印税と検印にまつわる面白い話。夏目漱石は日本で初めて印税制度を定着させた

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夏目漱石

私が中学生の頃までの昭和30年代には、どの本でも巻末にある「奥付」(書名・著者・発行者・印刷者・出版年月日・定価などを記した部分)に小さな紙が貼りつけてあって、著者の「検印」が押されていたものです。

検印夏目漱石検印高浜虚子

その後、「著者との話し合いにより検印廃止」「著者検印省略」という文字が印刷されるようになり、やがてそのような表示も見かけなくなりました。

検印省略

この「検印」は、著者が発行部数をチェックする(「印税」計算の基準数を確認する)ために押す検査済の印です。現在は、書籍の発行部数の増大や著作権・出版権の考え方の普及、出版社と著者との良好な信頼関係などによって、ほとんど行われなくなったそうです。

「印税」とは、「著作物を複製して販売等する者(出版社・レコード会社・放送局など)が、発行部数や販売部数に応じて著作権者に対して支払う著作権使用料の通称」です。

なお、発行部数などによらず一度だけ著作権者に支払われる著作権使用料は、「原稿料」と呼ばれます。

ところで夏目漱石(1867年~1916年)が日本に「印税制度」を最初に定着させた作家であることはご存知でしょうか?

1.夏目漱石は日本で初めて「印税制度」を定着させた作家

漱石は1907年に東京帝国大学英文科講師の地位をなげうって、朝日新聞社に入社し、「連載小説家」「職業作家」となりました。出社の義務はなく、年2回程度の新聞連載小説を書くという約束でした。彼は朝日新聞社との間で、毎月の俸給や「盆暮の賞与」などの報酬についても事細かに取り決めをしています。

それまでの作家が得られる収入は、出版社が買い取った「1作品単位の原稿料」のみでした。「ホトトギス」に発表した「坊ちゃん」の原稿料は148円(現在の価値で約50万円)だったそうです。もし作品が人気となり、増刷されても作家には1銭の得にもならず、出版社だけが利益を得る仕組みでした。

漱石はそんな状況を変えようと動きました。「坊っちゃん」や「草枕」が収録された作品集「鶉籠(うずらかご)」が春陽堂から出版されましたが、「初版の印税は1割5分、第2版以降は2割、第6版以降(後には第4版以降)は3割」と、かなり事細かに取り決めています。最終的に3割となる印税は、当時としては破格の割合であり、出版社からはあまり良い顔をされなかったそうです。

現今は10%が通り相場ですから、漱石はなかなか強気だったようです。

彼がこうしてまで印税制度を整えようとした背景には、ロンドン留学で「契約社会」を身に染みて知ったことで、弱い立場だった作家の収入を安定させようとしたことがあります。それに彼自身も、帝大講師をやめて小説家になろうとした時、「せっかく大学講師だったのに、そんなに身を落としてまで作家になりたいのか?」と大きな批判を受けたことも影響しているでしょう。本人としても、家族を養うために金銭的な保障が不可欠と考えていたと思います。

なお、彼は「野分」に次のように書いています。

「……文士保護は独立しがたき文士の言う事である。保護とは貴族的時代に云うべき言葉で、個人平等の世にこれを云々うんぬんするのは恥辱のきょくである。退いて保護を受くるより進んで自己に適当なる租税を天下から払わしむべきである

ちなみに、漱石と同時代の人で「金色夜叉」で知られる流行作家の尾崎紅葉(1868年~1903年)は、単行本出版は発行部数や重版とは関係のない「買い切り」で、印税契約という仕組みとは生涯無縁で終わったそうです。

2.夏目漱石は1000枚の奥付に検印を押して出版社に渡した話

1909年3月10日のこと、出版社春陽堂の社員が東京・早稲田南町の漱石山房(漱石の自宅)を訪れました。彼は訪客に対して、自身の検印を押した「文学評論」の奥付1000枚を渡しています。

この当時は、公刊する本の奥付には、1冊1冊に著者の検印が必要とされていました。別刷りにした奥付に著者が検印を押捺して本の巻末に貼り付ける場合と、本の巻末にあらかじめ奥付を印刷しておいて検印を押した小さな紙片を貼り付けるやり方の二通りがありました。

それを基に発行部数を互いに確認し、出版社が著者に支払う印税の金額を算出するという出版契約にもつながる重要な手続きです。

私が何かの本で読んだ話では、ある流行作家の場合、作家本人は執筆に忙しいため、検印を押すのは奥さんや子供たちの役目だったそうです。漱石の場合も、鏡子夫人や娘たち、時には遊びに来た弟子たちが手分けして検印を押していたのかもしれませんね。



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