伊藤博文は44歳の若さで首相になった構想力と実行力が抜群の日本近代化の恩人

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伊藤博文

伊藤博文と言えば、初代内閣総理大臣で、後に初代韓国統監となり、最後は安重根に暗殺されたことはよく知られています。

今回は伊藤博文について、生い立ちから日本の近代化に邁進した壮年期、および晩年について少し掘り下げてみたいと思います。

1.伊藤博文とは

(1)生い立ち

伊藤博文(1841年~1909年)は周防国(山口県)の貧農の子として生まれ、父親が足軽の伊藤家の養子になったため、彼も同じく下級武士(足軽)となりました。幼名は利助ですが、後に吉田松陰から俊英の俊を与えられ、「俊輔」と改名しました。

(2)松下村塾

彼は身分が低いため、「藩校」に入ることができませんでした。

そこで身分に関係なく学ぶことができる吉田松陰の「松下村塾」に入門します。しかし身分が低いため、塾の敷居をまたぐことは許されず、戸外で立ったままの聴講に甘んじたそうですが、松陰は彼が政治に向いている性格を評価していました。

彼はそこで、高杉晋作や久坂玄瑞らを知り、「尊王攘夷運動」「倒幕運動」への素地ができます。

1858年には松陰の推薦で長州藩の京都派遣に随行し、京都の志士と親交を結んでいます。帰藩後の1859年に、桂小五郎(後の木戸孝允)の従者となり、江戸屋敷に移ります。ここで志道聞多(後の井上馨)と出会い、親交を結んでいます。

1863年の「イギリス公使館焼き討ち事件」には隊長高杉晋作のもと、火付け役として参加しています。また同年の国学者の塙忠宝(塙保己一の四男)暗殺にも関わっています。

彼は過激な尊王攘夷運動に参加する一方で、海外への関心や憧れを持っていました。

(3)イギリス留学

1863年、長州藩の内命を受け、「長州五傑」の一人として井上馨・遠藤謹助・山尾庸三・野村弥吉(後の井上勝)とともにイギリスへ密航します。

1863年9月からロンドンで、英語や西洋流の礼儀作法の指導を受けるとともに、博物館・美術館に通ったり、海軍施設・工場などを見学して見聞を広めています。その結果、イギリスと日本との国力の圧倒的な差を知り、「攘夷」が誤りであることを悟って「開国論」に転じます。この「過ちを改むるに憚ることなかれ」を地で行く融通無碍な変わり身は見事です。しかもこれは、終戦後の日本の政治家や教師たちに見られた「自己保身のための変わり身」ではなく、「国を思う心」から出ていると私は思います。

1864年3月、米英仏蘭四国連合艦隊による長州藩攻撃が近いことを知り、急遽帰国します。

約半年間の短い留学でしたが、会話ができるほどに英語が上達します。彼の英語力は大いに重宝され、その後の彼の活躍にとって大きな武器になります。

(4)下関戦争と第一次長州征伐・第二次長州征伐

彼は戦争回避のため、英国公使オールコックや通訳官アーネスト・サトウとの交渉に奔走しますが、結局1864年8月5日に四国連合艦隊の砲撃により「下関戦争」が勃発し、長州藩は完敗します。彼は戦後、高杉晋作の通訳として、イギリス人艦長クーパーとの和平交渉に当たっています。

1864年11月、長州藩が第一次長州征伐で幕府に恭順の姿勢を見せると、12月に高杉晋作らに従い「力士隊」を率いて挙兵しています。

その後は、藩の実権を握った桂小五郎の要請で、薩摩藩や外国商人との武器購入交渉に当たっています。

坂本龍馬の仲介でグラバー商会から船と武器の調達に成功したおかげで、第二次長州征伐では幕府に勝利しています。

(5)明治維新後の欧米歴訪・近代国家体制作り

明治維新後は、長州閥の有力者として参与、外国事務局判事、大蔵少輔兼民部少輔、工部卿、宮内卿などの要職を歴任します。

1871年~1873年には「岩倉具視使節団」の副使として、アメリカおよびヨーロッパ各国を視察しています。

1882年には、憲法調査のために、ドイツ、オーストリアなどに出張し、ベルリン大学でプロイセン憲法を、ウィーン大学で歴史法学や行政について学んでいます。

1885年の「内閣制度」移行の際、誰が初代内閣総理大臣になるか注目されました。衆目の一致する所は、太政大臣として名目上政府のトップに立っていた三条実美と、大久保利通の死後事実上明治政府を切り回し内閣制度を作り上げた伊藤博文でした。

二人の身分の差は歴然としていましたが、伊藤の盟友の井上馨が「これからの総理は、赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」と口火を切り、山形有朋も賛成意見を述べたため、大勢が決しました。

彼は欧米の帝国主義列強からの圧力など様々な国難が次々と押し寄せる中、「貨幣制度の整備」「帝国大学創設」「鉄道事業」「内閣制度の創設」「大日本帝国憲法の制定」「財政金融制度の整備」など日本の近代国家体制作りの中心的役割を果たしました。

(6)日清戦争・日露戦争、韓国併合と暗殺

1894年、第二次伊藤内閣の時、朝鮮半島を属国として支配し続けたい清と朝鮮の独立を助けたい日本との間で日清戦争が起きました。日本が勝利し、朝鮮を独立国とすることに成功しました。

1895年、日本が清を破ったことを快く思わないロシアがフランス・ドイツとともに、日本が日清戦争で奪った遼東半島を清に返還するように迫る高圧的で理不尽な「三国干渉」を行い、成功します。当時の日本の国力では三国との戦争は勝ち目がなかったから屈服せざるを得なかったのです。これを契機としてロシア・フランス・ドイツ・イギリスの帝国主義列強による「中国分割」が進みます。

そしてロシアはちゃっかりと清から遼東半島の租借に成功し、南下圧力をさらに強めます。その結果、朝鮮半島をめぐる日露の対立が高まり1904年に日露戦争が起きました。これは第四次伊藤内閣の時でした。彼は長期戦では日本が持たないとの判断があって、日露戦争の開戦決定直後から、アメリカに和平交渉を依頼していました。

日露戦争に勝利した1905年には、当時「大韓帝国」だった韓国を日本の保護国とし、韓国統監府を設置して初代韓国統監となりますが、最後は民族運動家の安重根に暗殺されました。

彼は国際協調重視派で、当初は山形有朋や桂太郎らが唱える「韓国併合による直轄」ではなく、韓国の国力・自治力が高まることを期待し、「保護国としての実質統治」で十分と考えていたようです。そして韓国の国民の文盲率が94%だったのを改善するため、教育にも力を入れています。

2.伊藤博文に対する評価

①吉田松陰:俊輔、周旋(政治)の才あり。

②高杉晋作:俊輔も才子なり。これまた同様お見捨てなくご指導を願い候。(山形有朋への手紙)

③大久保利通:伊藤は長州の人ではあるが実は天下の英物である。成程才子に相違ないけれども、決して君の言うような才子じゃない。国家経綸上について、自分はもう悉く伊藤に相談をする。一から十まで話す。鎖港攘夷の時と違うのであるからどうかよく百年の後を達観する程の見識ある人をよく用いなければならぬ。それに当たる者は伊藤である。しっかり見識が立ってそうしてこれを応用する力のある人である。私の政策は悉く彼に相談する。彼とともに談ってやるのである。すっかり信じて秘談を話す。

④大隈重信:伊藤氏の長所は理想を立てて組織的に仕組む、特に制度法規を立てる才覚は優れていた。準備には非常な手数を要するし、道具立ては面倒であった。氏は激烈な争いをしなかった。まず勢いに促されてするというほうだったから敵に対しても味方に対しても態度の鮮明ならぬこともあった。伊藤のやり口は陽気で派手で、それに政治上の功名心がどこまでも強い人であるから、人心の収攬などもなかなか考えていた。

専門分野の知識に偏るのではなく多方面に知識が豊富な政治家であった。

常に国家のために政治を行って、野心のために行わなかった。

3.伊藤博文の名言

(1)たとえここ(英国)で学問をして業が成っても、自分の生国が亡びては何の為になるか。

(2)大いに屈する人を恐れよ。いかに剛に見ゆるときも、言動に余裕と味のない人は大事をなすにたらぬ。

(3)本当の愛国心とか勇気とかいうものは、肩をそびやかしたり、目を怒らしたりするようなものではない。

(4)私の言うことが間違っていたら、それは間違いだと徹底的に追及せよ。君らの言うことがわからなければ、私も君らを徹底的に攻撃する。互いに攻撃し議論するのは、憲法を完全なものにするためである。くり返すが、長官だの秘書官だのという意識は一切かなぐり捨てて、討論・議論を究めて完全なる憲法を作ろうではないか。

(5)国の安危存亡に関係する外交を軽々しく論じ去って、何でも意の如く出来るが如くに思ふのは、多くは実験のない人の空論である。

(6)今日の学問はすべて皆、実学である。昔の学問は十中八九までは虚学である。

(7)お前に何でも俺の志を継げよと無理は言はぬ。持って生まれた天分ならば、たとえお前が乞食になったとて、俺は決して悲しまぬ。金持ちになったとて、喜びもせぬ。