御三家筆頭格の「尾張徳川家」が将軍を出せなかったのはなぜか?

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徳川御三家

前に「将軍になれなかった残念な尾張藩主徳川継友」の記事を書きましたが、「御三家」筆頭格の尾張徳川家は、260余年の徳川幕府の治世で一人も将軍を出せませんでした。

その理由は何でしょうか?今回はこれについて考えてみたいと思います。

1.「尾張徳川家」が将軍を出せなかった理由

(1)「尾張は将軍位を争わず」という不文律

これは、尾張家の家臣と幕閣が将軍後継を巡って争えば、諸大名を巻き込んだ天下騒乱となる恐れがあるため、自重するという考え方だと思います。

(2)幕閣の間部詮房や新井白石の計略

4代藩主・徳川吉通(1689年~1713年)は6代将軍徳川家宣(いえのぶ)の後継者候補でしたが、幼児・鍋松を将軍に据えて政治の実権を握りたい幕閣の間部詮房や新井白石の反対によって、将軍になれませんでした。

(3)紀州藩の「後継将軍就任運動」(賄賂やロビー活動)

6代藩主・徳川継友(1692年~1731年)は、7代徳川家継(いえつぐ)の後継者候補でしたが、ライバルの紀州藩主の徳川吉宗(1684年~1751年)に敗れました。

継友の婚約者は関白太政大臣・近衛家熙の次女の安己姫で、6代将軍家宣の正室で大奥の実力者・天英院(近衛熙子)の姪でしたが、紀州藩の「後継将軍就任運動」(賄賂やロビー活動)の前に敗れて、将軍になれませんでした。

吉宗が将軍に就任した後、天英院は吉宗から毎年一万千百両、米千俵を賜るようになりました。やはり吉宗の将軍就任の尽力した論功行賞でしょう。

(4)幕閣と朝廷と大奥との間の権力争い

徳川継友の場合は、紀州藩の積極的な「将軍就任運動」と天英院の指名が将軍になれなかった直接の要因ですが、背景には幕閣と朝廷と大奥との間の権力争いがあったと思います。

幕閣としては、朝廷や尾張徳川家、大奥の勢力を抑えたいという思惑があり、朝廷は継友の将軍就任によって近衛家を通じて幕府内での勢力を強めたい思惑があり、大奥の実力者の天英院は金銭的な実利と大奥における権力保持の思惑があり、これらの思惑が錯綜・衝突した結果ではないかと思います。

(5)8代将軍徳川吉宗が「御三卿」制度を作ったこと

8代将軍徳川吉宗は将軍後継争いに勝利すると、9代将軍徳川家重の時代に大御所として「御三卿」制度を作り、吉宗の直系の血筋が途絶えた時はこの「御三卿」の中から紀州徳川家を継ぐことになり、尾張徳川家と水戸徳川家は紀州徳川家と御三卿の四家全ての血筋が絶えなければ将軍職が回ってこないことになったのです。

極論すれば、紀州徳川家が徳川将軍家を乗っ取ったとも言えます。

2.尾張徳川家の矜持が徳川幕府260余年の治世に寄与

「徳川将軍家(宗家)」が7代将軍徳川家継の代で断絶し、8代将軍徳川吉宗以降14代将軍まで「紀州徳川家」の流れが続き、最後の15代将軍徳川慶喜が「御三卿」の一つである「一橋徳川家」から出たことによって、「尾張徳川家」から将軍は出ない結果となりました。

なお、「一橋徳川家」も徳川吉宗の四男徳川宗尹が始祖ですから、「紀州徳川家」の流れです。

しかし、尾張徳川家がいわゆる「後継者争い」「お家騒動」を自重したことによって、徳川幕府260余年の安定した治世に寄与したことは間違いありません。

3.「御三家」と「御三卿」

(1)御三家(徳川御三家)とは

御三家(徳川御三家)とは、「江戸時代において、徳川氏のうち徳川将軍家に次ぐ地位を持っていた尾張徳川家・紀州徳川家・水戸徳川家の三家」のことです。

尾張徳川家は徳川家康の九男・徳川義直、紀州徳川家は十男・徳川頼宣、水戸徳川家は十一男・徳川頼房をそれぞれ始祖としています。

これは家康の直系の血筋が途絶えた時に、次期将軍をこの中のどれかの家に継がせ、徳川家の血筋を絶えさせないためのものです。

7代将軍と8代将軍の選定の時に、この制度が使われる可能性がありましたが、この制度が実際に機能したのは、上の1.(3)でご紹介した通り、8代将軍を決める時でした。

最近では、「有力・有名・人気」の三者を徳川御三家にちなんで、人気芸能人を「御三家」や「新御三家」と呼んでいますね。

(2)御三卿とは

御三卿

御三卿とは、「江戸時代中期に、徳川氏の一族である紀州徳川家から分立した田安徳川家・一橋徳川家・清水徳川家の三家」のことです。

田安徳川家は徳川吉宗の次男・徳川宗武、一橋徳川家は吉宗の四男・徳川宗尹、清水徳川家は家重の次男(吉宗の孫)・徳川重好をそれぞれ始祖としています。

御三卿は将軍家の後継者を出す役割を担ったほか、御三家へ後継者を出す役割も担いました。

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