国旗「日の丸」にまつわる面白い話

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日の丸

私が子供の頃は、どの家でも祝日には門前に「日の丸」の旗を掲げていました。私の家にも、戦前から使用していた長い旗竿のついた日章旗があり、祝日には必ず出していました。しかしいつ頃からかこの習慣はなくなったようです。

「日の丸」と言えば、朝鮮の人々にとっては複雑で屈折した思いもあるようで、日本の野党や日教組などが「軍国主義」と結び付けて「国歌君が代」や「国旗日の丸」に対して批判的な態度を取り、そういう社会風潮もあって各家庭での国旗掲揚をしなくなったのではないかと思います。

私などは、オリンピックで日本人選手が金メダルを取った時に、表彰式で君が代の演奏とともに日の丸が静かに上がって行くのを見ると金メダリストに対して「よくやった!よく頑張った!」という選手を讃える気持ちとともに、「日本人としての愛国心」のようなものが湧き上がってきて涙が出ます。

そこで今回は国旗「日の丸」にまつわる面白い話をご紹介します。

1.「日の丸」とは

日本の国旗「日の丸」は、法律上「日章旗」と呼ばれますが、これは日本で古くから使用されてきた旗です。

(1)「日の丸」の歴史

日本人の古代信仰として古神道に分類される原始宗教は、自然崇拝・精霊崇拝を含んでおり、特に農耕や漁労では太陽を信仰の対象として来ました。ちなみに皇祖神とされる天照大御神も太陽神です。

推古天皇の時代に聖徳太子が、隋の皇帝・煬帝へ「日出處天子・・・」で始まる国書を送っていますし、飛鳥時代末期には国号を「日ノ本(ひのもと」と命名しています。

この太陽を象(かたど)った旗を用いるようになったのは、645年の「乙巳の変(いっしのへん)」以後、天皇の親政が確立された頃からと考えられています。

日本で「白地赤丸」が日章旗として用いられるようになった経緯については、諸説あり正確にはわかりません。

一説には「源平合戦(治承・寿永の乱)」の結果が影響していると言われています。平安時代まで、朝廷の象徴である錦の御旗(にしきのみはた)は、赤地に金の日輪、銀の月輪が描かれています。平安時代末期に、平氏は自ら官軍を名乗り御旗の色である赤旗を使用し、それに対抗する源氏は白旗を掲げて源平合戦を繰り広げました。

古代から国家統治と太陽は密接な関係があることから、日輪は天下統一の象徴であり、平氏は御旗にちなんで「赤字金丸」を、源氏は「白地赤丸」を使用しました。

平氏が滅亡し源氏による武家政権ができると、代々の将軍は源氏の末裔を名乗り、「白地赤丸」の日の丸が天下統一を成し遂げた者の象徴として受け継がれていったという説です。

ほかに、日本では古来「紅白」がめでたい配色とされてきたことや、民俗学的に「ハレとケの感覚」(ハレ=赤、ケ=白)によるとする説もあります。

錦の御旗

江戸時代になると、「白地に赤丸」は意匠の一つとして普及し、江戸時代の絵巻物にはしばしば白地に赤丸の扇が見られるようになり、江戸時代の後半には縁起物の定番として認識されるようになります。

徳川幕府は「公用旗」として使用し、家康ゆかりの熱海の湯を江戸城まで運ばせる際に日の丸を立てて運んでいました。「熱海よいとこ日の丸たてて御本丸へとお湯が行く」という唄も生まれています。

2.「日の丸」が国旗になった経緯

(1)船舶用国籍旗としての制定

国旗としての「日の丸」は、幕末に船舶用の国籍標識(惣船印)として導入され、その後船舶用に限らず国籍を示す旗として一般化しました。

その経緯については二つの説があります。一つは「薩摩藩主島津斉彬提唱説」で、もう一つは「幕閣徳川斉昭提唱説」ですが、前者が定説となっています。

「薩摩藩主島津斉彬提唱説」とは、次のようなものです。

1854年の日米和親条約調印後、日本船を外国船と区別するための標識が必要となり、日本国共通の船舶旗(日本惣船印)を制定する必要が生じました。幕臣たちは当初「大中黒」(徳川氏の先祖である新田氏の旗。白地に黒の横一文字)を考えていましたが、薩摩藩主島津斉彬の進言によって「日の丸」の幟を用いることになったというものです。

(2)国旗としての汎用化

1858年、幕府目付岩瀬忠震と下田奉行井上清直は、日章旗を掲げて神奈川沖に停泊中のポーハタン号に渡り、孝明天皇の勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印・署名しました。

翌1859年、幕府は縦長の幟(正確には四半旗)から横長の旗に変えて日章旗を「御国総標」にするという触れ書きを出しました。日章旗が事実上「国旗」としての地位を確立したのはこれが最初です。

咸臨丸

1860年、日米修好通商条約の批准書交換のため、外国奉行新見豊前守正興を正使とする幕府使節団がアメリカに派遣され、アメリカ軍艦ポーハタン号と日章旗を掲げた咸臨丸に分乗して太平洋を横断しました。ちなみにこの咸臨丸には勝海舟や福沢諭吉が乗っていました。

使節団はサンフランシスコに到着後、さらに陸路・海路を経由して首都ワシントンに到着し、当時のブキャナン大統領に謁見して批准書の交換を終えています。その後、使節団一行はニューヨークを訪問し、日章旗と星条旗が掲げられたブロードウェイをパレードしています。

これが国旗として日本国外で初めて掲げられた日章旗とされています。

(3)国旗としての正式制定までの流れ

このように日章旗は国旗として一般に使用されるようになりましたが、「国旗」としての法的な裏付けは1870年2月27日制定の「商船規則」(明治3年太政官布告第57号)に「御國旗」として規定されただけでした。

そのため、1931年の帝国議会において石原善三郎衆議院議員から「大日本帝国国旗法案」が提案されましたが、審議未了のまま廃案となりました。

終戦直後の1945年にはGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)指令により、日章旗の掲揚が原則禁止されました。これは日本人の愛国心の高揚を警戒したのかもしれません。その後1949年にマッカーサーは日本の国旗の使用を自由とする声明を発表しています。

その後「反・日の丸」を主張する勢力(日教組・日本共産党などの革新勢力)は、日章旗の国旗としての法的正当性に疑義を唱えてきました。これに対して日章旗を国旗と認める勢力(自民党・日本会議などの保守派)は、日章旗が日本国旗であることは一種の慣習法であると主張し、上記の「商船規則」のほか、複数の法令の条文中に「国旗」の文字が使用され、「日本国旗が存在することが前提とされている」と反論しました。

(4)国旗としての正式制定

1999年に「国旗及び国歌に関する法律」が制定され、「日の丸」及び「君が代」が正式に日本の国旗・国歌として法制化されました。