玄宗皇帝を虜にし、唐の衰退を招いた傾国の美女楊貴妃とはどんな人物だったのか?

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楊貴妃入浴像

「世界三大美人」と言えば、日本では一般には「クレオパトラ」「楊貴妃」「小野小町」のことを指します。

また中国では、「中国四大美人」とよばれる女性たちがいます。春秋時代の「西施(せいし)」、前漢の「王昭君(おうしょうくん)」、後漢の「貂蝉(ちょうせん)」、唐の「楊貴妃」の4人です。

今回はどちらにもランクインしている「楊貴妃」についてご紹介したいと思います。

1.楊貴妃とは

楊貴妃図

(1)生い立ち

楊貴妃(719年~756年)は中国唐代の皇妃で、姓は楊、名は玉環です。(貴妃は皇妃としての順位を表す称号)

山西省永楽出身の蜀州司戸(唐の役所の中流役人)の楊玄琰(ようげんえん)の末子として蜀に生まれ、幼少から聡明だったようですが、幼い頃に両親に死別して叔父楊玄撽(ようげんきょう)の養女となっています。

(2)寿王妃から女冠へ

735年、玄宗(685年~762年)の第18皇子「寿王李瑁(じゅおうりぼう)」(?~775年)の妃として迎えられましたが、737年に夫の母親である武恵妃(玄宗の妃)が死去した後、玄宗の寵愛を受けるようになります。

玄宗と楊貴妃との出会いは、玄宗が大勢の供を従えて洛陽に息子の花嫁探しにやって来た時で、接待役が楊貴妃の義父の楊玄撽だったからです。彼女の美貌は一族だけでなく周囲の人々にもよく知られていたので、李瑁の妃に推薦されることになったようです。

寿王李瑁は、母親の武恵妃と宰相の李林甫(683年~753年)の後押しで「皇太子」に推挙されますが、737年に武恵妃が死去すると、玄宗の腹心の宦官高力士(684年~762年)の薦めで李瑁の異母兄(母親は楊貴嬪)である「李璵(後の粛宗)」(711年~762年)が皇太子に冊立されます。

話が脱線しますが、韓流ドラマ「トンイ」の王様も実在の朝鮮王で粛宗(1661年~1720年)という同じ名前ですが、全くの別人です。

私の勝手な想像ですが、彼女は当初結婚相手が皇太子から皇帝になると期待していたのに、宮廷内の後継者争いで、皇太子にもなれなくなったのを知ると、後妻業の女ではありませんが玄宗皇帝に乗り換えるべく秋波を送り、彼女の魅力によって見事に玄宗を虜にしたのではないでしょうか?絶大な権力者である皇帝に逆らえなかったという面もあるでしょうが・・・

彼女が李瑁の妻であり続けていれば、平穏無事な生活ではなかったにせよ、悲劇的な最期を遂げることもなかったでしょう。しかし彼女は、妃としての栄耀栄華や豪奢な生活への欲望や権勢欲も強かったようです。

彼女は容貌が美しいだけでなく、唐代で理想とされた豊満な姿態を持ち、音楽・楽曲・歌舞に優れて利発であったため、玄宗の意にかない、後宮の人間からは「娘子」と呼ばれました。

白居易(772年~846年)の「長恨歌」や陳鴻(生没年不詳)の「長恨歌伝」によれば、髪は艶やか、肌はきめ細やかで、体型はほどよく、物腰が柔らかであったと伝えられています。

なお、父親に妻を寝取られた李瑁は、745年にやむを得ず別の女性と結婚しています。

(3)貴妃となる

玄宗と彼女との内縁関係は、昔風の言い方をすれば「不義密通」です。息子から妻を奪う形になるのを避けるため、740年玄宗は長安の東にある温泉宮で、彼女を一時的に「女道士(女冠)」(道号:太真)とします。その後彼女は宮中の太真宮に移り住み、玄宗の後宮に入って745年に貴妃(第二夫人。皇后と同じ扱い)となりました。玄宗60歳、楊貴妃26歳の「老いらくの恋」です。

玄宗の寵愛を一身に受け、楊氏一族もみな高官に上り、権勢をほしいままにしたので恨みを受け、国政は乱れ、安禄山の反乱を招くことになります。調子に乗ってやりすぎたということでしょう。

(4)安史の乱(安禄山の乱)と悲劇的な最期

753年に宰相李林甫が亡くなった後は、楊貴妃の一族(又従兄)の楊国忠(?~756年)が唐の大権を握りました。

楊国忠は専横を行った上に、外征に失敗して多数の死者を出したため、安禄山との対立を深めるとともに、楊一族は多くの恨みを買うことになりました。

755年に唐の軍人安禄山(703年~757年)は、宰相楊国忠(?~756年)と対立して反乱を起こします。これが「安史の乱」(安禄山の乱)です。

彼女は、玄宗や楊国忠、高力士らと長安を逃れる途中の馬嵬で、乱の原因となった楊国忠らを強く憎んでいた武将の陳玄礼(生没年不詳)と兵士たちによって楊国忠が殺害されます。

そして陳玄礼は玄宗に対し、「賊の本」として楊貴妃を殺害することを要求します。玄宗は、「楊貴妃は深宮にいて、楊国忠の謀反とは関係がない」と言って庇いましたが、高力士の進言によってやむなく楊貴妃に自殺を命ずることを決意します。

彼女は、「国の恩に確かに背いたので、死んでも恨まない。最後に仏を拝ませてほしい」と言い残し、高力士によって縊死させられました。

2.玄宗皇帝とは

玄宗

玄宗(685年~762年、在位:712年~756年)は唐の第6代皇帝で、「唐の中興の祖」と言われる皇帝です。

彼の祖母は悪名高い女帝則天武后(624年~705年)です。彼の若い頃は女人天下で、安楽公主・韋皇后・太平公主らが自分たちの都合で唐王朝の皇族や家臣たちを残酷に食い物にし、排除するなどやりたい放題でした。

気力の充実していた彼にとっての課題は、唐王室の実権を彼女たちから奪い返すことでした。彼は時には果敢に、時には味方を装う策略によって、一人、二人と蹴落としていき、皇帝に即位します。

710年、中宗が韋皇后と安楽公主に毒殺された19日後に、彼は太平公主と組んでクーデターを起こし、韋皇后と安楽公主を誅殺します。そして父の李旦を即位させ、自らは皇太子となります。2年後の712年には父の李旦から譲位されて皇帝となります。713年には謀反を企てた太平公主らを誅殺して完全に実権を掌握します。

治世の前半は「開元の治」と呼ばれ、後半の天宝年間に至るまで唐朝の黄金時代(盛唐)を築きましたが、晩年は楊貴妃に溺れて「安史の乱」を招き、晩節を汚してしまいました。

玄宗は、楊貴妃の一族の楊国忠と、東北辺に胡漢の傭兵の大軍団を擁する安禄山を信任しましたが、この内外二つの権勢は、ついに激突して安史の大乱となり、756年かれは長安を脱出して四川に落ち延び、同年息子の粛宗に譲位しました。

翌年長安が奪回されて帰還しましたが、粛宗の腹心李輔国のために高力士ら側近を引き離され、大極宮に閉じ込められて幽閉同然の生活を送り、失意のうちに没しました。

唐はその後衰退の一途をたどった末、907年に滅びます。その後は「五代十国時代」に入ります。菅原道真が「遣唐使廃止」を決めたのが894年ですから、唐の政治の混乱・政情不安が日本にも伝わっていたのでしょう。

彼は音楽の名手で、自ら管弦楽器を演奏したり、「皇帝梨園弟子」という楽団を作ったりしています。

「霓裳羽衣の曲(げいしょうういのきょく)」は彼が楊貴妃のために作ったとされる曲です。彼は鞦韆(ブランコ)を「半仙戯」と名付けました。宮中の美女がブランコに乗って高く舞い上がり、裳裾を翻して舞い降りる姿を、天女の舞でも見るように陶然と眺めて悦に入っていたのかも知れません。

また、自ら「孝経」に注を施したことでも有名です。

余談ですが、玄宗に仕えた日本人として有名なのが阿倍仲麻呂(698年~770年)です。彼は科挙の試験に合格した唯一の日本人です。遣唐使として吉備真備らと若干19歳で長安に留学しました。唐の大学で勉強し、27歳で合格しています。わずか8年で四書五経など難解な中国語の経典を諳んじた天才であったようです。

「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」という百人一首にある歌が有名です。彼は玄宗皇帝に仕え、諸官を歴任して高官となりました。日本への帰国を何度も試みましたが果たせず、唐で客死しました。

3.安禄山とは

安禄山

安禄山(703年~757年)は唐代の武将で、ソグド人です。玄宗に信頼されて、平廬・范陽・河東の三節度使を兼任していましたが、755年、反乱を起こして洛陽・長安を攻略し、大燕皇帝を自称しましたが、眼病と悪性の腫物を併発して狂暴となり、次男の安慶緒(?~759年)に殺害されました。

しかし、反乱軍を統率しようとした安慶緒に武将は必ずしも従わず、唐もウイグルの援兵を使って反撃に転じたため、長安を撤退せざるを得なくなり、759年安禄山の武将史思明に殺されています。



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