井原西鶴とはどんな人物だったのか?わかりやすくご紹介します

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井原西鶴座像

井原西鶴といえば、「好色一代男」や「日本永代蔵」「世間胸算用」などの「浮世草子」で有名ですが、どんな人物でどのような生涯を送ったのでしょうか?

今回は井原西鶴について、わかりやすくご紹介したいと思います。

1.井原西鶴とは

井原西鶴

井原西鶴(1642年~1693年)は、江戸時代中期の俳人・浮世草子・人形浄瑠璃作者です。本名は平山藤五で、西鶴は俳号です。

ちなみに江戸で活躍した俳人の松尾芭蕉(1644年~1694年)や、浄瑠璃・歌舞伎作者の近松門左衛門(1653年~1725年)とはほぼ同時代の人です。この三人はライバルで、元禄文化を代表する人物です。

(1)生い立ち

大坂の富裕な商人に家に生まれたとの話もあります。しかし商家の名前やなぜ商売を継がなかったのかなどはっきりしたことはわかっていません。

紀伊国中津村の井原家に生まれましたが両親の名前は不明で、15歳の時に足袋屋に奉公に出たものの短期間でやめてしまったというのが真相のようです。15歳頃から俳諧を学び始め、俳諧師を志して各地を放浪しました。

(2)俳諧師として活躍

ハングリー精神が旺盛だったのか、21歳の若さで俳諧の「点者(てんじゃ)」と呼ばれる俳諧の師となりました。最初は松永貞徳(1571年~1653年)が創始した「貞門」に入り、「鶴永」と号しました。

後に西山宗因(1605年~1682年)の「談林派」に参加し、「西鶴」と号しました。目新しい風俗詩的傾向から「阿蘭陀(オランダ)流」と呼ばれ、異端視されました。

1673年の生國魂神社の南坊で興行した「生玉(いくたま)万句」以来、しばしば「矢数俳諧(やかずはいかい)」(1日または1日1夜に作る句数を競う俳諧の興行)を催し、1684年には住吉社頭で一昼夜2万3,500句という驚異的独吟を行いました。

なお彼は1675年、33歳の時に妻を亡くし、1,000句の追善興行を行っています。

(3)浮世草子の流行作家となる

俳諧興行のかたわら、1682年には浮世草子の「好色一代男」を発表し、大評判となり、浮世草子作者」としての地位を確立しました。

やがて金銭的成功のイロハを説いた「日本永代蔵」、武士たるものの理想像を描いた「武家義理物語」、お金をめぐる生々しい人間ドラマを描いた「世間胸算用」などさまざまな幅広いジャンルの浮世草子を発表して行きました。

流行作家となった彼には多くの執筆依頼が来たものと思われます。多少「駄作」であっても彼のネームバリューがあればよく売れたのではないかと思います。

それに対応するため、彼のもとには全国各地から「話のネタを提供する者」や「話のネタを収集する取材記者のよう者」、「執筆の協力や一部代行をする者」も現れ、「西鶴工房」(西鶴集団)のような組織が形成されていったのかもしれません。

今で言えば宮崎駿さんの「スタジオジブリ」のような分業体制でしょうか?そのような事情から、後に述べるような「ゴーストライター存在説」も出てくることになったのでしょう。

2.代表的な発句と浮世草子の代表作

(1)発句

・長持に春かくれゆく衣かへ

・鯛は花は見ぬ里もあり今日の月

・大晦日定なき世の定かな

・浮世の月見過しにけり末二年(辞世の句)

(2)浮世草子

①好色一代男

「源氏物語」や「伊勢物語」などの古典をパロディー化しながら、主人公世之介の7歳から60歳にわたる好色生活を描いています。

好色一代男

②日本永代蔵

勤勉・倹約・才覚によってお金を稼ごうとしたり、それに失敗もする町人の姿を描いています。

日本永代蔵

③世間胸算用

1年最後の決済日となる大晦日に展開される、町人たちが繰り広げるさまざまな金のやり取りの悲喜劇です。庶民の深刻な経済生活と生活力を面白おかしく描いています。

世間胸算用

3.井原西鶴に対する評価

(1)浮世草子作家当時

彼は今で言えば「娯楽小説の大ベストセラー作家」「通俗小説の大流行作家」となり、浮世草子界に君臨することになりました。「文壇の大御所」といったところでしょうか?

彼は「好色物」「武家物」「町人物」「雑話物」など多彩なジャンルの浮世草子を書いて新境地を開きました。

(2)後世

①江戸時代末期は忘れ去られた

西鶴が生きた同時代には有名人で、人気のある浮世草子作家でしたが、江戸時代末期には忘れ去られた存在となっていました。

西鶴没後の1700年に出された西沢一風の「御前義経記」と、1701年に出た江島其磧の「けいせい色三味線」になると浮世草子に変化が現れます。

「御前義経記」は源義経に関係のある古典・浄瑠璃を利用して「長編化」の道を開き、「けいせい色三味線」は西鶴の影響を受けながらも「長編化&複雑化」で人気を博しました。

その後、多田南嶺が「時代物」や「気質物」を書きましたが、時代物の基盤となっていた浄瑠璃が衰退し、浮世草子に陰りが見え始めます。

やがて浮世草子も飽きられて衰退し、代わって軽快でコミカルな「洒落本」「滑稽本」「談義本」「人情本」「読本」「草双紙」などの江戸の町人文化の代表でもある「戯作」が流行するようになりました。

②明治10年代の西鶴再発見

明治以降の西鶴再評価は、淡島寒月(1859年~1926年)に始まりました。彼の著した「明治十年前後」によると、寒月は山東京伝の考証本「骨董集」を読んで西鶴に興味を抱き、古本を漁って幸田露伴や尾崎紅葉に紹介したということです。

当時、山田美妙や二葉亭四迷によって推進されていた「言文一致体」の文章への違和感もあり、幸田露伴・尾崎紅葉・樋口一葉などは西鶴調の「雅俗折衷文体」の小説を発表しました。

③明治40年代の自然主義文学による西鶴再評価

明治30年代は「浪漫主義」が隆盛となって一旦埋没しますが、その後「自然主義文学」が起こる中で、再び注目を浴びることになります。

島村抱月は、「西鶴の思想は多くの点に於いて却って近代欧州の文芸に見えたる思想と接邇する。個人性の寂寞、感情の不満、快楽性の悲哀、これ併しながらやみがたき人生の真相である」と述べています。

田山花袋は、「馬琴の稗史滅び、近松の人情物すたれ、一九、三馬の滑稽物は顧みる者の無い今の時に当って、西鶴の作品に自然派の面影を発見するのは、意味の深いことではないであらうか」と書いています。

紅露一葉の時代は、主に「西鶴の文体」が注目されていましたが、この時代になると「西鶴の描写や思想的側面」に注目が集まるようになったのです。

3.「ゴーストライターの存在」説

彼の作品は「好色物」「武家物」「町人物」「雑話物」など多岐にわたっています。

ある作品では「芸にのめり込みすぎるな」と釘を刺したり、「とにかくカネ、カネ、カネ」と説いているかと思えば、武士には物欲を度外視した義理を推奨しています。

また「町人たる者は父親のカネではなく自分で稼がないといけない」と説いているかと思えば、「やはり父親譲りのカネがないと、お金持ちにはなれない」と言ってみたりと一貫性がないことから、「ゴーストライターの存在」が疑われて来ました。

幸田露伴は「本朝桜陰比事」に、明治時代の国文学者の藤岡東圃は「万の文反故」に疑いを挟んでいます。

もっと極端な例は、歴史学者・書誌学者である森銑三(もりせんぞう)(1895年~1985年)です。彼は西鶴作品とされるもの全てを俎上に載せ、主に「使用語句の検討」から次のような結論を出しました。

浮世草子の中で西鶴作品として扱われているもののうち、実際に西鶴が書いたのは「好色一代男」ただひとつであり、それ以外は西鶴が関与したに過ぎない作品、または西鶴に擬して書かれただけで関与もしていない作品である。

彼は、西鶴門下の俳人・浮世草子作者の北条団水(1663年~1711年)が主に関与したのではないかと推測しています。

団水は、西鶴の没後7年間にわたって「西鶴庵」を守り、師の遺稿の整理・刊行を行った人物です。

4.「浮世草子」と「仮名草子」「御伽草子」との違い

(1)御伽草子

平安時代までの文学は「源氏物語」のように貴族を中心として栄えていましたが、鎌倉時代に入ると「御伽草子(おとぎぞうし)」と呼ばれる文学が生まれました。

「御伽草子」は、それまでの長編の物語に比べて「短編」で、内容も貴族の恋愛ではなく、「古くからのおとぎ話を基にした物語」や「庶民を主人公にした物語」です。

「御伽草子」は400編以上あると言われており、室町時代を中心に流行しました。挿絵入りで文章が比較的易しいため、庶民も楽しめるものとして普及したのです。

(2)仮名草子

江戸時代初期に入ると、「仮名草子(かなぞうし)」が誕生しました。「御伽草子」は手書きで書き写す「写本」という方法で複製されていましたが、世間に大量に広がることを目的として「大量に木版刷り」で販売されるようになったのが「仮名草子」です。

作者は知識人が多く、内容としては、教訓を含んだ物語や説話集、事件や災害の見聞記などでした。

(3)浮世草子

「仮名草子」の広がりから少し経った頃に「浮世草子」が誕生しました。具体的には井原西鶴の「好色一代男」が書かれた1682年以降の作品のことを言います。

「仮名草子」が教訓的な物語が多かったのに対し、「浮世草子」は色事などをテーマとし、その当時の町人を主人公としているものが多く見られました。

江戸中心であった「仮名草子」と違って、「浮世草子」は京・大坂などの上方を中心に広がり、作者も知識人から町人へと変化しています。



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