芭蕉はなぜ「おくのほそ道」の旅に出たのか?また芭蕉の幕府隠密説は本当か?

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松尾芭蕉奥の細道

松尾芭蕉(1644年~1694年)と言えば、「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」「閑(しずか)さや岩にしみ入る蝉の声」「五月雨(さみだれ)をあつめて早し最上川」「荒海や佐渡によこたふ天河(あまのがわ)」などの俳句でおなじみの「奥の細道」(原文では「おくのほそ道」)の旅や、辞世の句の「旅に病んで夢は枯野をかけ廻(めぐ)る」が有名です。

ところで、芭蕉は1689年、門人の河合曾良を伴って45歳の時老体に鞭打ってまで、なぜ「奥の細道」の旅に出て、それを「おくのほそ道」にまとめたのでしょうか?

そしてもう一つ、芭蕉には「実は幕府の隠密だった」という説がありますが、本当でしょうか?

今回はこれについて考えてみたいと思います。

1.芭蕉が「奥の細道」の旅に出て「おくのほそ道」を書いた理由・目的とは

古くは紀元前5世紀前後にインドで生きた釈迦も、晩年は自らが創始した仏教の教化と伝道の旅に出ました。

中国・唐代の詩人の李白(701年~762年)や杜甫(712年~770年)も旅をしました。

日本の僧侶で歌人の能因法師(988年~1050年か1058年)や西行法師(1118年~1190年)も旅をしましたし、近代では歌人の若山牧水(1885年~1928年)や吉井勇(1886年~1960年)、俳人の種田山頭火(1882年~1940年)、尾崎放哉(1885年~1926年)なども旅をした「漂泊の詩人(歌人/俳人)」です。

実は芭蕉が「奥の細道」に旅立った1689年は、彼が崇拝する西行の500回忌にあたります。

月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる者は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、 草の戸も住替る代ぞひなの家
面八句を庵の柱に懸置。

現代語訳は次の通りです。

月日は百代という長い時間を旅していく旅人のようなものであり、その過ぎ去って行く一年一年もまた旅人なのだ。船頭のように舟の上に生涯を浮かべ、馬子のように馬の轡(くつわ)を引いて老いていく者は日々旅の中にいるのであり、旅を住まいとするのだ。西行、能因など、昔も旅の途上で亡くなった人は多い。私もいくつの頃だったか、吹き流れていくちぎれ雲に誘われ漂泊の旅への思いを止めることができず、海ぎわの地をさすらい、去年の秋は川のほとりのあばら家に戻りその蜘蛛の古巣をはらい一旦落ち着いていたのだが、しだいに年も暮れ春になり、霞のかかった空をながめていると、ふと【白河の関】を越してみたくなり、わけもなく人をそわそわさせるという【そぞろ神】に憑かれたように心がさわぎ、【道祖神】の手招きにあって何も手につかない有様となり、股引の破れを繕い、笠の緒をつけかえ、三里のつぼに灸をすえるそばから、松島の月がまず心にかかり、住み馴れた深川の庵は人に譲り、旅立ちまでは門人【杉風(さんぷう)】の別宅に移り、

「草の戸も 住み代わる世ぞ 雛の家」
(意味)戸口が草で覆われたこのみすぼらしい深川の宿も、私にかわって新しい住人が住み、綺麗な雛人形が飾られるようなはなやかな家になるのだろう。

と発句を詠み、面八句を庵の柱に書き残すのだった。

この冒頭の文章(序文)にあるように、「漂泊の思い止(や)みがたく、古人に倣って自分も旅に出ることにした」というのが常識的で無難な解釈だと思います。

しかし、ほかに理由や目的はなかったのでしょうか?私は次のようなことも考えられると思います。

(1)大自然や史跡に実際に触れた感動を俳句に詠む必要性を痛感した

「貞門俳諧」や「談林俳諧」の言葉遊びのような「月並み俳諧(俳句)」に飽き足らず、実際に見聞した感動をダイナミックに表現する必要があると痛切に感じていたのではないでしょうか?

そして風雅な落ち着きを持ちつつ斬新さを求めて不易流行の詩美に高める「蕉風俳諧(俳句)」の確立を目指したのではないでしょうか?

(2)自分の死期が近いことを知って、旅をするなら今しかないと感じた

45歳と言えば、現代では働き盛りの中年ですが、江戸時代においては老境に入る年齢だったのではないかと思います。実際彼は5年後の50歳で亡くなっています。

しかも江戸時代の旅は、現代の物見遊山の快適な旅行と違って、登山並みの困難を伴っていたのではないかと思います。この旅が最後のチャンスと考えたのでしょう。

彼は「奥の細道」の旅では、1689年3月27日に江戸深川を出発し、みちのく(奥州・北陸)の名所・旧跡を巡り、8月下旬に大垣に至るまで約150日間、全行程約600里(2400km)を歩いたと言われています。

(3)歌枕(名所旧跡)を訪ねる楽しみを求めた

彼はまた、自分が尊敬する歌人の「歌枕(名所旧跡)」を訪ねることも楽しみにしていたのではないでしょうか?

(4)歌日記のような俳句の紀行文のジャンルを開拓したかった

彼は5年前の1684年にも、門人の苗村千里を伴って関西方面(伊勢・伊賀上野・大和・吉野・山城・近江・大垣・桑名・熱田・京・伏見など)へ8カ月間の旅を行い、「野ざらし紀行」を著しています。

「野ざらし紀行」の題名の元になった「野ざらしを心に風のしむ身哉」にも、悲痛な決意というか、並々ならぬ意欲が感じられます。

「奥の細道」で俳句の紀行文(俳諧紀行文)の集大成をめざしたのでしょう。

(5)各地の門人たちとの交流・交歓のほか、新たな門人の獲得をめざした

芭蕉は全国各地に多くの門人を持っていました。もちろん経済的な「後援者」になっている裕福な人も多くいたことでしょう。会えるのはこれが最後かもしれないと考えて、句会を開いたりして彼らと旧交を温め、絆を確かめるとともに、新たな門人も獲得したかったのではないかと思います。あわせて金銭的な援助(開催した句会での謝礼など)も期待していたかもしれません。

(6)各地の有力者からの歓待を受けるグルメの旅を楽しみたかった

直接の門人や芭蕉を敬愛・私淑する人でなくても、芭蕉の「俳聖」としての名声は高まっており、同伴した門人の河合曾良が手配した各地の有力者の歓迎の宴で、その土地の名産のグルメに舌鼓を打つ楽しみもあったのではないかと思います。

2.「芭蕉の幕府隠密説」は本当か?

「隠密」といえば、赤穂浪士に対して切腹処分を主張した荻生徂徠は、「元隠密」(徳川吉宗が紀州から連れて来た「御庭番」の後身)と言われています。また、富嶽三十六景で有名な葛飾北斎も「隠密」だったのではないかという話があります。

では芭蕉も幕府の隠密だったのでしょうか?隠密として「奥の細道」を旅したのでしょうか?

これは彼の出身地が「伊賀上野」で、伊賀者・甲賀者などと呼ばれる「忍者のふるさと」だったことが一因でしょう。

また、約150日間で全行程約600里(2400km)を歩いた(1日平均16km)健脚だったこともそうみられた原因かもしれません。

さらに芭蕉の「奥の細道」の旅に随行した弟子の河合曾良(1649年~1710年)が、「曾良旅日記」を著したり、この旅の後に将軍徳川家宣の命により幕府巡見使随員となって九州や壱岐を回っており、「隠密」という見方があるからかもしれません。

芭蕉の最古参の弟子で、芭蕉に「芭蕉庵」という住居を提供するなど生涯にわたる経済的後援者(庇護者)であった「蕉門十哲」の一人・杉山杉風(すぎやまさんぷう)(1647年~1732年)は、幕府御用達の富商の魚問屋ですが、実は「幕府隠密」だったという話があります。(嵐山光三郎著「悪党芭蕉」にその話が載っています)

杉山杉風

「奥の細道」の旅の随行予定者も、最初は河合曾良ではありませんでしたが、杉風が強く河合曾良を推薦したそうです。この話も「芭蕉隠密説」が生まれた遠因かもしれません。

「伊達藩を偵察する公儀隠密説」がありますが、裏付けは何もありません。

元々武士でもないご老体の芭蕉に、伊達藩を偵察する公儀隠密のような重大な任務を命じるとは常識的にも考えられません。

余談ですが、女優の山口智子さん(唐沢寿明さんの妻)は杉山杉風の子孫だそうです。

山口智子

3.松尾芭蕉とは

松尾芭蕉(1644年~1694年)は、伊賀上野(現在の三重県)に生まれ、幼名は金作、元服後は宗房(宗房)と名乗りました。松尾家は名字帯刀を許されていましたが、身分は武士ではなく準武士待遇の農民でした。

12歳の時に父親が亡くなり、18歳で藤堂藩の侍大将の嫡子・良忠に料理人として仕えます。藤堂高虎を藩祖とする藤堂藩には文芸を重んじる藩風があり、彼も良忠から俳諧の手ほどきを受けます。22歳の時、師と仰いでいた良忠が没し、悲しみと追慕の念からますます俳諧の世界にのめり込んでいったそうです。

後年、「奥の細道」に旅立つ1年前に故郷の伊賀上野に帰省した時に詠んだ「さまざまの事思ひ出す桜かな」という句には、彼の万感の思いがこもっているように思います。

20代を京で過ごし、29歳で江戸に移りますが、治水工事(神田上水の浚渫工事)の現場監督を務めた記録がある程度で、当時の生活ぶりは不明です。

30歳を過ぎて、憧れていた中国の李白になぞらえて「桃青(とうせい)」と号し、37歳で後に「芭蕉庵」と呼ばれる深川の庵に転居します。庭に茂った芭蕉を気に入って、俳号を「芭蕉」に変更しました。

40歳を過ぎて、「蕉風」と呼ばれる俳諧世界を確立して、「奥の細道」の旅が終わった頃から「不易流行」を唱えるようになります。そして後世には「俳聖」と呼ばれるに至ります。

当時は複数の人で行う俳諧という形式だけで、独立した俳句の形式はありませんでした。したがって芭蕉は「俳人」ではなく、正しくは「俳諧師」です。

彼は40歳前後で転機を迎えます。1682年の「天和の大火」(いわゆる「八百屋お七の火事」)による芭蕉庵の焼失、故郷の実母の死、飢饉などの心痛が重なったことを契機に、残り少ない人生を考え、自分の俳諧の完成を目指して「野ざらし紀行」や「奥の細道」の旅に出ることになったようです。