松尾芭蕉が俳号を「桃青」から「芭蕉」に変更したのはなぜか?芭蕉の由来は?

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松尾芭蕉

昔の人は自分の名前を何回も変えることがよくありました。葛飾北斎は30回も改名しています。

幕末の勤王の志士である高杉晋作も、初め楠樹と号し、後に東行と改め、東行狂生、西海一狂生、東洋一狂生と何度も改名し、変名も多く使っています。

日本の初代総理大臣になった伊藤博文も、幼名は利助ですが、吉田松陰から俊英の俊を与えられて俊輔と改名し、さらに春輔に改名しました。そして高杉晋作に「博文約礼」から取った博文という名前を勧められ改名し、終生使用しました。変名も多く使っています。

なお「博文約礼」とは、「論語」に由来する言葉で、「広く書物を読んで見識を高め、礼を基準にしてそれをまとめ、実践すること」です。

明治時代に俳句や短歌の革新運動で活躍した正岡子規もたくさんの俳号を持っていたことで有名です。またそのうちの一つの「漱石」を夏目漱石が気に入って譲ってもらったこともよく知られています。

「改名」の動機は、「イメージチェンジする」「心機一転を図る」とか、「人生をリセットする」という意味があったのではないかと思います。

では「奥の細道」で有名な松尾芭蕉が俳号を「桃青」から「芭蕉」に変更した理由は何でしょうか?また「芭蕉」の由来は何でしょうか?今回はこれについて考えてみたいと思います。

1.「桃青」から「芭蕉」への俳号変更について

故郷の伊賀上野での最初の俳号は「宗房(そうぼう)」です。これは彼の名前が宗房(むねふさ)であったことが由来です。

20代を京で過ごし、29歳で江戸に移った後、30歳を過ぎて、憧れていた中国の李白になぞらえて「桃青(とうせい)」と号しました。

37歳で後に「芭蕉庵」と呼ばれる深川の庵に転居します。庭に茂った芭蕉を気に入って、俳号を「芭蕉(はせを/ばしょう)」に変更しました。

一般的には以上のように言われています。

(1)「桃青」という俳号の由来

上に挙げた「李白になぞらえた」という説は、「(すもも)に」「」を対応させて、「李白」にあやかって「桃青」と名乗ったというものです。

しかし「桃青」という俳号の由来については諸説あります。

「十論為辨抄(じゅうろんたべんしょう)」には、「桃姓のひびきより桃青」とあり、母親が桃地(百地)氏の娘であったところから桃の字を取ったとしています。

去留の「芭蕉翁全集」には、「おのれの未熟なるをいましめ、名を桃青とした」とあります。

「詩経」の「桃夭(とうよう)の篇」が由来との説もあります。

「悪党芭蕉」を書いた嵐山光三郎氏は「当世」に掛けているとの見解を述べています。芭蕉は「時流に乗る天才的直感があった」と見る嵐山氏らしい推理です。

(2)「日本橋」から「深川」に転居した理由

江戸に出た彼は、最初日本橋に住み、1677年には水戸藩邸の防火用水に神田川を分水する工事に携わっています。彼は未亡人の寿貞(じゅてい)を妾(内縁の妻)として同棲しています。その前年の1676年に甥の桃印(とういん)を伊賀上野から呼び寄せています。

住んだ場所は、終生の後援者となる魚問屋・杉山杉風の日本橋小田原町の宅など諸説ありますが、江戸の中心地で繁華な日本橋で俳諧の宗匠となり、点者(俳諧の優劣の判定者)生活を始めています。

しかし、1680年に彼は突然深川に居を移します。そして頭を丸めて僧形となります。森川許六の「本朝文選」にも「深川芭蕉庵に入りて出家す」とあります。

この突然の転居と出家の謎については、田中善信氏の「芭蕉=二つの顔」によると、「彼と同居していた甥の桃印が、妾の寿貞と駆け落ちしたため、日本橋に居られなくなり、出家したように世間に見せかけて深川に隠れ住まなければならなくなった」ということです。

駆け落ちは密通罪で死罪です。今まで同居していた二人がいなくなれば嫌疑の目がかかります。それを隠すために彼は深川へ隠れなければならなかったというわけです。

日本橋に居た頃は多くの門弟がいましたが、ほとんどが離散してしまいます。そして深川に庵に会いに来るのは、宝井其角、杉山杉風、服部嵐雪などわずかでした。

(3)「桃青」から「芭蕉」に変更した時期

通説によれば「芭蕉」という俳号の由来は、彼が深川の庵(後に「芭蕉庵」と呼ばれる)に入った翌年(1681年)春に、門人の李下(りか)が庵に「芭蕉」の木を植え、彼が気に入ったためと言われています。つまり「桃青」から「芭蕉」に変更したのは、深川に転居した翌年の1681年です。

「続深川集」に「李下芭蕉を送る」と前書きがついて、「芭蕉植ゑてまづにくむ荻(おぎ)の二葉哉(かな)」という芭蕉の句が出ています。

しかし「悪党芭蕉」を書いた嵐山光三郎氏によると、「桃青」から「芭蕉」に変更したのは、深川に転居した1680年で、翌年に弟子の李下が「その俳号にちなんで芭蕉を植えた」と推理しています。

その根拠は、1680年冬の「柴の戸に」句文(「続深川集」)に次のような文章と句が載っているからです。

こゝのとせの春秋(江戸に出て9年)、市中に住侘(すみわび)て、居を深川のほとりに移す。「長安ハ古来名利の地、空手(くうしゅ)にして金(こがね)なき者は、行路難し」と云ひけむ人の賢く覚え侍るは、この身の乏しき故にや

柴の戸に茶を木の葉掻く嵐哉  はせを

この「柴の戸に茶を木の葉掻く嵐哉」という句は、「柴の戸に吹きすさぶ風が松葉を吹き寄せる」という意味ですが、これは「芭蕉の葉に松の葉が落ちて穴をあけてしまう」という謡曲「芭蕉」や「山家集」にある西行の「風吹けばあだにやれゆく芭蕉葉のあればと身をも頼むべきかは」という歌を念頭に置いたもののようです。

2.「芭蕉」という俳号の由来

「芭蕉」という俳号の由来については二つの説あります。

(1)門人の李下が庵に植えてくれた植物の芭蕉が由来とするもの

破れ芭蕉芭蕉

門人の李下(りか)が庵に「芭蕉」の木を植え、それを彼が気に入ったため俳号も芭蕉に変えたと言うのが一般的な解釈です。

上に述べたような事情で、やむなく深川に隠れるように移り住んだ傷心の彼は、姿を覆い隠してくれるような「芭蕉」という植物に好感を持ったのかもしれません。

しかし、李下(りか)が庵に「芭蕉」の木を植える前年から「はせを(芭蕉)」という俳号を使っていますので、この解釈は後付けで誤りです。

バナナの木

また、「芭蕉」は南洋のバナナの木に近い植物で優雅さはなく、侘び・寂びとも無縁の日本的情緒に欠ける植物だと私は感じます。「桃青」は甘美な香りが漂う艶やかな俳号なのに対し、「芭蕉」はその対極にあるような俳号です。

(2)謡曲の芭蕉が由来とするもの

謡曲芭蕉の呪い

これは「悪党芭蕉」を書いた嵐山光三郎氏の説です。

「維摩経(ゆいまきょう)」に芭蕉は無常の象徴として出てくる。また「芭蕉が女に化けて出る故事」があり、謡曲「芭蕉」は、女の芭蕉に世の無常を語らせる。夏は丈が高く茂り、冬は枯れつくす化物のような植物が、色香の失せた初老の女の姿であらわれる。

名ノリ笛のあと、ワキが「これは唐土楚国の傍・せうすい(瀟水)と申す所に山居の僧にて候・・・」

自分は中国の揚子江中流にある片田舎の瀟水という所に住む僧である。毎日怠らずに読経をしておりますが、不思議なことがおこる。夜な夜な、粗末な庵に法華経の声がきこえるので、今夜は、だれが来て法華経を読むのか尋ねようと思っていると、数珠と水桶を持った女(前シテ)があらわれ、うしろむきとなって、「芭蕉に落ちて、松の声、芭蕉に落ちて、松の声、徒(あだ)にや風の破るらん」と語る。

風に吹かれて落ちる松葉が芭蕉の葉にあたって、そんなすこしの風でも芭蕉の葉は破れてしまうと語る。「徒にや風の」は、西行の歌「風吹けばあだにやれゆく芭蕉葉のあればと身をも頼むべきかは」(山家集)による。芭蕉の葉は、はかなく破れやすいものの譬えであった。

夜、月光の下でみる芭蕉には人の気配があり、風にあたってさわさわと揺れると何者かがそこに立っているようにも思える。

謡曲「芭蕉」は、中途で「語り」が入る。

雪が降った庭にある芭蕉は「偽る」ことの譬えで、それは唐代の逸話による。唐の帝は芭蕉を好み、冬になると枯れてしまうため、摩詰という画家(唐代の詩人王維。南画の祖)に注文して、芭蕉葉に雪が降り積もった絵を描かせた。この世にはあり得ない風物を絵にした。これは「夏の炎天下の梅の絵」とともに珍重された。これにより、芭蕉はただならぬもの、尋常ではないものを象徴する植物となった。故事に禅林の詩「芭蕉無耳聞雷開」(芭蕉耳無うして雷を聞いて開く)という。

つづいて問答があり、ワキ「芭蕉の葉が偽りであるというが、芭蕉が女としてあらわれることは不思議なことだ」。月夜の晩に経をとなえていると、「風の芭蕉や、伝ふらん」(風が読経の声を運んで、芭蕉の葉に吹きつける)と聞こえる。

夜、よく寝つけず、うとうととしていると、芭蕉が女の姿であらわれる。「なにゆえ芭蕉が女に身を変えたのか」と訊けば「土や草木が自分がなぜそうなったのかわからぬのと同じように自分でもわからない」と答える。

芭蕉となった女は哀れな風情で、着る衣は薄く、みすぼらしく、袖もほころびがちである。これは僧が見た夢という設定であって、最後は、天女が羽衣で舞うように女が芭蕉の葉袖をつけて舞うと、扇であおいだような風が吹き、荒れ果てた古寺の庭の浅茅生(あさじう)や女郎花(おみなえし)、刈萱(かるかや)をさわがせて、揺れる草の上の露に映っていた女の姿が見えなくなり、あとは山風が吹いてくるのみだ。花も干草もちりぢりに消えて、そこには破れた芭蕉の葉が残っている。

謡曲の「芭蕉」は、古寺に棲む無常なる妖怪化身で、しかも女なのである。

つまり、彼自身の境遇や心情から「桃青」は「芭蕉」(無常なる女の妖怪)という号に改めたという推理です。これはかなり説得力があります。

3.その他「芭蕉」にまつわるもの

(1)能の芭蕉

能楽芭蕉

能の芭蕉は、「芭蕉の精」を主人公にして、その成仏を主題にした金春禅竹(1405年~1470年頃)の作品です。金春禅竹は世阿弥(1363年?~1443年?)の娘婿で、その作風は能の幽玄美を一層追求したもので、物語性よりも思想的な内容を重視した作品を多く作っています。

(2)日本の怪異譚に出てくる芭蕉(芭蕉精)

怪異譚芭蕉の精

芭蕉精(ばしょうのせい)は、鳥山石燕(とりやませきえん)(1712年~1788年)の妖怪画集「今昔百鬼拾遺」に出てくる怪異で、芭蕉の霊が人の姿をとるなどして人を化かすというものです。

(3)漱石山房・漱石山房記念館の芭蕉漱石山房の漱石漱石山房の芭蕉漱石山房記念館と芭蕉

「漱石山房」とは、早稲田南町にある夏目漱石が晩年に過ごした家のことです。特徴は、和洋折衷の平屋建てということと、庭にあった「芭蕉」の木、ベランダ式の回廊などです。

「漱石山房記念館」とは、2017年に漱石生誕150周年を記念して東京都新宿区が開設した記念博物館です。

(4)伊藤若冲の絵の芭蕉

伊藤若冲の芭蕉

伊藤若冲(1716年~1800年)とは、「動植綵絵」など独創的な奇想の絵師として知られていますが、相国寺にあるこの「月夜芭蕉図床貼付」も異色です。襖絵ではなく、床の間の壁に貼り付けてあるのです。

伊藤若冲の鶏図伊藤若冲の旭日鳳凰図

3.松尾芭蕉とは

松尾芭蕉(1644年~1694年)は、伊賀上野(現在の三重県)に生まれ、幼名は金作、元服後は宗房(宗房)と名乗りました。松尾家は名字帯刀を許されていましたが、身分は武士ではなく準武士待遇の農民でした。

12歳の時に父親が亡くなり、18歳で藤堂藩の侍大将の嫡子・良忠に料理人として仕えます。藤堂高虎を藩祖とする藤堂藩には文芸を重んじる藩風があり、彼も良忠から俳諧の手ほどきを受けます。最初の俳号は「宗房」です。22歳の時、師と仰いでいた良忠が没し、悲しみと追慕の念からますます俳諧の世界にのめり込んでいったそうです。

後年、「奥の細道」に旅立つ1年前に故郷の伊賀上野に帰省した時に詠んだ「さまざまの事思ひ出す桜かな」という句には、彼の万感の思いがこもっているように思います。

20代を京で過ごし、29歳で江戸に移りますが、治水工事(神田上水の浚渫工事)の現場監督を務めた記録がある程度で、当時の生活ぶりは不明です。

30歳を過ぎて、憧れていた中国の李白になぞらえて桃青(とうせい)」と号し、37歳で後に「芭蕉庵」と呼ばれる深川の庵に転居します。庭に茂った芭蕉を気に入って、俳号を「芭蕉に変更しました。

40歳を過ぎて、「蕉風」と呼ばれる俳諧世界を確立して、「奥の細道」の旅が終わった頃から「不易流行」を唱えるようになります。そして後世には「俳聖」と呼ばれるに至ります。

当時は複数の人で行う俳諧という形式だけで、独立した俳句の形式はありませんでした。したがって芭蕉は「俳人」ではなく、正しくは「俳諧師」です。

彼は40歳前後で転機を迎えます。1682年の「天和の大火」(いわゆる「八百屋お七の火事」)による芭蕉庵の焼失、故郷の実母の死、飢饉などの心痛が重なったことを契機に、残り少ない人生を考え、自分の俳諧の完成を目指して「野ざらし紀行」や「奥の細道」の旅に出ることになったようです。



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