清少納言はなぜ枕草子を書いたのか?また題名の由来や紫式部との関係は?

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清少納言と紫式部

「春は曙。やうやう白くなりゆく、山ぎはすこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。夏は夜、月のころはさらなり、・・・」で始まる「枕草子」は、高校の古文で習いますのでご存知の方が多いと思いますが、執筆の経緯など詳しく知っている人は意外と少ないのではないでしょうか?

1.枕草子とは

枕草子は、平安時代中期に一条天皇の中宮定子に仕えた女房清少納言(966年頃~1025年頃)によって執筆された随筆です。995年頃に書き始め、1001年頃にはほぼ完成したとされています。

(1)執筆のきっかけと目的

①執筆のきっかけ

彼女が枕草子を執筆することになったきっかけは、中宮定子から当時とても貴重だった一冊の白い冊子の「紙」をもらい受けたことだったようです。この紙は、内大臣藤原伊周(定子の兄)が定子に献上したものです。

枕草子は「1000年前のブログ」とも言われますが、当時はインターネットもなく、現代のように紙が安価に大量に手に入る時代ではありませんでしたので、これは大変ありがたいことだったでしょう。

②執筆の目的

彼女は一条天皇の中宮定子に仕えていましたが、そのころ定子は父・藤原道隆の死や兄・藤原伊周の失脚によって後ろ盾を失い、一条天皇の寵愛も薄れて、不遇の身となっていました。代わって一条天皇は藤原道長の娘である中宮彰子を寵愛するようになっていきます。その中宮彰子に仕えた女房が、後に源氏物語を書くことになる紫式部です。

そこで彼女は、定子のサロンを魅力的に見せるために、枕草子を書き始めたようです。枕草子に定子サロンでの出来事を描くことで、定子が輝かしい存在であること、そして華麗なサロンであることをアピールしたかったのでしょう。

定子の死までにほぼ完成していましたが、死後に定子の回想部分を書き足しています。その意味で、枕草子は「定子のへの賛歌」であるとともに、「定子への挽歌」となっているのです。

(2)題名の由来

定子が「(兄の)伊周からもらったこの冊子に何を書こうか迷っている。一条天皇のところでは『史記』(中国の歴史書)という書物を書き写しているようだが」と尋ねたのに対し、彼女が「それはでございましょう」と答えています。これが題名の由来(*)です。

これは意味がよくわからない問答のようですが、漢詩の素養がある定子と彼女だからこそわかる知的な表現が含まれているのです。

彼女の答えは、白居易の詩文集「白氏文集」にある「書を枕にして眠る」という一節を引用したのです。「枕は毎日寝る時に使う身近なもの。そんな枕元にいつもこの冊子を置いておき、その日に気が付いたこと、感じたことを常に書き留めておくと良いですよ」という意味です。

彼女の機転の利いた答えに感心した定子は、その冊子を彼女にプレゼントすることにしたわけです。

ちなみに、「香炉峰の雪」も同種のやりとりです。雪が降り積もった寒いある日のこと「少納言、香炉峰の雪はどんなでしょう」と定子に尋ねられて、彼女は機転を利かせて御簾(みす)を上げて雪景色が見えるようにします。

これも白居易の「遺愛寺の鐘は枕を欹(そばだ)てて聴き、香炉峰の雪は簾(すだれ)をかかげて看る」に基づいたものです。定子の「外の雪景色が見たい」という謎かけだったのです。

(*)「題名の由来」に関連して、「枕」の意味については次のような諸説があります。

①備忘録説:備忘録として枕元にも置くべき草子という意味

②題詞説:歌枕・名辞を羅列した章段が多いため(「枕」を「枕詞」「歌枕」などの「枕」と同じと見て、内容によって書名を推量した説)

③秘蔵本説:枕のように人に見せるべきでない秘蔵の草子

④寝具説:「『しき(史記→敷布団)たへの』という「枕」などにかかる枕詞を踏まえた洒落

(3)内容

①「随想」:「春は曙」など日常生活や四季の自然を観察したもの

②「ものづくし」:「虫は」「木の花は」「すさまじきもの」「うつくしきもの」など

③「回想(日記)」:作者が出仕した中宮定子周辺の宮廷社会を振り返ったもの

執筆の目的が「定子のサロンを魅力的に見せるため」ということもあり、後ろ盾を失った定子の絶望や苦悩に満ちた状況には一切触れず、優雅で幸福感に溢れているように描いています。

そして、藤原道長側からの定子へのいじめや圧力などの暗い部分には一切触れていません。その理由は、定子の死後に、道長側からの圧力で枕草子という書物自体がこの世から抹殺されることがないようにという彼女の周到な配慮だったのかもしれません。

(4)どのようにして広まったのか

最初は宮廷内で回し読みをして、反応・評判が良かったら「写本」を作ることになったようです。当時は紙は大変貴重品でしたので、むやみに写本が出来ることはなかったでしょうし、印刷技術もありませんので、じわじわと広まっていったものと思われます。

ただ「枕草子」は、定子が宮廷内に広めたのでしょうが、執筆直後から宮廷内で大変評判になり、後年彼女のライバルと目されることになる紫式部の目にも触れていたようです。

2.清少納言とは

(1)清少納言のプロフィール

清少納言(966年頃~1025年頃)は、歌人の清原元輔(908年~990年)の娘で、平安時代中期の女流作家・歌人で「中古三十六歌仙」の一人です。

993年頃から中宮定子(977年~1001年)の女房として出仕し、1001年に定子が亡くなるまで献身的に仕え、定子の死後はその遺児脩子内親王に仕えたりしたようです。漢詩文の教養と、打てば響くような活発な才気と機知があり、宮廷に名を馳せました。また宮廷文化の頂点に立つ鋭い美意識がありました。

(2)紫式部との関係

紫式部(973年頃~1014年頃)は、「紫式部日記」の中で、彼女のことを「さかしだち、真名書き散らして侍るほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり」(賢ぶって学才をひけらかすけれども、浅薄なものでしかない)と酷評していますが、私は彼女は自分の自慢話をしたかったわけではなく、「枕草子」を書くことで、敬愛していた中宮定子のサロンを守り立てるのに一生懸命だったように感じます。

なお、紫式部が中宮彰子の女房として仕え始めたのは1005年頃からで、中宮定子の死後なので、宮中での紫式部と清少納言との接触はありませんでした。


枕草子 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫) [ 清少納言 ]



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