宝井其角は「蕉門十哲」の一人だが、「不良俳人」「俳諧商人」でもあった

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其角と源吾

宝井其角と言えば、赤穂浪士討ち入りの前夜に四十七士の一人・大高源吾と両国橋の上で出会い、煤竹売りに身をやつした姿を憐れんで、「年の瀬や水の流れと人の身は」と詠んだのに対し、源吾が「あした待たるるその宝船」と返して討ち入り決行をほのめかしたという忠臣蔵の話で有名です。

宝井其角と大高源吾

しかし、宝井其角については、この話以外はあまり詳しく知られていないのではないかと思います。

そこで今回は宝井其角についてその人となりやエピソードをわかりやすくご紹介したいと思います。

1.宝井其角とは

宝井其角

宝井其角(1661年~1707年)は、江戸堀江町(現在の東京都中央区日本橋)で、近江国膳所藩医・竹下東順(たけもととうじゅん)の長男として生まれました。

1673年に、12歳で17歳年上の芭蕉に入門しました。親の業を継ぐべく草刈某に医術を学び順哲と称しました。「自筆年譜」によれば14歳で「本草綱目」、15歳で「伊勢物語」や「易経」を書写したそうです。

才能があり余り、儒学・古典文学・禅・俳諧にのめり込み、医者にはなりませんでした。

16歳の頃、鎌倉円覚寺の大巓和尚(だいてんおしょう)のもとに預けられました。其角の号は、大巓和尚が「晋其角」<其(そ)の角(つの)に晋(すす)む>から名付けられました。角は牛や犀の角のことで、「角をかざして突進すること」です。才気溢れる若者の傲慢を戒めたのです。

彼は毀誉褒貶の多い人です。大酒を飲み、遊里で遊び、画家の英一蝶、歌舞伎役者(初代)市川團十郎や豪商を友とした遊蕩児で、言わば「不良俳人」です。また「詩商人(あきんど)」「俳諧商人」とも呼ばれるほど、経済的才覚もあったようです。作風は派手で、平明かつ口語調の「洒落風」を興しました。

余談ですが、英一蝶は幕府に睨まれて三宅島へ遠島となり、市川團十郎は大見得を切っている舞台の上で歌舞伎役者の生島半六に刺殺されました。

彼は芭蕉の最も初期の門人で、「蕉門十哲」(*)の一人です。

(*)「蕉門十哲」

「芭蕉の門人のうち、代表的な10人のこと」ですが、書物や時代により若干の差があります。しかし一般には与謝蕪村が選んだ次の10人が一般的です。ちなみに与謝蕪村は、宝井其角の弟子の早野巴人に俳諧を学んでいます。

宝井其角・服部嵐雪・向井去来・内藤丈草・森川許六・杉山杉風・各務支考・志田野坡・越智越人・立花北枝

2.宝井其角の俳句

・傘(からかさ)にねぐらかさうやぬれ燕(つばめ)

雨に濡れたツバメを見て、「ほら、この傘の下に入っておいでよ」と呼びかけた句です。

・鐘ひとつ売れぬ日はなし江戸の春

めったに売れそうもない寺の梵鐘ですら、毎日売れるほど賑わい繁盛している大江戸のめでたい新春であることよ。

・夕涼みよくぞ男に生まれける

暑い一日が終わり、縁側に座り夕涼みをしている。浴衣がはだけても気にせず、団扇(うちわ)をあおぐ。ああ、男に生まれてよかったなあ。

・詩商人(あきんど)年を貪(むさぼ)る酒債(さかて)かな

俳諧商人(詩商人)である自分は酒代の借金に追われて、いたずらに年を取るばかりだ。

これには杜甫の「曲江」にある下記の詩文の前書きがあります。

「酒債尋常往ク処ニ有リ、人生七十古来稀ナリ

これは「酒代の借金はそこらじゅうにあるが、いくら借りても人間は七十までしか生きられない」という意味です。

・十五より酒を飲み出て今日の月

・名月や畳の上に松の影

・闇の夜は吉原ばかり月夜かな

・草の戸に我は蓼(たで)食ふほたる哉

常に酒を飲んで醒めることがなく、頻繁に吉原に通う奔放な生活を詠んだ句です。「蓼食う虫も好き好き」と言うことわざがありますが、それを「蓼食ふほたる」としたことで夜行性の自分を強調したものです。

これに対して師匠の芭蕉は「和角蓼蛍句(角が蓼蛍の句に和す)」と前書きして「あさがほに我はめし食ふ男哉」という句で戒めています。つまり、自分は朝顔が咲く時間には飯を食っている男であると返したわけです。

・越後屋にきぬさく音や衣更(ころもがえ)

越後屋は江戸日本橋にあった呉服屋で、三越の前身です。「現金掛け値なし」の新商法で大繁盛していました。更衣の日の商いの賑わいと庶民の活気が生き生きと伝わってくる句です。

・今朝(けさ)たんと飲めや菖蒲(あやめ)の富田酒(とんたさけ)

これは「回文」になった句です。

・梅が香や隣りは荻生惣右衛門

晩年、荻生徂徠宅の隣に草庵を結んだ時に詠んだ句です。

・わが雪と思へば軽(かろ)し笠の上

自分自身のためになるならば、苦労も負担にはならない。

・あの声で蜥蜴(とかげ)食らうか時鳥(ほととぎす)

美しい声で鳴くホトトギスも、醜い姿のトカゲを捕らえて食べていることには驚かされる。

・凩(こがらし)よ世に拾はれぬみなし栗

実が入っていない栗が落ちて木の葉の下に隠れていたものが、木枯らしが吹いて露わになった光景を詠んだ句です。ただし、これは「実の入っていない栗ではなく、世間が顧みようとしない実の入った拾い忘れた栗」という嘆き・自嘲の形を取った彼の自信を示す句です。

・鶯の暁寒しきりぎりす(辞世の句)

季節を過ぎてまだ生きているコオロギ(「きりぎりす」はコオロギの古名)の悲痛さに己の身を重ねた句です。15歳から飲み始めた酒が祟ったようで、46歳で亡くなりました。

3.宝井其角に対する芭蕉の評価

向井去来の著した「去来抄」に次のような逸話があります。

切られたるゆめはまことかのみのあと 其角

去来曰く「其角は誠に作者にて侍る。わずかに蚤(のみ)の喰ひつきたる事、たれかかくは謂ひつくさん」。先師曰く「しかり。彼は定家の卿也。さしてもなき事を、ことごとしくいひつらね侍る。ときこへし評に似たり」。

(現代語訳)「其角は本当に巧みですね。ちょっと、ノミが喰いついただけのことを、誰がここまで言い尽くせるでしょう」と向井去来が言うと、芭蕉が答えて「確かに。彼は藤原定家卿だよ。ちょっとしたことを、大袈裟に表現する(修辞が巧みである)と評されたのに似ているね」と言った。

国文学者の堀切実氏は、其角が「閑寂と伊達を特徴とする俳風」から、「奇警な見立てや謎めいた句作りを喜ぶ洒落風」へと変遷したと指摘し、「はじめ師の『閑寂』にも大いに共鳴していた其角であったが、師の没後は、『伊達』にして『寛闊』な境地に遊んだのであった」と評しています。