残念な天皇の話(その14)。 崇峻天皇は自分を擁立した蘇我馬子に暗殺された

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崇峻天皇

日本の皇室(天皇家)は「世界最長の歴史を誇る王室」と言われており、古事記や日本書紀にある神武天皇が実在していたとすると、第126代の今上天皇まで皇室は2600年以上の歴史があることになります。

応神天皇5世の孫とされる第26代継体天皇(450年? ~531年)が確実に実在した初代天皇だとしても、「世界最長の歴史を誇る王室」であることに変わりはありません。

このような天皇家の長い歴史の中では、暴虐の大君や暗愚な天皇、好色な天皇、間抜けな天皇、豪族や貴族との権力闘争を図った天皇もいました。 今回ご紹介する崇峻天皇は有力豪族との権力闘争を図って失敗し、暗殺された天皇です。

1. 崇峻天皇とは

崇峻天皇系図

第32代崇峻天皇は、在位わずか5年で蘇我馬子に暗殺されました。

歴代天皇の中で、「暗殺された疑いのある天皇」は明治天皇と孝明天皇で、「歴史上暗殺されたことが明らかな天皇」は、安康天皇と崇峻天皇です。

第32代崇峻天皇(553年? ~592年、在位:587年~592年)は、第29代欽明天皇の第12皇子で、母は蘇我稲目の娘・小姉君です。 第30代敏達天皇・第31代用明天皇・第33代推古天皇の異母弟です。

彼は蘇我馬子(そがのうまこ)の娘・河上娘(かわかみのいらつめ)、大伴連糠手(おおとものむらじぬかて)の娘・小手子(こてこ)、物部尾輿(もののべのおこし)の娘・太媛(ふとひめ)を娶っています。

彼は「大臣(おおおみ)」の蘇我馬子(551年? ~626年)によって推薦されて即位しました。 一方、「大連(おおむらじ)」の物部守屋(もののべのもりや)(? ~587年)は、彼の同母兄である穴穂部皇子(あなほべのみこ)(? ~587年)を即位させようと図りましたが、穴穂部皇子は蘇我馬子によって殺害されてしまいました。

その後、蘇我馬子は物部守屋を滅ぼし、これ以降物部氏は没落しました。 物部守屋討滅には彼もその一員として加わっています。

物部氏(廃仏派)の没落によって欽明天皇以来の「崇仏廃仏論争」(*)に決着が付き、法興寺(飛鳥寺)の造寺事業が行われました。

(*)「崇仏廃仏論争(崇仏論争)」とは、もともと土着の宗教観を持っていた日本に552年(あるいは538年)に仏教が伝来し、信仰の対象となって来ました。それに伴って、仏教の受容を主張する蘇我氏と、それに反対する物部氏・中臣氏との間に起こった宗教論争です。

仏教をもたらした渡来人とつながりのあった蘇我稲目(そがのいなめ)は仏教の受容を積極的に主張しましたが、物部尾輿(もののべのおこし)・中臣鎌子(なかとみのかまこ)は日本古来の神々を祀る神道の立場からこれに反対しました。

疫病の流行が日本の神々の怒りとされ、仏教受容派は一時劣勢に立たされていましたが、蘇我馬子が武力で物部守屋を弾圧し、自らが推す崇峻天皇が即位したことによって、論争は崇仏派の蘇我氏の勝利となりました。

しかし、彼が蘇我馬子に擁立されて即位した後も、政治の実権は常に蘇我馬子が握っており、次第に不満を募らせて行きました。

592年10月4日、彼に猪を献上する者がありました。彼は笄刀(こうがい)を抜いてその猪の目を刺し、「何(いずれ)の時にか此の猪(しし)の頸(くび)を断(き)るが如(ごと)く,朕(わ)が嫌(ねた)しとおもふ所の人を断らむ(日本書紀)」(いつかこの猪の首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」と呟きました。

「日本書紀」には、小手子が天皇の寵愛が衰えたことを恨み、献上された猪を見て天皇が言った上のような独り言を蘇我馬子に密告したことが、崇峻天皇暗殺事件のきっかけになったという記述があります。

そのことを聞きつけた蘇我馬子は、「天皇が自分を嫌っている」と警戒し、部下に暗殺命令を下しました。

蘇我馬子は渡来人の東漢駒(やまとのあやのこま)(?~592年)に「言うことを聞けば、大和朝廷で重用しよう」と誘いをかけました。つまり崇峻天皇を暗殺するようそそのかし、殺害を命じたのです。

そして、592年11月に蘇我馬子は東国の調を進めると偽って天皇を儀式に臨席させ、その席で東漢駒に天皇を暗殺させました。

蘇我馬子はすぐに犯人の東漢駒を捕らえて、約束を反故にして首を刎ね、一族も皆殺しにしてしまいました。これは崇峻天皇暗殺の口封じとも言われています。何だかケネディ大統領の暗殺犯が殺害されたケースとよく似ていますね。

なお、崇峻天皇は、通常天皇が死去した場合に行われる「殯(もがり)」も行われず死亡した当日に葬られていることや、陵地や陵戸がないことは、他の天皇に例がありません。

そのため、当初は崇峻天皇の御陵地(お墓)はありませんでした。後に、崇峻天皇の御陵(みささぎ)は桜井市の倉橋にある倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ)に治定されています。

近年、歴史学者で国学院大学文学部教授の佐藤長門氏は、「王殺し」という異常事態であるにもかかわらず、天皇暗殺後に内外に格別動揺が発生していないことを重視して、蘇我馬子個人の策動ではなく、多数の皇族や群臣の同意を得た上での「宮廷クーデター」であった可能性を指摘しています。

蘇我馬子は崇峻天皇時代までは、敵対する者は躊躇せずに征伐するという非情な面がありました。

しかし蘇我馬子はその後、比較的温厚な面を見せ始めます。すなわち初めての女帝として崇峻天皇の異母姉の推古天皇を擁立し、その摂政に彼女の甥の厩戸皇子(聖徳太子)を就かせ、聖徳太子と協調して政治を行いました。聖徳太子は、蘇我馬子の娘・刀自古郎女(とじこのいらつめ)を妻としています。

ただ、蘇我馬子の息子と孫である蘇我蝦夷と蘇我入鹿は、若い頃の蘇我馬子の非情さを彷彿とさせる行動を取ります。

すなわち、聖徳太子を斑鳩の里に押し込めて宮廷に出て来られないようにしたり、聖徳太子の死後は推古天皇の後継者争いで、その息子の山背大兄皇子(やましろのおおえのおう)を法隆寺で殺害したりしています。

このような蘇我馬子以来の蘇我氏の大和朝廷における権力独占による横暴が、逆に大王家(天皇家)の中に「大王中心の政治への回帰願望」を生んで行きました。

崇峻天皇の恨み、聖徳太子の無念さ、聖徳太子の息子である山背大兄皇子の悲惨な最期は、次代の中大兄皇子(後の天智天皇)によって、「大化の改新」での蘇我氏一族殺害につながって行ったのです。

2.蘇我馬子とは

蘇我氏家系図

蘇我馬子(そがのうまこ)(551年?~626年)は、蘇我稲目の子で飛鳥時代の豪族です。邸宅に島を浮かべた池があったことから「嶋大臣」とも呼ばれました。

572年、第30代敏達天皇の即位時に大臣となり、以降54年にわたり第31代用明天皇・第32代崇峻天皇・第33代推古天皇の四代に仕えて権勢を振るい、蘇我氏の全盛時代を築きました。

ちなみに彼は権力闘争を続けていた物部守屋(もののべのもりや)(?~587年)の妹を妻としています。

「仏教受容問題」(崇仏問題)では、排仏派の物部守屋や用明天皇の異母弟で皇位に就きたがっていて守屋に与した穴穂部皇子(あなほべのみこ)(?~587年)らと対立し、諸皇子・群臣を味方に引き入れて587年に排仏派を殺害し、朝廷における地位を確立しました。

その後、自身の擁立した崇峻天皇を殺害し、推古天皇を立てて聖徳太子とともに朝政を執りました。