江戸川柳でたどる偉人伝(古代・奈良時代)久米仙人・柿本人麻呂・光明皇后・阿倍仲麻呂・吉備真備・中将姫・浦島太郎

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久米仙人

「川柳」は「俳句」と違って、堅苦しくなく、肩の凝らないもので、ウィットや風刺に富んでいて面白いものです。

今では、「サラリーマン川柳」や「シルバー川柳」など「〇〇川柳」というのが大はやりで、テレビ番組でも紹介されており、書籍も出ています。

そこで今回はシリーズで、日本古来の「偉人」を詠んだ「江戸川柳」を時代を追ってご紹介したいと思います。

川柳ですから、老若男女を問わず、神様・殿様も、猛者も貞女も大泥棒も、チャキチャキの江戸っ子が、知恵と教養と皮肉の限りを尽くして、遠慮会釈なくシャレのめしています。

第2回は「古代・奈良時代」です。

1.久米仙人(くめのせんにん)

久米仙人

・仙人様あと濡れ手で介抱(かいほう)し

・仙人の顔へたらいの水を吹き

・洗濯をやめやれ気付けやれ気付け

・揉み医者に見せやれなどと仙仲間(せんなかま)

・女湯(おんなゆ)の番をしたなら久米即死

「久米仙人」とは、奈良県橿原市久米町にある久米寺の開祖と言われる伝説上の仙人です。飛行中に洗濯をする女のふくらはぎ(「ふともも」とする文献もあり)を見て、メロメロになって神通力を失い、墜落しました。その後、その女性を妻として普通の人間として暮らしたそうです。

最初の句から3番目の句は、機を失った仙人に、「仙人様あ」と大声で呼びかけて、洗濯で濡れた手で介抱したり、たらいの水を口に含んで顔に吹きかけたり、「気付け薬を持ってきて」と頼んだりというわけです。

4番目の句は、仙人の仲間の中には、「腰を打っただろうから、揉み療治をする医者に見せたほうがいいよ」と親切に言う人もいますが、大体は悪口です。

5番目の句は、解説するまでもないでしょう。

2.柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)

柿本人麻呂

・末世(まつせ)まで明石(あかし)の浦で目を覚まし

・目覚ましに半分残す柿の本(かきのもと)

・明石から起こし人(て)の来る花の朝

・歌一首二ヶ月によむ賑やかさ

・人丸(ひとまる)に恥をかかせる寝濃い(ねごい)こと

・眠い目はおろか見えない目もあかし

柿本人麻呂」(660年頃~724年)は、飛鳥時代の歌人で「三十六歌仙」の一人です。後世、山部赤人とともに「歌聖」と呼ばれています。

下級官吏として持統天皇・文武天皇に仕え、その歌才によって「宮廷歌人」的な役割も果たしていたようで、官命によって地方に旅行したり、地方官になったこともあると考えられています。

「万葉集」には、長歌18首、短歌68首が収められており、万葉集第一の歌人と認められています。このほかに、全てが人麻呂作とは思われませんが「人麻呂歌集に出づ」として約370首の歌が入っています。

柿本人麻呂の歌は、「百人一首」にある「あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む」が有名ですが、江戸川柳では、「ほのぼのとあかしの浦の朝霧に島隠れゆく舟をしぞ思ふ」を題材にした句が、圧倒的に多く詠まれています。

その理由は、この歌が「朝起きのまじない」とされていたからです。そのやり方は、「寝る前に上の句を唱え、翌朝目が覚め次第、下の句を唱える」のだそうです。

4番目の句は、11月1日から始まる「顔見世興行」を見るために、前夜の10月31日に上の句を、翌朝下の句を唱える、つまり「二ヶ月がかりで歌一首」というわけです。

5番目の句の「寝濃い」は「寝坊なこと」で、まじないが効かなかったと人麻呂に恥をかかせるのです。

3.光明皇后(こうみょうこうごう)

光明皇后・施行風呂

・千人目(せんにんめ)鼻をつまんで湯を浴びせ

・千人の垢(あか)万代(ばんだい)に名が光り

・垢擦り(あかすり)を貸せとりきんで勅(みこと)のり

・白綾(しろあや)の垢擦りもあり施行風呂(せぎょうぶろ)

・薪(たきぎ)の車へ光明殿(こうみょうでん)御用(ごよう)

光明皇后(701年~760年)は、奈良時代の聖武天皇の皇后です。仏教への信仰が厚く、「施薬院」や「悲田院」を置きました。

「施行風呂」を建てて千人の垢を落とそうと決意しましたが、ちょうど千人目に、体中膿(うみ)だらけで悪臭を放つ男がやって来ました。

しかし、皇后が我慢してその身体を洗い、膿を吸ったところ、男は光明を放って「自分は阿閦仏(あしゅくぶつ)だ」と名乗ったという伝説があります。

3番目と4番目の句は、皇后は意気込んで「垢擦りを貸せ」と命じたのでしょうが、その垢擦りも皇后が使うのだからきっと「白綾製」だったろうというわけです。

5番目の句は、江戸時代の風習の引き写しで、風呂を沸かす薪の車には「光明殿御用」と札を立てたのだろうという想像です。

4.阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)

阿倍仲麻呂

・日本の寝言(ねごと)だという天の原(あまのはら)

・他人劫(たにんごう)の入(い)ったのは阿倍仲麻呂

・四角な文字の中で詠む三笠山(みかさやま)

・月の歌ばかり帰朝と奏聞(そうもん)し

阿倍仲麻呂」(698年~770年)は、奈良時代の遣唐留学生です。717年に吉備真備などといっしょに唐へ渡りました。その後、「科挙」に合格して玄宗皇帝に仕えました。753年に帰国しようとしましたが果たせず、72歳で客死しました。

5.吉備真備(きびのまきび)

吉備真備・月岡芳年筆

・大勢でいじめる上へ蜘蛛(くも)が下(お)り

・思うまま蜘蛛の教えでみんな読み

・東海と言うと大王ぎょっとする

・おれならば蜘蛛をつまんで捨てるとこ

・蜘蛛嫌いならばさっぱり読めぬなり

吉備真備(695年~775年)は、奈良時代の学者・政治家です。

717年に遣唐留学生として、阿倍仲麻呂などといっしょに唐へ渡りました。735年に帰国後は朝廷に仕えて、政治面でも貢献しました。

最初の句は、吉備真備が遣唐留学生として唐へ渡った時、唐人たちがいろいろな難題を出して真備をいじめて「野馬台(やばだい)の詩」を読ませようとした逸話を詠んだものです。

「野馬台の詩」は百二十字からなる難解な詩です。唐人から「読め」と迫られた真備は、全く読めないので住吉大明神・長谷寺観音に祈ると、天井から蜘蛛が下りてきました。その蜘蛛が糸を引きながら歩く通りに読むと、見事に読めたというわけです。

まさか読めるとは思っていなかった唐人は驚き、唐の大王も「えっ、読めるのか?」とぎょっとしたというのが、2番目と3番目の句です。

それにしても、蜘蛛が下りてきた時、これが神仏のおかげだとすぐに気付いて捨てなくてよかった、蜘蛛嫌いでなくてよかったねというのが、4番目と5番目の句です。

6.中将姫(ちゅうじょうひめ)

中将姫・月岡芳年筆

・糸の余りが惣菜(そうざい)の当麻寺(たいまでら)

・当麻寺機(はた)の余りをよごしにし

・けんちんにしろと当麻の機(はた)の屑(くず)

・織り屑(おりくず)に衣(ころも)を着せる当麻寺

・弱そうな物を中将姫は織り

中将姫とは、当麻寺の曼荼羅(まんだら)を織ったとされる伝説上の女性です。仏の助力によって、蓮の糸で織り上げたと伝えられています。

奈良県葛城(かつらぎ)市にある当麻寺の国宝「当麻曼荼羅(たいままんだら)」は、伝説では、中将姫が蓮糸で織ったとされています。

最初の句は、曼荼羅を織るのに使った残りの蓮(レンコン)は、惣菜にして食べただろうというわけです。

「当麻曼荼羅縁起」によると、曼荼羅を織るために百駄(「一駄」は、一頭の馬に乗せる分量)という大量の蓮を集めたそうなので、確かにお寺の惣菜ぐらいにはできたかもしれません。

惣菜のレパートリーも、「和え物(あえもの)」(よごし)、「けんちん汁」「天ぷら」などいろいろあっただろうというのが、2番目から4番目の句です。

レンコンの糸では弱そうな織物だねというのが、5番目の句です。

7.浦島太郎(うらしまたろう)

浦島太郎伝説浦島太郎

・浦島の 尻六角(しりろっかく)な 形(かた)だらけ

・浦島の 帰朝(きちょう)女房(にょうぼ)は どなた様

・浦島は 歯茎(はぐき)を噛んで くやしがり

・亀曰(いわ)く 浦島はなあ 若死(わかじに)だ

「浦島(太郎)伝説」は、「浦嶋子(うらしまこ)伝説」が原話とされ、『日本書紀』『万葉集』にも出てきます。さまざまな形で伝承されていますが、一般によく知られているのは、助けた亀に連れられて竜宮城へ行き、乙姫様の歓待を受けて、故郷に帰ってくると、300年も経ってしまっており、「開けるな」と言われた「玉手箱」を開けると、白い煙が出て白髪のお爺さんになるというお話です。

最初の句は、亀の背中に乗って行ったのだから、浦島の尻には亀の甲羅の六角形(亀甲)の跡が付いただろうという推察です。

2番目の句は、浦島が帰った時には、女房も誰かわからないので「どなた様」と尋ねただろうというわけです。しかし300年も経っているのですから、浦島の女房が生きているはずもないのですが・・・

3番目の句は、白髪になったばかりでなく、歯も抜けて歯茎ばかりだったろうという想像です。

4番目の句は、万年の寿命の亀から見れば、300歳くらいは若死の部類だというわけです。

余談ですが、我々がよく知っている「浦島(太郎)伝説」は上記の通りですが、これは明治時代に児童文学者の巌谷小波(いわやさざなみ)(1870年~1933年)が「子供向けの教訓を含んだ昔話」として広め、「国定教科書」でも「ウラシマノハナシ」として紹介されたものです。

この国定教科書の「国民童話」版は、明治政府が教科書向きに書き換えたものですが、巌谷小波著『日本昔噺』所収の「浦島太郎」に若干の手を加えて短縮したものだと目されています。

竜宮城に行ってからの浦島太郎の行状は、子供に伝えるにふさわしくない「結婚生活」の内容が含まれているため、この部分は改変(もしくは省略)されたようです

しかし、実は室町時代に作られた『御伽草子』では、まだ続きがあったのです。

御伽草子』では、おじいさんになった後、浦島太郎は鶴になって蓬莱山へ飛んでいき、時を同じくして龍宮城の乙姫様は亀に姿を変え蓬莱山へ向かい二人はそこで結ばれた、という結末なのです。

一説には、鶴と亀が縁起物とされるのはこの物語によるとまで言われるほど、まさにハッピーエンドの物語です。

ではなぜ現在一般的に知られている「浦島太郎」の結末は、おじいさんになってしまうというバッドエンドなのでしょうか?

それは、一説には浦島太郎が約束を破って玉手箱を開け、おじいさんになってしまったように、「約束を破ったら罰が下る」という教訓を教えるためだった、と言われています。

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