江戸川柳でたどる偉人伝(神代)天照大神・素戔嗚尊・日本武尊・神功皇后・仁徳天皇

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天照大神

「川柳」は「俳句」と違って、堅苦しくなく、肩の凝らないもので、ウィットや風刺に富んでいて面白いものです。

今では、「サラリーマン川柳」や「シルバー川柳」など「〇〇川柳」というのが大はやりで、テレビ番組でも紹介されており、書籍も出ています。

そこで今回はシリーズで、日本古来の「偉人」を詠んだ「江戸川柳」を時代を追ってご紹介したいと思います。

川柳ですから、老若男女を問わず、神様・殿様も、猛者も貞女も大泥棒も、チャキチャキの江戸っ子が、知恵と教養と皮肉の限りを尽くして、遠慮会釈なくシャレのめしています。

第1回は「神代」です。

1.天照大神(あまてらすおおみかみ)

天照大神

・天の戸(あまのと)をうすめに開く賑やかさ

・神代(かみよ)でも女でなけりゃ夜が明けず

「うすめ」は「薄め」ですが、「鈿女(うずめ)」(「天鈿女命(あめのうずめのみこと)」)(*)を掛けています。

(*)「天鈿女命」とは、古代に宮中の祭りで巫女の役をした猿女の祖先の女神です。『古事記』では天宇受売命。天岩屋戸の内に隠れた天照大神を招き出すための祭りで、伏せた桶を踏みとどろかして踊りながら、乳房と陰部を剥き出して、天神たちを哄笑させました。怪しんだ天照大神が、岩戸を少し開け、わけをたずねると、「あなたより、もっと尊い神がいられるので、喜んでいるのです」と答えて誘い、天手力男神(あめのたぢからおのかみ)に手を取られて天照大神が岩屋から引き出され、暗黒だった世界がまた陽光に照らされることになったという神話です。

天照大神」(または「天照大御神」)は、日本神話に主神として登場する神です。女神と解釈され、高天原(たかまがはら)を統べる主宰神で、「皇祖神(こうそしん)」とされています。ただし、これはあくまでも神話上の話で、「天皇家の実際の祖先」については断絶も含めて多くの謎があります。『記紀』においては、太陽神の性格と巫女の性格を併せ持つ存在として描かれています。

2.素戔嗚尊(すさのおのみこと)

素戔嗚尊

・神代にもだますは酒と女なり

・宝剣は大蛇(おろち)下戸(げこ)なら今に出ず

素戔嗚尊」は、伊弉諾・伊弉冉尊(いざなぎいざなみのみこと)二神の子として(日本書紀)、また伊弉諾尊の禊(みそぎ)のとき(古事記)などに日月神とともに出現した、記紀神話の重要な神です。出雲(いずも)系神話の始祖でもあります。

父から定められた支配地を治めず、母の国の根国(ねのくに)を慕って泣いたため、災いを起こして父に追放されます。尊はそのいとまごいのために高天原(たかまがはら)の姉、天照大神(あまてらすおおみかみ)に会いに行きますが、大神はその粗暴な行動に支配地を奪われるのかと疑いをもち、武装して迎えます。

尊は心の清明を証(あか)すために誓約(うけい)をし、これによって心の清明を証しますが、勝利におごって天津罪(あまつつみ)とよばれるさまざまな乱行を重ね、ついに天照大神は天岩戸(あめのいわと)に隠れ、全世界が暗黒となります。この罪により尊は神々に追放され、根国に赴きますが、途中の出雲国では「八岐大蛇(やまたのおろち)」を退治し、根国の支配者となります。その後は大国主命(おおくにぬしのみこと)を迎えてこれに試練を課し、最後には娘を与え、さらに聖器を授けて大国主命に葦原中国(あしわらのなかつくに)の統治者となることを命じます。

3.日本武尊(やまとたけるのみこと)

日本武尊

・御神徳(ごしんとく)氷で草の火を鎮(しず)め

・身は散って名は立ち花(たちばな)の御操(おんみさお)

・海に入(い)る操を山で御慕い(おんしたい)

日本武尊」は、記紀などに伝わる古代日本の皇族です。

『日本書紀』では主に「日本武尊」、『古事記』では主に「倭建命」と表記されます。

第12代景行天皇の皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたります。熊襲(くまそ)征討・東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄です。

日本武尊は、東国平定に向かい、相模国の草原の中にいた時、地元の国造(くにのみやつこ)が日本武尊を焼き殺そうと火を放ちます。しかし伯母にもらった草薙剣(くさなぎのつるぎ)と火打ち石を使って、風上の草を払い、風下の草に火をつけて脱出します。

最初の句の「氷」は剣のことです。この草薙剣は尾張国熱田神宮の御神体になります。相模から上総へ向かって走水(はしりみず)の海を渡る時、暴風雨で船が進まなくなりましたが、妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)が海に身を投げて海神をなだめたおかげで、船が進むようになったということです。

4.神功皇后(じんぐうこうごう)

神功皇后

・茶筅髪(ちゃせんがみ)三韓(さんかん)までも掻き回し

・新羅攻め(しらぎぜめ)前御鎧(まえおよろい)の御注文

・勝ち給うはず腹中に弓矢神(ゆみやがみ)

・潮満ちて船を早めの御凱陣(ごがいじん)

神功皇后」は、古事記・日本書紀(記紀)に見える仲哀天皇(第14代)の皇后で、3世紀から4世紀に活躍した人物です。名はオキナガタラシヒメノミコトです。父は開化天皇(第9代)の曽孫で、母は新羅から但馬に渡来したというアメノヒボコの玄孫タカヌカヒメです。神と交感する能力を持つ巫女的な女性で、いわゆる「三韓征伐」の中心人物です。ジャンヌ・ダルクのようなカリスマ性を持った女性で、女傑だったようです。

「記紀」によれば、仲哀天皇が熊襲を討つために九州に赴き筑紫で急死すると、同行した皇后は妊娠中にもかかわらず、武内宿禰と諮って新羅に遠征し、新羅が降伏した後筑紫に帰って応神天皇(第15代)を生んだということです。応神天皇は「武神(武運の神)」「弓矢八幡」ととして崇敬されています。

この遠征の結果、百済と高句麗も日本に帰服しました。

その後、皇后は大和に戻って他の王らの反乱を平定し、応神天皇を皇太子に立てて約70年間摂政として自ら政治を行ったと言われています。

日本書紀は皇后を「魏志倭人伝」に見える女王卑弥呼に擬しています。これは正しいのではないかと私は思います。

古事記によれば、仲哀天皇が「西に金銀財宝に満ちた国があり、その国を帰順させよう」という神託を受けましたが信じなかったそうです。そのため神の怒りに触れて亡くなります。

その後神功皇后が新たな神託を受けて神がかりし、身重の体ながら軍を整え舟を並べて海を渡ると、魚は舟を背負って進み、追い風が舟を進め新羅の国までたどり着いたそうです。新羅の国王は恐れおののき、降伏して朝貢することを誓い、百済も従ったということです。

最初の句の「茶筅髪」とは、江戸時代の後家の髪型です。仲哀天皇に先立たれて後家となった神功皇后は妊娠中で、凱旋後九州で出産したのが、後に「弓矢神」とされる応神天皇です。

2番目の句は、お腹が大きいので、新羅攻めの前に別誂えの鎧を注文されただろうとの想像です。

3番目の句は、何しろ腹の中には弓矢神がおられるのだから、戦に勝つのは当然というわけです。

4番目の句は、潮が満ちて来たので船足を速めて凱旋したということですが、分娩は満ち潮の時に多いという江戸時代の俗信を踏まえて、生まれそうになったので急いで帰ってきたという意味も掛けています。

5.仁徳天皇(にんとくてんのう)

仁徳天皇

・ありがたい御代(みよ)は竃(かまど)に立つ煙

・三度ずつ御製(ぎょせい)に叶う有り難さ

・御製(ぎょせい)にも漏れしかまどの壱人者(ひとりもの)

・たまさかに煙(けぶり)を立てる壱人者(ひとりもの)

仁徳天皇が、あるとき高い山に登って四方の国をご覧になると、炊事の煙が立っておらず、これは民が困窮しているからだと気付いて、3年間年貢を免除したという故事と、その時に詠んだとされる御製「高き屋にのぼりて見れば煙たつ民のかまどはにぎはひにけり」を踏まえた川柳です。

3番目と4番目の句は、御製では民の竃が賑わって煙が立っているという話だが、独り者の竃は御製に漏れた存在で、めったに炊事の煙など立てないというわけです。

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