1.家茂の正室・皇女和宮とは
一般には「和宮(かずのみや)」あるいは「皇女和宮(こうじょかずのみや)」と呼ばれていますが、正式には「和宮 親子内親王(かずのみや ちかこないしんのう)」です。
和宮 親子内親王(1846年~1877年)は、14代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)(1846年~1866年、在職:1858年~1866年)の正室(御台所)となった女性です。家茂死後には落飾し、静寛院(せいかんいん)の院号宣下を受け、静寛院宮(せいかんいんのみや)と名乗りました。孝明天皇の異母妹で、明治天皇の叔母にあたります。
なお、皇女和宮については、「替え玉説」があります。「公武合体で将軍家茂に降嫁した和宮は果たして本物だったのか?替え玉説に迫る!」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご一読ください。
2.家茂の秘密の側室・お蝶
家茂は、「側室を持たなかった唯一の将軍」と一般に言われていますが、実は「秘密の側室がいた」という話もあります。
家茂の死後、京都御所から、和宮には帰京の要請が来ます。当初、彼女はこれをためらいます。徳川の身内として、まだ自分には果たすべき使命があると感じていたようです。
天璋院率いる大奥では、「4歳の田安亀之助を(家茂の遺言通り)後継者にすべき」という流れがありました。しかし当初、和宮は、難しい時局だから少年将軍では危険だという正論を天璋院に訴えています。
過去には天璋院と和宮には「対立」もありましたが、当時はすでに和解していました。二人は共闘関係にあり、家茂の遺志を継いだ天璋院が和宮を最終的に説得するに至ります。
天璋院はこの時、田安亀之助を将軍にするだけでなく、慶喜に怒り、慶喜とは距離を取っていた越前福井藩の松平春嶽を後見人にすることで、慶喜が一度壊してしまった「国内の有力者による運営体」として幕府を再生させる計画があることを説明し、和宮を納得させたのではないかとも考えられています。
これらが実現すれば、反抗的な薩摩藩(天璋院の実家)をもう一度、「身内」に取り込み、長州藩などと引き離すことができますから、幕府は起死回生できたかもしれません。
しかし、大奥からの提案を幕府の役人たちは拒絶し、老中・板倉勝静(いたくら・かつきよ)らの強い推挙によって徳川慶喜が15代将軍になることが決定します。この頃すでに天璋院は、大奥に老中たちを呼びつけ、互角にディベートするなど、「表」の役人たちにも無視できない大きな存在になっていました。
当時の天璋院は将軍未亡人であり「大御台所」と呼ばれていましたが、そういう立場の女性が老中たちと(記録に残る形で)政治的な議論を行ったのは、これが最初だったともいいます。天璋院率いる大奥への配慮として、慶喜の継嗣は田安亀之助とすることになりました。
しかし事態は大奥が考えていた以上に早く進み、幕府は瓦解してしまいます。
天璋院篤姫は最初から慶喜への不満を隠しませんでしたが、一方で和宮は彼に対し、外国人の江戸市中往来の禁止など、できることから「攘夷」を行ってほしいと願う手紙を送っています。しかし慶喜は手紙を完全無視し、実に失礼な態度を取るのでした。
こうして和宮は、孝明天皇の妹として、天皇の考える「攘夷」と、その実行役であるべき幕府との橋渡しとなる役割を自分では果たせないことを悟り、京都に帰ることを決意するのです。これが、和宮が帰京を決意した表向きの理由です。
しかし、実は大坂城から、家茂の遺品が送られてくるとともに「怪しい噂」も和宮のもとに届き、亡夫・家茂に激しく失望してしまったから、という不穏な話もあります。
家茂と和宮の結婚期間は約4年でした。度重なる上洛などを家茂はこなしていましたから、彼が江戸城にいられる期間は案外短く、2年ほどが和宮と共に過ごした時間となります。残念ながら、二人の間に子供は生まれませんでした。
すると、瀧島という大奥の老女(=御年寄)の一人の血縁にあたる、「お蝶」という16歳の少女を側室とするべく、「お見合い」が家茂との間に行われたというのです。家茂はお蝶を、小柄すぎる(=まだ子供だ)などといって拒絶したそうですが、一方で、家茂が出張している大坂城に秘かに連れていかれたお蝶が実は懐妊していたという怪情報もあり、和宮はこれを耳にしてしまったとも囁かれました。
いかに江戸城の最高権力者である将軍であっても、「側室」というのは、「将軍正室の同意があってはじめて持つことができる存在」です。
にもかかわらず、自分が知らないところで家茂が側室を隠し持っていたことが事実だったとしたら、和宮の失望は大きなものだったでしょう。
ちなみにその後の和宮は、京都に一度帰ったものの、徳川家の存続のために江戸(東京)に舞い戻り、関東で亡くなることになります。
3.徳川家茂とは
徳川家茂(とくがわいえもち)(1846年~1866年、在職:1858年~1866年)は、江戸幕府14代将軍です。紀州11代藩主徳川斉順(なりゆき)(将軍家斉の子)の長子です。
幼名菊千代で、のち慶福(よしとみ)と称します。12代藩主斉彊(なりかつ)(斉順の弟)の養子となり、嘉永2年(1849年)4歳で家督を継ぎました。
将軍継嗣(けいし)問題で一橋(ひとつばし)派の推す一橋慶喜(よしのぶ)に対抗する候補とされ、条約勅許問題と絡んだ激しい政争が展開しました。
結局、安政5年(1858年)慶福を推す南紀派の井伊直弼(いいなおすけ)が大老に就任したのち、継嗣と定まり、同年徳川家定(いえさだ)の死去により将軍職を継ぎ、家茂と改めました。
「桜田門外の変」(1860年)による井伊大老横死ののち、老中久世広周(くぜひろちか)、安藤信正(あんどうのぶまさ)らの画策により、文久2年(1862年)孝明天皇の妹和宮(かずのみや)を夫人に迎え、公武合体による幕府権力の回復を計りましたが、同年の島津久光(しまづひさみつ)の率兵(そっぺい)上京、久光と勅使大原重徳(おおはらしげとみ)の東下によって幕政改革を迫られ、慶喜を将軍後見職に、松平慶永(まつだいらよしなが)を政事総裁職に迎えました。
翌1863年、慣例を破り、自ら上洛(じょうらく)、幕権回復を計りましたが、朝廷は尊王攘夷(じょうい)派の勢力下にあり、攘夷祈願の賀茂社(かもしゃ)行幸に供奉(ぐぶ)させられました。しかし4月の石清水社(いわしみずしゃ)行幸には随行を固辞して東帰しました。
その後、「八月十八日の政変」(1863年)によって公武合体派が勢力を回復し、(元治元年(1864年)再度上洛しました。ついで、長州藩が、第一次長州征伐ののちにふたたび抗戦の構えをみせたため、第二次長州征伐となり、慶応元年(1865年)三たびの上洛ののち、大坂城の征長軍本営に入りました。
翌年6月に開戦された長州藩との戦争に、幕軍敗戦の報が相次ぐうちに7月20日、21歳で城中に病死しました。法号昭徳院。