岩倉具視は賭博開帳のほか、孝明天皇暗殺や明治天皇すり替えにも関与した!?

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正装の岩倉具視

岩倉具視(いわくらともみ)と言えば、長らく「五百円札の顔」としてお馴染みでしたが、どんなことをした人なのか詳しくご存知の方は少ないのではないかと思います。

そこで今回は岩倉具視とはどんな人物でどのような人生を辿ったのかをご紹介したいと思います。

1.岩倉具視とは

岩倉具視

岩倉具視は、幕末から明治時代にかけて活躍した公卿・政治家です。

幕末に「公武合体」を説いて「皇女和宮降嫁」を推進し、のち「王政復古」に方針転換してその実現に参画し、維新政府の中枢となりました。

明治維新後、右大臣となりました。そして「特命全権大使」として欧米の文化・制度を視察し、帰国後は内治策に努めました。また「大日本帝国憲法」の制定にも尽力しています。

明治維新は、一言で言えば「薩摩藩と長州藩の下級武士たちによる徳川幕府に対するクーデター・革命」でした。そんな「薩長藩閥政府」である明治政府の中にあって公家で唯一人「維新の十傑」(*)に数えられているのが岩倉具視です。

(*)維新の十傑

・西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀(以上が薩摩藩)

・大村益次郎、木戸孝允、前原一誠、広沢真臣(以上が長州藩)

・江藤新平(肥前藩)

・横井小楠(肥後藩)

岩倉具視(公家)

薩摩藩と長州藩の下級武士たちには天皇や朝廷との接点がなかったので、天皇の側近で公家である彼の協力がなければ、明治維新は成し遂げられなかったと思います。

2.岩倉具視の生涯

(1)生い立ち

岩倉具視(1825年~1883年)は、公卿・堀河康親(ほりかわやすちか)(1797年~1859年)の次男として京都に生まれました。母親は勧修寺経逸(かじゅうじつねはや)(1748年~1805年)の娘・吉子です。

幼名は「周丸(かねまる)」ですが、容姿や言動に公家らしさがなく、異彩を放っていたため、公家の子女の間では「岩吉」と呼ばれていたそうです。

朝廷に仕える儒学者・伏原宣明(ふせはらのぶはる)(1790年~1863年)に入門しましたが、伏原は彼を「大器の人物」と見抜き、男の子がいなかった岩倉家への養子縁組を推薦しました。

その結果、1838年8月に公卿・岩倉具慶(いわくらともやす)(1807年~1873年)の養子となり、伏原によって「具視」の名を選定されました。

(2)若年期

1838年10月に叙爵し、同年12月に元服して昇殿を許され、翌年から朝廷に出仕しました。

岩倉家は羽林家(うりんけ)(*)の家格を有するものの、村上源氏久我家から江戸時代に分家した新家であるため、当主が叙任される位階・官職は高くなく、代々伝わる家業も特になかったため、貧乏な下級公家でした。

(*)羽林家とは、鎌倉時代以降の公家の家格で、摂家(せっけ)・精華家(せいがけ)・大臣家(だいじんけ)の下で、名家(めいか)と同列、半家(はんけ)の上の序列です。

しかし彼は野心家だったようで、朝廷での発言権を得るための足掛かりとして1853年に関白・鷹司政通(たかつかさまさみち)(1789年~1868年)に歌道入門しました。

これが下級公家に過ぎない彼が、朝廷首脳に発言する大きな転機となりました。

薩摩藩や長州藩の下級武士たちが、厳しい身分制度に阻まれて藩主や家老などの藩の首脳に直接意見具申したり、藩主にお目通り(直接面談)が叶わなかったのと同様に、下級公家の彼も、公家の身分制度の壁に阻まれて天皇や関白などの朝廷の首脳に直接意見具申したり、天皇に拝謁(直接面談)することも叶わなかったのです。

彼は「朝廷改革の意見書」を書いて関白・鷹司政通に提出し、積立金を「学習院」(*)の拡大・改革に用い、人材の育成実力主義による登用を主張しました。

彼としては最後の「実力主義による登用」を特に言いたかったのだと思います。そしてこの考え方は薩摩藩や長州藩の下級武士たちの考え方と共通のものです。

意見書を受け取った鷹司政通は、肯いたものの即答は避けたそうです。自分たちの身分制度上の特権が脅かされるのを恐れたのでしょう。

(*)ここで言う「学習院」とは、京都御所日御門前にあった学習所(京都学習院)です。

(3)「条約勅許問題」と「廷臣八十八卿列参事件」

1854年に彼は孝明天皇の「侍従」となりました。

1858年1月には、「日米修好通商条約」の「勅許」(天皇の許可)を得るために老中堀田正睦(ほったまさよし)(1810年~1864年)が入京しました(条約勅許問題)。

関白・九条尚忠(くじょうひさただ)(1798年~1871年)は「勅許を与えるべき」と主張しましたが、多くの公家から批判されました。

彼も「条約調印に反対の立場」で、大原重徳(おおはらしげとみ)(1801年~1879年)ら「反九条派の公家」たちを結集し、1858年3月12日に公卿88人で参内して抗議しました。

九条尚忠は病と称して参内を辞退しました。彼は九条邸を訪問して面会を申し込みましたが拒否されました。しかし彼は「面会できるまで動かない」と主張したため、九条は「明日返答する」旨を彼に伝えました。彼が九条邸を退去したのは午後10時過ぎだったそうです。

これがいわゆる「廷臣八十八卿列参事件」です。彼の「強硬な政治力」と「粘り強い交渉力」を垣間見るようです。

3月20日、堀田正睦は孝明天皇に拝謁しました。天皇は口頭で、「後患が測りがたいと群臣が主張しているので、三家・諸大名で再応衆議した上で、今一度言上するように」と伝えました。「群臣」とは岩倉具視ら反対派公卿のことで、彼らの反対によって勅許は与えられませんでした。

これは彼による初めての政治運動であり、勝利でした。

(4)安政の大獄

1858年6月、大老・井伊直弼(いいなおすけ)(1815年~1860年)は、勅許をえないまま独断で「日米修好通商条約」を調印しました。

老中奉書でこれを知った孝明天皇は激怒しました。しかし井伊は続いてオランダ・ロシア・イギリスと次々に「不平等条約」を締結しました。

さらに抗議した前水戸藩主・徳川斉昭や福井藩主・松平慶永(春嶽)らを謹慎処分に処しました。孝明天皇は8月に水戸藩に対して井伊を糾弾するよう「勅令」を下しました(戊午の密勅)。

このため幕府は1858年10月に水戸藩士・鵜飼吉左衛門を打ち首にするなど、尊王攘夷派や一橋派に対する大弾圧を発動しました(安政の大獄)。

彼は大獄が皇室や公家にまで拡大し、朝幕関係が悪化することを危惧し、京都所司代・酒井忠義や伏見奉行・内藤正縄などと会談して、彼らに天皇の考えを伝え、「朝廷と幕府の対立は国家の大過である」旨を説きました。この後、彼と酒井は意気投合して親しくなり、彼も幕府寄りの姿勢になります。

(5)「桜田門外の変」と「皇女和宮降嫁」

1860年3月に井伊直弼が「桜田門外の変」で暗殺された後、安政の大獄は収束し、公武合体派が幕府内で勢力を盛り返しました。

幕府は「皇女和宮降嫁」(政略結婚)を求めて来ましたが、孝明天皇は「和宮はすでに有栖川宮熾仁親王に輿入れが決定済みである」として一旦拒否しました。

彼は孝明天皇の諮問を受けて「和宮御降嫁に関する上申書」を提出しています。彼は「条約破棄と攘夷を条件に和宮降嫁を認めるべき」と具申し、孝明天皇は承諾しました。

幕府は四老中連署によって「7年から10年以内に外交交渉、場合によっては武力を以て破約攘夷を実行する」と確約しました。

このようにして彼も「公武合体」を唱えて、孝明天皇の妹・和宮を第14代将軍徳川家茂(とくがわいえもち)(1846年~1866年、将軍在位:1858年~1866年)に降嫁させることに尽力しました。

(6)失脚

1861年に長州藩主・毛利慶親が「朝廷主導の公武合体・現実的開国・将来的攘夷」を唱えた「航海遠略策」を孝明天皇に献策しました。

この書は孝明天皇から高い評価を受けるとともに、将軍家茂からも「長州藩に公武周旋役を任せる」との内定が下りました。

そして1862年4月には、孝明天皇が諸臣に対して以前幕府老中が連署で提出した「10年以内に攘夷決行を行う旨の誓書」を公表し、もし約束の期日が来ても幕府が行動を起こさない時は、朕みずからが公家と大名を率いて親征を実施して破約攘夷を行うと宣言しました。

さらに長州藩が公武周旋役に任命されたことに危機感を募らせた薩摩藩主・島津久光が「和宮降嫁や安政の大獄の弾圧で天朝が危機に瀕している」として入京し、天皇から「京都の守護」を命じられました。その結果、幕府の「京都所司代」は完全に有名無実化しました。

このような目まぐるしい情勢の中で、尊王攘夷運動は各地で高まりを見せて来ました。

彼は和宮降嫁に賛成し、京都所司代の酒井忠義と親しくしていたことから、尊王攘夷派の志士たちから「佐幕派」とみなされるようになっていきました。そして尊王攘夷派は岩倉を排斥しようと朝廷に圧力をかけるようになりました。最後には孝明天皇にまで「親幕派」と疑われてしまいました。

その結果、彼は久我建通(こがたけみち)(1815年~1903年)らとともに、「尊王攘夷派」の公家に弾劾されて失脚し、「蟄居処分と辞官・出家」を命じられて洛北の岩倉村に籠ることになりました。

(7)洛北の岩倉村での蟄居時代

結局彼は1862年10月から1867年11月までの5年間、洛北の岩倉村で蟄居生活を送ることになります。

1864年7月19日に「禁門の変」(蛤御門の変)が起き、京都の攘夷強硬論者は一掃されましたが、彼に赦免はありませんでした。結局1867年11月の新帝即位に伴う大赦によって赦免されました。

貧乏公家のため、失意の中で彼は岩倉村で密かに博徒を集めて禁制の賭場を開帳して、「寺銭(てらせん)」を稼いだりしていました。賭博開帳は幕府が禁止していましたが、公卿のところまでは捜査が及ばないことをうまく利用したわけです。無頼の徒のような不良公家ですね。

ただ幕末には彼だけでなく多くの下級公家がかなり困窮していたようで、無銭飲食やゆすり・たかりなどの犯罪に手を染める公家もいたそうです。

この間に薩摩藩の大久保利通や朝廷内の同志たちが彼のもとを再び訪れるようになり、次第に「倒幕派」の志士たちと接近することになりました。そして倒幕のための様々な計略を巡らしました。

1865年秋ごろからは、「叢裡鳴虫」をはじめ政治意見書を再び書いて朝廷や薩摩藩の同志に送るなどの活動を行うようになりました。

またこの間に、薩摩藩の動向に呼応する形で従来の「公武合体派」だった立場を「倒幕派」に転換しました。

彼は西郷隆盛や大久保利通、木戸孝允らのバックについて、「倒幕」を画策しました。

(8)「孝明天皇暗殺」と「王政復古」

そして1867年に将軍・徳川慶喜に「大政奉還」させることに成功し、慶喜から「内大臣の地位」および「徳川家の領地」を返上させる「辞官納地」の計画に参画します。

これによって1868年に「王政復古の大号令」が出され、慶喜を除外した明治新政府が樹立されました。

旧幕府との「戊辰戦争」は新政府の勝利に終わり、その後の新政権で彼は外務卿や右大臣として活躍しました。

第121代孝明天皇(1831年~1867年)はもともと、幕府を倒すつもりはなく、幕府と共存して皇室の地位を強めたいという考え方で、「皇女和宮降嫁」もその表れでした。

しかし、これは「倒幕派」にとっては都合が悪いことです。彼は1866年に疱瘡に罹りますが、病気回復中だったにもかかわらず、1867年に急死します。

明治天皇の外祖父である公家の中山忠能の日記にも、「天皇の病状を見ると、確かに不審な点がある。12日ごろ発熱し、16日に痘瘡と診断されたが、容態が快方に向かったところで激変したという」とあります。

幕末のイギリスの外交官アーネスト・サトウの「一外交官の見た明治維新」には、「この天皇は、外国人に対していかなる譲歩をなすことにも断固として反対してきた。そのために、来たるべき幕府の崩壊によって、否が応でも朝廷が西洋諸国との関係に直面しなければならなくなるのを予見した一部の人々に殺されたというのだ」とあります。

1940年(昭和15年)に日本医史学会関西支部大会の席上で、京都の産婦人科医で医史学者の佐伯理一郎氏が「孝明天皇が痘瘡に罹患した機会を捉え、岩倉具視がその妹の女官堀河紀子を操り、天皇に毒を盛った」という趣旨の論説を発表しています。

最初に学問的に暗殺説を論じたのは、「孝明天皇は病死か毒殺か」「孝明天皇と中川宮」などの論文を発表した歴史学者禰津正志(ねずまさし)氏です。彼は、医師たちが発表した「御容態書」が示すように、天皇が回復の道をたどっていたところが、一転急変して苦悶の果てに崩御したことに鑑み、「ヒ素による毒殺の可能性」を推定し、また犯人も戦前の佐伯説と同様、岩倉首謀・堀河実行説を唱えました。

さらに孝明天皇の息子の睦仁親王についても、明治天皇に即位した直後に暗殺され、南朝末裔の大室寅之祐にすり替えられたという説があります。この話はかなり信憑性があると私は思います。そして彼はこの「明治天皇すり替え」にも深く関わっていたようです。

1867年、明治天皇(明治天皇にすり替わった大室寅之祐)のもとで、「王政復古のクーデター」が行われ、彼は明治新政府の中枢の一人となりました。

(9)岩倉使節団

岩倉遣欧使節団

新政府で最高位(輔相)に就いた彼は、1871年11月(46歳)「遣欧米使節団」に不平等条約改正の特命全権大使として参加し、1年10ヵ月にわたって欧米を視察し、1873年9月に帰国しました。

不平等条約の改正はなりませんでしたが、欧米の鉄道技術や産業などに驚き、日本鉄道の設立に関わるなど日本の近代化に貢献しました。

ちなみに「不平等条約の改正」は外務大臣陸奥宗光によって実現されることになります。

(10)明治六年政変

彼や大久保利通・伊藤博文・木戸孝允らが欧米視察中の1873年8月、三条実美を筆頭とする「留守政府」では西郷隆盛が、依然鎖国政策を取って開国を拒否する李氏朝鮮に、自らを使者として送り込むべきだと主張して、閣議で遣使は決定されました。

西郷は朝鮮で自らが死ねば、戦争の大義名分になる(征韓論)と考えていました。しかし三条実美が明治天皇に奏上したところ、天皇は「岩倉の帰国を待ってから熟議すべき」と命じました。

彼は9月13日に横浜に到着してこの論争を聞き、直ちに内務優先を唱えて「征韓論に反対」の立場を表明しました。海軍卿・勝海舟も大蔵卿・大久保利通も反対しました。

結局明治天皇の裁断によって西郷隆盛らの征韓論は退けられ、これを不服とした西郷や板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らが参議を辞して帰国しました。これがいわゆる「明治六年政変」(征韓論政変)です。

(11)喰違の変(くいちがいのへん)

1874年1月14日夜、彼が赤坂仮皇居から退出しようとしたところ、征韓論を支持する不平士族の武市熊吉(高知県士族)に襲撃される事件が発生しました。彼は負傷しましたが、命に別条はありませんでした。

これがいわゆる「喰違の変」です。「赤坂喰違の変」「岩倉具視遭難事件」とも呼ばれます。

その9年後の1883年に彼は癌で亡くなりました。彼の葬儀は日本初の「国葬」でした。

彼には上に述べたようないくつかの「黒歴史」がありますが、明治維新は彼の存在なしには成し遂げられませんでした。彼が公卿で唯一人「維新の十傑」に入っているのも「むべなるかな」です。



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