恋を嘆くような歌が多いように思います。

このように定家が不幸な人の歌を多く選んだ理由は、依頼してきた蓮生法師も悲運の人であったので、彼に寄り添い彼の気持ちを慰める意図があったのではないでしょうか?

そして、「単なる言葉遊び」や「技巧を競うだけの空想や絵空事」ではない「魂の叫び」「悲痛な心情の吐露」や「燃えるような情念」を三十一文字に凝縮・昇華したような歌を多く選んだのではないでしょうか?それが彼の「有心体(うしんたい)」の歌風の神髄なのではないかと思います。

6.蓮生(蓮生法師)とは

蓮生は、俗名宇都宮頼綱(1172年~1259年)という平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武士・御家人・歌人です。

藤原定家と親交が厚く、「京都歌壇」「鎌倉歌壇」に並ぶ「宇都宮歌壇」を築きました。

彼は鎌倉幕府の執権北条時政の娘婿ですが、1205年(元久2年)に時政が、平賀朝雅を将軍に擁立しようと画策した陰謀事件に関与したかどで、北条義時から討たれそうになります。しかし彼は、「陰謀には無関係である旨の書状」を義時に差し出して出家し、のちに京都嵯峨に移り住みます。そこで浄土教に帰依して法然の弟子となります。

こういう事情で、彼もまた「悲劇・悲運に見舞われた人」だったわけです。

7.後鳥羽院(後鳥羽上皇)とは

後鳥羽院(1180年~1239年)は、高倉天皇の第四皇子で、安徳天皇の異母弟に当たり、第82代天皇(後鳥羽天皇)(在位:1183年~1198年)となった人です。

1183年に安徳天皇の後を受けて、3歳で即位しますが、1198年に18歳で土御門天皇に「譲位」し、以後1221年までの23年間の長きにわたり「院政」を敷きます。

鎌倉幕府に対しては「皇権回復」を目指して強い対抗心を持ち、「強硬路線」を貫きました。

後鳥羽院は、「新古今和歌集」を編纂したことでも知られていますが、1221年(承久3年)に鎌倉幕府執権の北条義時に対抗して討伐の兵を挙げた「承久の乱」で敗れて隠岐に配流となり、同地で亡くなっています。「承久の乱」で大勝した鎌倉幕府はこれによって一挙に西国に勢力を拡大し、「全国政権」としての基礎を固めました。



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