本居宣長(もとおりのりなが)と言えば「古事記伝」を書いた江戸時代の有名な国学者ですが、彼がなぜ古事記伝を書いたのかご存じの方は少ないのではないかと思います。
そこで今回は本居宣長の古事記伝執筆の経緯ならびに彼の生涯を振り返ってみたいと思います。
1.本居宣長の「古事記伝」執筆の経緯
(1)執筆のきっかけ
医師になるため京に遊学中から、師匠の堀景山の影響もあって、契沖や荻生徂徠の学問に触れたことから、日本固有の古典文学を熱心に研究するようになり、「国学」(*)の道に入ることを志しました。
(*)「国学」
「国学」とは、「儒教や仏教の渡来以前の、日本固有の精神・文化を明らかにすることを主たる目的とした学問」で、契沖を祖とし、荷田春満・賀茂真淵を経て本居宣長によって完成され、平田篤胤に引き継がれた学問です。神道・国史・歌学・語学・有職故実などの諸領域にわたる研究を、総合的かつ実証的な文献学的方法で行うものです。平田篤胤に至って「復古思想」が強調され、「尊王攘夷運動」の思想的根拠となりました。
また京都での生活に感化されて、王朝文化への憧れを強めて行きました。そして源氏物語における「もののあはれ」の発見から、古事記の「大和心(やまとごころ)」の発見へと進んでいったものと思われます。
「しき嶋の やまと心を 人とはば 朝日ににほふ 山ざくら花」という有名な和歌があります。これは彼の61歳自画自賛像に賛として書かれたものです。
これは「日本人である私の心とは、朝日に照り輝く山桜の美しさを知る、その麗しさに感動する、そのような心である」という意味です。
ちなみに、ここで彼が好んだ「桜」が、「染井吉野(ソメイヨシノ)」ではなく「山桜(ヤマザクラ)」だということに注意してください。
現在我々が見る桜は、ほとんどが花が咲いた後に葉が出る「ソメイヨシノ」です。しかし「ヤマザクラ」は葉が出ると同時に花も咲きます。この葉と花を同時に見られる風情あるヤマザクラを知ると、彼ならずともきっと好きになるはずです。
白っぽい花ばかりのソメイヨシノは単調で、「姥桜(うばざくら)」と呼ばれるように白髪のお婆さんのように思えて来るから不思議です。ただし、この呼び名は葉がないことを「歯無し(はなし)」に掛けてできたものです。
(2)執筆の目的
①古事記を多くの一般の人々に読んでもらって「大和心」を再認識してもらうこと
以前は古事記は「万葉仮名」で記された漢字ばかりの本で、一般の人には理解できないものでした。そこで彼は訓点を付けるとともに、注釈を施して理解しやすくしたのです。
この本の発表は、従来は正史である「日本書紀」を読む際の副読本としての位置づけであった「古事記」が独自の価値を持った史書としての価値を獲得する契機となりました。
これは現代風に言えば、「古事記現代語訳」や「マンガで読む古事記」のような一般の人にも良く理解できる古事記の解説書・入門書と言えるでしょう。
②儒学や朱子学は中国から伝来した考え方で、本来の日本人の心情にそぐわないものであることを人々に訴えること
彼は、「源氏物語」の中にみられる「もののあはれ」という日本固有の情緒こそ文学の本質であると主張し、大昔から脈々と伝わる自然情緒や精神を第一義とし、外来的な儒教の教え(「漢意(からごころ)」)を自然に背く考えであると非難し、中華文明を参考にして取り入れる荻生徂徠(1666年~1728年)の考え方を批判しました。
仏教の教えや儒教の道徳を説くことが文学の目的ではなく、「もののあはれを知る」、つまり物事の繊細な機微を感じさせることこそが文学であるという主張です。
ただ、これも行き過ぎると漢字を捨てた朝鮮のような愚かなナショナリズムに陥る恐れがあります。
③日本再発見と日本ルネッサンス
これは私の勝手な解釈ですが、日本人はとかく自国の文化の良さを自覚せず、外国人によって評価されて初めて気付くということがよくあります。
幕藩体制下での御用学問・倫理規範としての朱子学は、統治者にとっては都合がよいものではありますが、日本人の心情とは相いれない部分も多くあります。
そこで、彼は日本人の人間性を取り戻すための「文芸復興(ルネッサンス)」として「古事記」の発掘と普及をめざしたのではないかと思います。
④太安万侶らの日本文化を守る決意を正しく蘇らせること
漢字・漢文の流入という日本文化の一大危機にあたって、日本本来の「意と事と言」を残そうとした太安万侶らの決意を、1000年の時を超えて正しく蘇らせることを目的としたものです。
⑤古事記に描かれた神代の不可思議な物語はそのまま信ずるべきとの主張
彼は儒教の説く「理」に対して、目で見、手に触れることのできる事実の世界「事」を対置して、古事記の物語を人知で疑ったり、理屈を言ったりするのは「漢意(からごこと)」のさかしらに過ぎないと主張しました。
確かにギリシャ神話の伝説の都市トロイアの存在を信じて発掘調査を行い、トロイアの遺跡を発見したハインリヒ・シュリーマン(1822年~1890年)のような例もあります。
しかし私は、「古事記」は基本的に朝鮮半島から渡って来た天皇家の祖先が、自らの統治権の正統性を主張する根拠付け・権威付けとして、国生み神話や多くの神々を創作したのだと思います。
中には事実に基づく記述もあるかもしれませんが、神による天地創造(と言っても日本列島だけの)の話とその神の子孫が天皇だというのは全くナンセンスなものです。
ただ、このナンセンスな神話をもとに明治憲法で天皇が「現人神(あらひとがみ)」とされ、神話部分をも歴史的事実とする「皇国史観」の教育が学校で行われたことは、今考えると恐るべきことです。これは行き過ぎた「国粋主義」ですが、本居宣長の考え方の影響も大きかったのではないかと思います。
余談ながら、太平洋戦争末期の昭和19年(1944年)編成された「神風特別攻撃隊」(特攻隊)五隊の名前は「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山櫻隊」「菊水隊」というのですが、これは本居宣長の和歌「しき嶋の やまと心を 人とはば 朝日ににほふ 山ざくら花」にちなんだものです。
この特攻作戦は「必死必中の、さらにまた必殺の戦闘精神である。神州はこれによって護持される」と言われ、朝日新聞などは「勝利を呼び込む唯一の戦法である」と軍部へのお追従のように賞賛しています。今の朝日新聞には考えられないことですが・・・
2.本居宣長
(1)本居宣長とは
本居宣長(1730年~1801年)は、伊勢国松坂の豪商・小津家出身の国学者・文献学者・言語学者・医師です。自宅の「鈴屋(すずのや)」で多くの門人を集めて講義をしたことから、「鈴屋大人(すずのやのうし)」と呼ばれました。また、荷田春満・賀茂真淵・平田篤胤とともに「国学の四大人(しうし)」の一人とされています。彼が亡くなった時点で門人は487人に達していたそうです。
彼は伊勢国松坂の木綿仲買商・小津家の次男として生まれましたが、11歳で父が亡くなり、16歳で江戸の叔父の店に寄宿して商売の見習いを始めますが、商売に向いていなかったため、翌年帰郷しています。1748年、伊勢山田の紙商兼御師(おし)今井田家の養子となりますが、3年後に離縁して松坂に帰っています。
1753年、義兄が亡くなり小津家を継ぎますが、商売に関心はなく、江戸の店を整理し、母と相談の上、医師になるため京に遊学します。医学を掘元厚・武川幸順に、儒学を掘景山に師事し、寄宿して漢学や国学を学んでいます。この年、姓を先祖の姓である「本居」に戻しています。景山は広島藩儒医で朱子学を奉じましたが、反朱子学の荻生徂徠にも関心を示し、また契沖の支援者でもありました。
1758年、松坂に帰った彼は医師を開業する傍ら、自宅で「源氏物語」の講義や「日本書紀」の」研究に励みました。そして「先代旧事本紀」と「古事記」を書店で購入し、賀茂真淵の書に出会って国学の研究に入ることになりました。
彼は平安朝の王朝文化に強い憧れを持ち、特に「源氏物語」を好みました。これは師匠の賀茂真淵が、万葉の「ますらおぶり」を尊び、平安文芸を「たをやめぶり」と貶めたのと対照的です。
ただし彼は随筆集の「玉勝間」で、「(賀茂真淵から)良い考えが出来たら、師の説と違っていても憚る必要はないと教えられた。そこがわが師の優れた点のひとつである」と述べていますので、遠慮する必要は全くなかったのでしょう。
彼の終生の課題は、日本文化に根ざした借り物でない正しい学問を構築することでした。そのために強く主張したのは、日本人の心に深く染みついた「漢意」(自らはそれと気づかずに中国流の発想をしてしまうこと)を取り除き、「やまとだましひ」(日本人の心の本来のあり方)を取り戻すことでした。
余談ですが彼は「鈴」と「山桜」を殊のほか愛していました。「鈴」については駅鈴のレプリカなど珍しいものを多数所有していました。
桜については次のような文章が「玉勝間」にあります。
花は桜、桜は、山桜の、葉あかくてりて、ほそきがまばらにまじりて、花しげく咲きたるは、又たぐふべき物もなく、うき世のものとも思はれず。
(2)業績
契沖の文献考証と師・賀茂真淵の「古道説」を継承し、国学の発展に多大の貢献をしました。彼は真淵の励ましを受けて、「古事記」の研究に取り組み、約35年を費やして当時の「古事記」研究の集大成である注釈書「古事記伝」を著しました。
ほかに源氏物語の注解書である「源氏物語玉の小櫛」や随筆「玉勝間」などがあります。
また日本語そのものの研究としては、「てにをは」の係り結びの法則を発見しています。さらに古代日本語の音韻を分析した成果は、彼自身の研究に寄与しただけでなく、西洋の比較言語学が知られるようになってから再発見され、現代の研究にも影響を与えています。
彼の本業は医師で、亡くなる10日前まで患者の治療に当たっていたそうです。まさに「生涯現役」です。しかも「副業」として門人への講義も行っていたのですから、「畢生の大事業」である「古事記」や「源氏物語」などの研究はそれらの「スキマ時間」にやっていたことになります。
彼は和歌にも精力的に取り組んでおり、54年間に約1万首も詠んでいます。
(3)名言
①才のともしきや、学ぶことの晩きや、暇のなきやによりて、思いくずおれて、止まることなかれ。
「うひ山ぶみ」にある言葉です。英語のことわざ「You’re never too old to learn」もよく似た意味です。
自分には才能が乏しいとか、学び始めるのが遅かったとか、する暇がないといった理由で思い悩んだり落ち込んだりして、進歩することを止めてはいけないということです。
②人も人の行うべきかぎりを行うのが人の道にして、その上にそのことの成ると成らざるとは人の力に及ばざるところぞ。
「玉くしげ」にある言葉です。
人は自らのやるべきことに全力を尽くすべきで、それが成功するかしないかは我々の力の及ばないところであるということです。「人事を尽くして天命を待つ」ということでしょう。
これは35年の歳月をかけて「古事記伝」を完成させた彼自身のことを言っているようです。
③人の情の感ずること、恋にまさるはなし。
「源氏物語玉の小櫛」にある言葉です。人が心に感じることで、恋心より強いものはないということです。恋というのは、自分でも想像できないほどの行動をさせてしまう原動力だというわけです。「恋は思案の外(ほか)」ということわざとよく似た意味でしょう。
3.本居宣長の一族・子孫の有名人
(1)小津安二郎
小津安二郎(1903年~1963年)は、「小津調」と言われる独特の映像世界ですぐれた作品を生み出し世界的にも高い評価を得ている映画監督・脚本家ですが、伊勢松坂の豪商・小津家の子孫にあたり、本居宣長はその一族です。
原節子・笠智衆が主演した「東京物語」「晩春」「麦秋」などの映画が有名です。
彼は次のように語っています。
僕のテーマは「ものの哀れ」という極めて日本的なもので、日本人を(映画で)描いているのだから、これはこれでいいと思う。
小津安二郎にも、本居宣長の「真心」「大和心」「もののあはれ」と共通した思いがあったということですね。
(2)本居長世(もとおりながよ)(和歌山本居家)
本居長世(1885年~1945年)は、東京音楽学校(現東京芸術大学)ピアノ科卒の童謡作曲家・ピアニストですが、本居宣長の和歌山本居家(大平系)6代目の子孫で、国学の名門の家に生まれました。
祖父の本居豊穎は国学者で大正天皇の皇太子時代に東宮侍講を務めており、父の本居于信も国文学者として知られていました。しかし、国学の道を選ばず、音楽の道に進みました。
特に野口雨情とのコンビで、「赤い靴」「七つの子」「青い目の人形」「十五夜お月さん」「葱坊主」などの名曲を世に送り出しました。
(3)本居春庭(もとおりはるにわ)(松坂本居家)
本居春庭(1763年~1828年)は本居宣長の実子(長男)で、国学者・国語学者です。
彼は幼少から、父によって教育を兼ねた文献筆写を行わされています。父の口述筆記を行ったり、父の調合した売薬販売の手伝いもしています。「古事記伝」の刊行が決定した後は、その版下書きをしています。
1791年に眼病を患いましたが、病状は徐々に悪化して1795年頃には完全に失明しています。家督は養子の本居大平(和歌山本居家)に譲られましたが、彼は障害を乗り越えて1803年には「詞八衢」を完成させています。この書は現代の動詞活用研究の原型を作ったものです。