「肝胆相照らす」ということわざの由来をわかりやすく紹介します

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柳宗元

1.「肝胆相照らす(かんたんあいてらす)」の意味

「肝胆相照らす」とは、「互いに心の底を打ち明けて話し合えたり、深く理解しあって親しく付き合うこと」です。四字熟語では「肝胆相照(かんたんそうしょう)」です。

「肝胆」は肝臓と胆嚢(たんのう)のことで、どちらも生命を支える大事な臓器であることから、転じて「心の奥底」「真実の心」という意味です。「照らす」は知り合うということです。

この世の中で、「親友」と呼べる人を持っている人は幸せだと思います。しかし、「肝胆相照らす」ほどの「真の親友」を持っている人はほとんどいないのではないでしょうか?

2.「肝胆相照らす」の由来

韓愈

中唐の文人・思想家・政治家で「唐宋八大家」の一人である「韓愈(かんゆ)」(768年~824年)は、その厳しいリアリストの目を友情の世界にも注いでいたようです。

彼は監察御史の時、京兆尹李実を弾劾し、かえって連州陽山県令に左遷されました。後に中央に復帰し、行軍司馬や刑部侍郎になりましたが、憲宗が仏舎利を宮中に迎えたのに反対したため、今度は潮州刺史に左遷されました。その後憲宗が崩御すると中央に戻され吏部侍郎にまで累進して退官しました。

彼は孟郊(もうこう)や賈島(かとう)のような良い友人を多く持っていましたが、軽薄な交際を憎んでいました。彼は生涯に幾度となく出会った不遇時代に、真の友情とそうでないものを区別する能力を身につけたのでしょう。

似て非なる友情の本質を見極め、その信ずべきでないことを「柳子厚墓誌銘(りゅうしこうぼしめい)」に書き残しています。

まず柳宗元(字は子厚)の祖先のことから説きはじめ、その人となりと才能、政治家としての事業に及び、次いでその友情の厚いことを賞揚しています。

「柳宗元(りゅうそうげん)」(773年~819年)は中唐の詩人・文人・官僚で「唐宋八大家」の一人です。柳宗元は、王叔文をリーダーとする反宦臣派の少壮官僚として朝政の改革を志しましたが王叔文が失脚したため邵州刺史に左遷され、さらに永州司馬に左遷され、その後柳州刺史となって任地で亡くなりました。

韓愈と柳宗元とは、中唐における「古文復興運動」の同志でしたが、政治的立場は異なっていました。

柳宗元がいったん左遷先の永州から都へ召され、柳州の刺史に任命された時、中山の人である劉禹錫(りゅううしゃく)も地方に出される仲間で、彼は播州の刺史になるはずでした。

それを聞いた柳宗元は泣きながら、「播州はとんでもなく辺鄙な土地で、とうてい君のような人の住める場所ではない。老年の母親と一緒に赴任できるわけもないし、親にどう打ち明けていいか困っているのを見るに忍びない。ここはひとつ自分が申し出て君の代わりに播州行きを志願しよう。これ以上重いお咎めを受けようと覚悟の上だ」と言ったということです。

韓愈はこれに続いて次のように書いています。

人は困った時にこそ、初めて本当の節義が現れるものだ。ふだん無事に村や町に住んでいる時には、懐かしがり、喜びあい、酒食や遊びに呼んだり呼ばれたりして、大きなことを言ったり無理に笑い話をしたり、お互いに譲りあい、手を取りあって、肝肺を出して相示し、太陽を指し涙を流して誓いを立て、生きるも死ぬも背かないと言えば、いかにも本当らしいが、いったん髪の毛一筋ほどの利害関係が生じると、今度は目をそむけて知り合いではないような顔をしている。

落とし穴に落ち込んでも、一度も手を引いて救ってやろうとしないばかりか、かえって相手を突き落として、上から石を投げるような真似をする者が世間いたるところにおる。

劉禹錫

上の話に出てくる「劉禹錫(りゅううしゃく)」(772年~842年)も、中唐の詩人・官僚です。監察御史となって、王叔文・柳宗元らと政治改革を志し「将来の宰相」と目されていましたが、805年に王叔文が失脚したため郎州司馬に左遷されました。10年後中央に召還されましたが、その時作った詩の内容を咎められ、連州刺史に再び左遷されました。828年、都に戻って主客郎中となりましたが、その後も中央と地方を行ったり来たりを繰り返し、最後は検校礼部尚書・太子賓客で生涯を終えました。



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