三島由紀夫とはどんな人物だったのか?「三島事件」での自決に至る生涯とは?

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三島由紀夫・31歳

皆さんは三島由紀夫と言えばどんなイメージをお持ちでしょうか?

「仮面の告白」「金閣寺」や「豊穣の海」(春の雪・奔馬・暁の寺・天人五衰)等の小説か、あるいは自衛隊市ヶ谷駐屯地に乱入して割腹自決した「三島事件」でしょうか?

私は個人的には、第一に川端康成がノーベル文学賞を受賞した時にお祝いに駆け付けて二人で談笑する姿と、第二に彼の華麗なレトリック(修辞)を駆使したきらびやかな文体の小説群、そして第三に「三島事件」の衝撃的な自決と不可解な違和感が強く印象に残っています。

三島由紀夫と川端康成三島由紀夫・三島事件三島由紀夫・辞世

1.三島由紀夫とは

三島由紀夫(みしまゆきお、本名:平岡公威<ひらおかきみたけ>)(1925年~1970年)は、戦後の日本文学界を代表する小説家、劇作家、随筆家であるとともに政治活動家です。

その作品は各国語に翻訳され、海外でも広く知られており、ノーベル文学賞候補にもなりました。

1933年にアメリカ・シカゴで創刊された世界初の男性誌「エスクァイア(Esquire)」誌の「世界の百人」に選ばれた初の日本人で、国際放送されたテレビ番組に初めて出演した日本人でもあります。

「満年齢と昭和の年数が一致」し、その人生の節目や活躍が「昭和時代」の日本の興廃や盛衰の歴史的出来事と相まっているため、「昭和」と生涯を共にし、その時代の持つ問題点を鋭く照らした人物です。

そういう意味で、明治維新の前年の慶応3年に生まれ「明治時代」とともに生き、大正5年に亡くなった夏目漱石(1867年~1916年)とよく似ています。

晩年は右翼的な政治行動の傾向を強め、自衛隊に体験入隊したり、民兵組織「楯の会」を結成したりしました。

1970年11月25日に、縦の会隊員4名とともに自衛隊市ヶ谷駐屯地(現在の防衛省本省)を訪れ、東部方面総監を監禁し、バルコニーで自衛隊員を相手にクーデターを促すアジ演説をした後、割腹自殺しました。

この一件(三島事件)は社会に大きな衝撃を与え、「新右翼」が生まれたりしましたが、その後の政治動向や文学界への影響はさほど大きなものではなかったと私は思います。

(1)生い立ち

三島由紀夫は、父・平岡梓(あずさ)(農商務省の官僚)と母・倭文重(しずえ)の長男として1925年に東京市四谷区(現在の東京都新宿区四谷)に生まれました。

祖父・平岡定太郎は内務省の内務官僚で、後に樺太庁長官を務めた人物です。

余談ですが、彼には「出生時の記憶」があるそうで、「仮面の告白」に詳しく書かれています。

(2)幼年期

彼が文学に親しむきっかけとなったのは、谷崎潤一郎や泉鏡花を好んだ父方の祖母・夏子の存在が大きいと言われています。

病弱な彼を心配した祖母の夏子が、過保護ながらも行儀作法は厳しく育てました。

なお永井荷風の永井家と夏子の実家の永井家は遠い親戚にあたります。

(3)詩を書く少年時代

三島由紀夫・初等科入学頃三島由紀夫・学生服姿

学習院初等科に入学した頃(上の左の写真)は、意欲的に詩や俳句を作っては発表していました。

学習院中等科・高等科の時(上の右の写真)には文芸部に入部し詩歌や散文の作品だけでなく、戯曲を発表するようになりました。

(4)「三島由紀夫」の出発ーー「花ざかりの森」

16歳の時に処女作「花ざかりの森」を書き上げて、学習院の国語教師・清水文雄(1903年~1998年)に郵送し、批評を求めました。

作品を高く評価した清水文雄は、自身が所属する日本浪漫派系国文学雑誌「文藝文化」の伊豆修善寺温泉での編集会議で同人たちにも読ませた結果、「天才が現れた」と祝福され、同誌に掲載されることになりました。

なお、清水文雄は熊本県出身の国文学者で、当時学習院の国語教師でしたが、三島由紀夫の才能を見出したことで知られています。

息子の文学活動に反対していた父・梓のことや16歳の彼の将来を案じて、本名の「平岡公威」ではなく、ペンネームを使わせることになりました。

静岡県の「三島」を通ってきたことと、「富士の白雪」を見て「ゆきお」が思い浮かび、最初「三島由紀雄」という提案がありましたが「雄」が重すぎるとされ、結局「三島由紀夫」に落ち着いたそうです。

(5)戦時下の青春・大学進学と終戦

19歳で学習院高等科を首席で卒業し、東京帝国大学法学部に入学しました。

徴兵検査を受け、合格しました。また「花ざかりの森」が出版されました。

20歳(1945年)の時、戦況が激しさを増し、「大学勤労報国隊」として勤労動員されました。

そしてついに入隊となりましたが、検査の結果「肺浸潤」と誤診され、即日帰郷となりました。

6月には軽井沢に疎開している恋人・三谷邦子(学習院の同級生で親友三谷信の妹)に会いに行き、初めての接吻をしています。

広島(8月6日)・長崎(8月9日)への原爆投下の後、終戦(8月15日)となりました。

玉音放送を聞いた父・梓は、それまで息子の文学活動に反対していましたが、「これからは芸術家の世の中だから、やっぱり小説家になったらいい」と言ったそうです。

(6)終戦後の苦悶と焦燥

終戦直後、彼は学習院恩師の清水文雄に。「玉音の放送に感涙を催ほし、わが文学史の伝統護持の使命こそ我らに与へられた使命なることを確信しました」と書き送っています。

1945年10月には妹・美津子が腸チフスによって17歳で急逝しました。

また6月の軽井沢訪問後に邦子との結婚を三谷家から打診されて逡巡していた彼は、邦子がその後銀行員の永井邦夫(後に東ソー副社長、オルガノ社長)と婚約してしまったことを11月末か12月頃に知りました。

1946年5月に邦子と永井が結婚し、恋人を横取りされる形になった彼はこの日自宅で泥酔しました。

彼は「妹の死と、この女性の結婚と、この二つの事件が私の以後の文学的情熱を推進する力になった」と述べています。

(7)学生作家時代に川端康成や太宰治と出会う

以前から作品を読んでいて高く評価しているという噂を聞いた彼は、大学の冬休みに、文芸評論家・野田宇太郎の紹介状を持って川端康成の自宅を訪ね、以後生涯にわたる師弟関係のような強いつながりができました。

ただし、その関係は小説作法(構成など)の指導や批評を仰いで師事する門下生的なものではなかったため、彼は川端を「先生」とは呼ばず、「自分を世の中に出してくれた唯一の大恩人」という思いから「川端さん」と呼んでいました。

「川端との出会い」に関しては、彼が生まれる前の「彼の父・梓と川端との運命的な出会い」の面白いエピソードがあります。

彼の父・梓が東京帝国大学法学部の学生の時、正門前で同級生の三輪寿壮が見知らぬ「貧弱な一高生」と歩いているところに出くわしましたが、それが川端でした。

梓は三輪から「川端康成という男は、僕らの持っていない素晴らしい感覚とか神経の持ち主だから、君も付き合ってみないか?」と誘われましたが、文学に疎かった梓は、「畑違いの人間とは付き合う資格がないよ」と笑って紹介を断ったそうです。

学生作家として「中世」や「煙草」などの短編小説を発表しましたが、さほど評価はされませんでした。

この頃、矢代静一らに誘われて、当時の青年から熱狂的な支持を得ていた太宰治と彼の理解者・亀井勝一郎を囲む会に参加しています。

しかし彼は太宰の稀有な才能は認めていたものの、「自己劇画化の文学」が嫌いで、生理的反発も感じ、「僕は太宰さんの文学は嫌いなんです」と明言し、その場を離れたそうです。

(8)大学卒業後、大蔵省に入省し役人と作家との二重生活を送る

1947年11月に、東京帝国大学から改称した東京大学法学部を卒業し、大蔵省(銀行局国民貯蓄課)に入省し、役人と作家との二重生活を送ることになりました。

これは作家活動への理解を示しながらも安定した収入のある生活を望んでいた父・梓の希望でもあったようです。

ちなみに彼が大蔵省に入省した当時の銀行局長は愛知揆一(後に外務大臣、大蔵大臣)、主計局長は福田赳夫(後に大蔵大臣、外務大臣、総理大臣)でした。

しかし「二足のわらし」はやはり難しく、翌年には執筆活動に専念するため、父の許可を得て大蔵省を退職しています。

(9)文壇への登場ーー「仮面の告白」

1949年、「仮面の告白」が出版され、高い評価を得て作家としての地位を確立します。

(10)ギリシャへの憧れーー「潮騒」

1951年12月にかねてからの憧れであったギリシャ・ローマなどをめぐる世界一周旅行に出ました。

古代ギリシャの「肉体と知性の均衡」への人間意思、明るい古典主義に孤独を癒された彼は、「美しい作品を作ることと、自分が美しいものになることの、同一の倫理基準」を発見し、翌1952年5月に帰国しました。この世界旅行記は「アポロの杯」として刊行されました。

1954年には、「潮騒」を発表して新潮社文学賞を受賞しています。

(11)自己改造の試みーー「金閣寺」

三島由紀夫・ポロシャツ姿三島由紀夫・剣道着姿

1957年、後の「三島文学」の代表作となる「金閣寺」を発表し、読売文学賞を受賞しています。ただ不思議なことに、彼は「芥川賞」は受賞していません。

1955年9月に、彼は週刊誌のグラビアで玉利斉(早稲田大学バーベルクラブ主将)の写真と「誰でもこんな身体になれる」というコメントに惹かれ、ボディビルを始めました。

同年11月、京都へ取材に行き、青年僧による金閣寺放火事件(1950年)を題材にした「金閣寺」の執筆に着手しました。

「仮面の告白」から取り入れていた森鷗外的な硬質な文体をさらに鍛え上げ、「肉体改造」だけでなく文体も錬磨し、「自己改造」を行いました。

私生活では、1954年夏に中村歌右衛門の楽屋で知り合った豊田貞子(赤坂の料亭の娘で、「沈める滝」「橋づくし」のモデル)1957年5月に破局しました。

なお花嫁候補を捜していた彼が、独身時代の正田美智子さん(現在の上皇后さま)と「お見合い」したのも1957年頃です。

この「お見合い」は、歌舞伎座で隣り合わせる形で会い、銀座6丁目の小料理屋「井上」の2階で会うというものだったそうです。

(12)日本画家・杉山寧の長女・瑤子さんと結婚

1958年、川端康成の媒酌で、日本画家・杉山寧の長女・瑤子さんと結婚しました。

(13)国際的知名度が高まりノーベル賞候補となるも受賞を逃す

「仮面の告白」や「金閣寺」も英訳出版されるなど、海外での彼の知名度は高まっていました。日本人としては天皇に次ぐ知名度がありました。

1963年12月17日のスウェーデンの有力紙「DAGENUS NYHETER」には「世界の文豪」の一人として取り上げられました。

1964年5月には「宴のあと」がフォルメントール国際文学賞で2位となり、「金閣寺」も第4回国際文学賞で2位となっています。

国連事務総長だったダグ・ハマーショルドも、1961年に赴任先で事故死する直前に「金閣寺」を読了し、ノーベル財団委員あての手紙で大絶賛しています。

1958年度のノーベル文学賞では彼が谷崎潤一郎の推薦文を書いています。1961年5月には、川端が彼にノーベル文学賞推薦文を依頼し、実際に書いています。

1963年度から1965年度のノーベル文学賞の有力候補の中に、川端康成・谷崎潤一郎・西脇順三郎とともに彼が入っていたことが、2014年から2016年にかけて開示され、1963年度で彼は「技巧的な才能」が注目されて受賞に非常に近い位置にいたことが明らかとなりました。

しかし、1966年度の候補者に彼の名前はありませんでした。結局、1968年度に川端康成が受賞しました。

彼が初めて候補者に名を連ねた1963年度の選考において、委員会から日本の作家の評価を求められていたドナルド・キーンは、「実績と年齢順(年功序列)を意識して、日本社会に配慮しながら谷崎・川端・三島の順で推薦しましたが、本心では三島が現役の作家で最も優れていると思っていたことを、情報開示後に明かしています。

(14)監督・主演の映画「憂国」を制作

1965年に、監督と主演を務める映画「憂国」を制作しました。これは1960年に発表した短編集「憂国」(二・二六事件を題材としたもの)の映画化で、翌年の「ツール国際短編映画祭劇映画部門」で2位となり、国内でも話題となりました。

(15)自衛隊への体験入隊と「楯の会」の結成

1967年には自衛隊に体験入隊し、1968年には民間防衛組織(民兵組織)「楯の会」を結成するなど、右翼的な政治行動の傾向を強めます。

(16)自衛隊への突入決行と自決(三島事件)

1970年11月25日に、縦の会隊員4名とともに自衛隊市ヶ谷駐屯地(現在の防衛省本省)を訪れ、東部方面総監を監禁し、バルコニーで自衛隊員を相手にクーデターを促すアジ演説をした後、割腹自殺しました。

辞世は下の二首です。

益荒男ますらをが たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜
散るをいとふ 世にも人にも さきがけて 散るこそ花と 吹く小夜嵐

2.三島由紀夫の主な作品

代表作は小説に「仮面の告白」「潮騒」「金閣寺」「鏡子の家」「憂国」「豊饒の海」など、戯曲に「近代能楽集」「鹿鳴館」「サド侯爵夫人」などがあります。

レトリック(修辞)に富んだ絢爛豪華で詩的な文体、古典劇を基調にした人工性・構築性に溢れる唯美的な作風が特徴です。

京都大学法学部在学中の23歳の時に芥川賞を受賞した平野啓一郎(1975年~ )の小説「日蝕」を読んだ時、三島由紀夫の文体に似ているように感じました。彼も三島由紀夫の影響を受けているような気がします。



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