ゴッホと弟テオの関係は美しい兄弟愛ではなく、画家と画商の契約関係だった!?

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ゴッホ自画像

1.日本人の好きな画家

「日本人の最も好きな画家」と言えば、誰が思い浮かぶでしょうか?

ある調査によると次のような結果が出ています。「なるほど」と納得する方も多いのではないでしょうか?

(1)日本人の画家

第一位:葛飾北斎

第二位:歌川広重

第三位:東山魁夷

第四位:伊藤若冲

第五位:横山大観

第六位:棟方志功

第七位:竹久夢二

第八位:山下清

第九位:喜多川歌麿

第十位:東洲斎写楽

浮世絵画家が圧倒的に多くなっていますね。

(2)西洋人の画家

第一位:フィンセント・ファン・ゴッホ

第二位:パブロ・ピカソ

第三位:クロード・モネ

第四位:レオナルド・ダ・ヴィンチ

第五位:ヨハネス・フェルメール

西洋人の画家のベスト5を見ると、日本で展覧会がよく開かれる画家ばかりで、やはりこれらの画家が日本人の好みに合っているようです。

また、第一位となったフィンセント・ファン・ゴッホが日本の浮世絵に感動し、大きな影響を受けたというのも興味深いことです。

余談ですが、バブル全盛時代には次のような出来事がありました。

1987年には、ゴッホの「ひまわり」の絵を、安田火災海上が53憶円で落札しました。

1990年には、ゴッホとルノアールの2作品を、大昭和製紙名誉会長の斎藤了英氏が244億円で落札しました。同氏は、「私が死んだら、絵を棺桶に入れて燃やしてくれ」と語ったため、顰蹙(ひんしゅく)を買いました。なお、この2つの絵画は同氏の死後、燃やされることなく(相続税支払いのためでしょうか)サザビーズに売却されています。

2.ゴッホとは

フィンセント・ファン・ゴッホ(1853年~1890年)は、オランダの「ポスト印象派(後期印象派)」の画家です。

主要作品の多くは1886年以降のフランス居住時代、特にアルル時代(1888年~1889年5月)とサン=レミでの療養時代(1889年5月~1890年5月)に制作されました。感情の率直な表現、大胆な色使いで知られ、ポスト印象派を代表する画家です。

壮絶な人生と、絵画に対する情熱から「炎の画家」とも呼ばれています。

フォーヴィスムやドイツ表現主義など、20世紀の美術にも大きな影響を及ぼしました。

日本の美術館では、ほぼ毎年ゴッホをテーマにした展覧会が開かれるなど、日本人に最も馴染みの深い画家の一人ですね。

3.ゴッホの生涯

(1)生い立ちと画家になるまで(1853年~1881年)

彼はオランダ南部の小さな町フロート・ズンデルトで生まれました。

祖父も父も牧師であることからフィンセントにも同じ道が考えられましたが、人から強制されることが嫌いで頑固な性格のゴッホは学校になじめず退学となりました。

絵心のあったゴッホは叔父の紹介でパリの一流画商グーピル商会ハーグ支店に勤めることになりました。この時に失恋をするのですが、その後にも経験する何度かの失恋がゴッホの心に深い傷をもたらしたようです。

1876年人間関係がうまく行かず、画商を解雇されたゴッホは聖職に就くために勉強に励みましたが、ラテン語の勉強について行けず正規の牧師になる道は閉ざされてしまいました。

しかし「画商としての経験」は「画家ゴッホの土台」を築きました。

見習いの伝道師として炭鉱や農村を廻った時、ミレーのように貧しい農村の労働者を描きたいと思い、デッサンをしています。伝道師としての任期も延長されず残された道は絵を描くことだけでした。

19歳頃のゴッホゴッホの弟テオ

(2)画家としてのスタート(1881年~1886年)

4歳下の弟のテオ(1857年~1891年)(上の画像・右、21歳頃の写真)から絵を送ることを条件に援助が受けられるようになった27歳のゴッホ(上の画像・左、19歳頃の写真)ですが、バルビゾン派の画家ミレーの影響を受けた彼の絵は、当然ながら暗い色調でした。

作風が暗く、32歳になっても売れない絵を弟に送り続けるゴッホは、家族の厄介者でした。

彼が画家として活動した10年のうち、特に活躍し評価された後半の5年間は、大きく4つの年代(パリ時代・南仏アルル時代・サン=レミ時代・オーヴェル時代)に分けられます

(3)パリ時代(1886年~1888年)

アカデミーでも絵画を学ぶのですが基礎の繰り返しで長続きせず、パリのモンマルトルに住む弟テオのもとに転がり込み、そこでパリの最先端の絵画の潮流を知ることになります。

ピサロ、ギヨマン、シャニック、セザンヌ、スーラ等の作品です。印象派の画家たちの作品と出会い、彼は明るい色彩に目覚めました

花の絵を描いて色彩の研究をしたり、浮世絵を知って模写しながらその手法を学ぶなどしています。

しかしパリでの生活はゴッホに向いていなかったようです。

(4)南仏アルル時代(1888年~1889年)

1888年ロートレックの勧めもあり、生活費の安さと太陽を求めてフランス南部のアルルに移ります。そしてこの地で才能が開花し、次々と名作が誕生しました。

この時代の彼はひまわりを好んで描いています。

アルルでのゴーギャンとの共同生活を夢見た「黄色い家」は有名ですが、ゴッホの強すぎる個性のため激しい口論の末に「耳切り事件」を起こし、僅か二ヶ月で悲劇の別れを迎えました。

余談ですが、ゴーギャンも元は画商でした。

(5)サン=レミ時代(1889年~1890年)

そのショックもあってか精神の不安定な日々を送るようになると、自らアルル近郊にあるサン=レミの療養所に入り療養に努めました。

この時代のゴッホの絵には、渦やうねりが登場するようになります。

アルル時代はひまわりを好んで描いたゴッホでしたが、サン=レミに移った後は糸杉を多く描いています。

(6)オーヴェル時代(1890年)

弟テオに勧められ精神科医のガシュ医師がいるパリ近郊の精神病院オーヴェルへ移りました。

ゴッホが療養の地としてオーヴェルを選んだ大きな理由は、精神科医のガシュ医師の存在でした。

ガシェは医師でありながら、自らも絵画をたしなむ「日曜画家」で、絵画のコレクターでもありました。ゴッホにとってガシェは、医師であると共に友人でもあり、良き理解になったのです。

この時代はガシュ医師との穏やかな日々で、わずか70日ほどのことでしたが、その短期間のうちに、およそ80点もの作品を描いたことが知られています。

しかし不安定な精神と強い孤独感にさいなまれ1890年ピストルで自らの生涯を閉じました。享年37でした。

4.ゴッホと弟テオとの関係は「画家と画商の契約関係」だった!?

ゴッホといえば、「生前、描いた絵が一枚しか売れなかった」、もしくは「一枚も売れなかった」とよく紹介されます。

また日本では「絵に人生を捧げた破天荒な兄ゴッホと、それを温かく見守り経済的支援をいとわなかった弟のテオ」という「美しい兄弟愛のストーリーの伝記」も多いようです。

これは偉人伝によくある「いかにも出来すぎた美談」で、私は以前から疑問に思っていましたが、最近、新関公子著の「ゴッホ契約の兄弟」(2011年11月刊行)を読んで、その疑問が氷解しました。

今年6月、オランダのゴッホ美術館の所蔵するゴッホの自画像のうち1点が、実は弟テオを描いた肖像画であることが判明したと報じられた。長らく誰もが自画像だと信じて疑わなかったほど、その容貌はゴッホに酷似している。ゴッホにとって、テオは兄弟というよりも自己の分身のような一心同体の存在であったのだろう。
(中略)
画家の兄と画商の弟は、早い時期に契約を結び、兄が制作した全作品を弟に提供するかわりに弟は兄に毎月一定の生活費を送金するという対等な関係になった。敏腕の画商であったテオは、純粋な兄弟愛から契約したというより、兄の才能を冷静に見極め、成功することを確信していたという。実際、ゴッホは生前から画家仲間や一部の批評家に非常に高い評価を得ていた。
(日本経済新聞 2011年12月14日掲出)

ゴッホは描いた絵をテオに送る代償に、毎月150フランを受け取り始めました。これは現在のお金で言うと毎月15万~23万円の報酬を得ていたとみることができます。

この援助というには決して少なくはない金額から、もうひとつ深い関係性が見えてきます。兄弟はただの家族愛だけでつながっていたわけではなかったのです。

テオはこのころパリでは名うての画商で、兄のただならぬ画才を見抜いていました。そして、「ゴッホの生活を支援する代わりに、ゴッホの作品を独占的に扱う契約をした」というのが真相だと、この本では説明しています。

ゴッホから弟テオへの手紙にもそれを裏付ける記述があります。ゴッホは描いている作品の構図や配色をスケッチを交えて事細かに説明した手紙を頻繁にテオに出しています。また、描き上げた作品は自身の手元に置くことなくテオに発送しています。

さらには、いっこうに作品を世に出さず売ることもしないテオに、いつまで自分を無名にしておくつもりだと皮肉をこめた手紙も送りつけています。時には別の画商に持ち込んでもいいんだぜと脅してみたりと、まさしく画家と画商の関係です。

ゴッホは弟からの送金は自分が絵を描いた報酬と考えていたのです。さらに、アルルに移る際に、ゴッホはかなりの金額を弟に要求しています。

1888年2月。ゴッホはアルルに新しい創作拠点を設けました。ゴーギャンを呼び寄せて共同生活も始まりました。あまり知られていませんが、ゴーギャンの借金を清算し、旅費を持たせてゴッホの待つアルルへ送り出したのもテオでした。

アルル時代、テオはゴッホに、8ヶ月間で350万円(2320フラン)もの送金をしています。もちろん、ゴッホはそれ以上の見返りを絵を描くことで果たしました。

「アルルの跳ね橋」、「郵便配達夫ルーランの肖像」、「夜のカフェテラス」、「ひまわり」の連作など、数多くの名作は、このアルル時代に描かれたものです。

ちなみに、ゴーギャンの絵が初めてまともな価格で売れたのは「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」(1898年作)で、完成から3年後の1901年、2500フランでようやく買い手が付きました。

プロの画家として認められたゴーギャンは、1899年頃より画商から毎月の契約金を受け取ることになりますが、その金額は月額300フランでした。

テオが月額150フランを送金していたことは、兄弟愛からの援助ではなくプロの画家としての報酬、作品を独占できる契約金だったのは間違いないでしょう。

早くから画商付きの画家であったゴッホは、少なくともゴーギャンよりも恵まれていたことは確かです。

余談ですが、テオは兄の死をきっかけに徐々に衰弱し、オランダに帰国しましたが、翌1891年、兄の後を追うようにユトレヒトの精神病院で亡くなりました。享年33でした。

5.ゴッホの作品

(1)『屋根、ハーグのアトリエからの眺め』1882年、ハーグ。

『屋根、ハーグのアトリエからの眺め』1882年、ハーグ。

(2)シーンを描いた『悲しみ』1882年4月、ハーグ。

シーンを描いた『悲しみ』1882年4月、ハーグ。

(3)『泥炭湿原で働く女たち』1883年10月、ニーウ・アムステルダム。

『泥炭湿原で働く女たち』1883年10月、ニーウ・アムステルダム。

(4)『ジャガイモを食べる人々』1885年4月-5月、ニューネン。

『ジャガイモを食べる人々』1885年4月-5月、ニューネン。

(5)『開かれた聖書の静物画』1885年10月、ニューネン。

『開かれた聖書の静物画(イタリア語版)』1885年10月、ニューネン。

(6)石膏彫刻の女性トルソー。1886年6月、パリ。

石膏彫刻の女性トルソー。1886年6月、パリ。

(7)『モンマルトル』1887年初頭、パリ。

『モンマルトル』1887年初頭、パリ。

(8)『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』1886年10月、パリ。

『ムーラン・ド・ラ・ギャレット(英語版)』1886年10月、パリ。

(9)『おいらん(栄泉を模して)』1887年10月-11月、パリ。

『おいらん(栄泉を模して)』1887年10月-11月、パリ。

(10)『ジャポネズリー:梅の開花(広重を模して)』1887年10月-11月、パリ。

『ジャポネズリー:梅の開花(広重を模して)』1887年10月-11月、パリ。

(11)『タンギー爺さん』1887年秋、パリ。

『タンギー爺さん』1887年秋、パリ。

(12)『アルルの跳ね橋』1888年3月、アルル。

『アルルの跳ね橋』1888年3月、アルル。

(13)『収穫』(麦秋のクローの野)1888年6月、アルル。

『収穫』(麦秋のクローの野)1888年6月、アルル。

(14)『日没の種まく人』1888年6月、アルル。

『日没の種まく人』1888年6月、アルル。

(15)『ひまわり』1888年8月、アルル。

『ひまわり』1888年8月、アルル。

(16)『夜のカフェ』1888年9月、アルル。

『夜のカフェ』1888年9月、アルル。

(17)『夜のカフェテラス』1888年9月、アルル。

『夜のカフェテラス』1888年9月、アルル。

(18)『ローヌ川の星月夜』1888年9月、アルル。

『ローヌ川の星月夜』1888年9月、アルル。

(19)『黄色い家』1888年9月、アルル。

『黄色い家』1888年9月、アルル。

(20)『アルルの寝室』1888年10月、アルル。

『アルルの寝室』1888年10月、アルル。

(21)『赤い葡萄畑』1888年11月、アルル。

『赤い葡萄畑』1888年11月、アルル。

(22)『アルルの女 (ジヌー夫人)』1888年11月、アルル。

『アルルの女 (ジヌー夫人)』1888年11月、アルル。

(23)『包帯をしてパイプをくわえた自画像』1889年1月、アルル。

『包帯をしてパイプをくわえた自画像』1889年1月、アルル。

(24)『レー医師の肖像』1889年1月、アルル。

『レー医師の肖像(フランス語版)』1889年1月、アルル。

(25)『ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女』1889年1月、アルル。

『ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女』1889年1月、アルル。

(26)『アルルの病院の中庭』1889年4月、アルル。

『アルルの病院の中庭』1889年4月、アルル。

(27)『アイリス』1889年5月、サン=レミ。

『アイリス』1889年5月、サン=レミ。

(28)『星月夜』1889年6月、サン=レミ。

『星月夜』1889年6月、サン=レミ。

(29)『二本の糸杉』1889年6月、サン=レミ。

『二本の糸杉』1889年6月、サン=レミ。

(30)『オリーブ畑』1889年6月、サン=レミ。

『オリーブ畑』1889年6月、サン=レミ。

(31)『麦刈る男』1889年9月、サン=レミ。

『麦刈る男』1889年9月、サン=レミ。

(32)『プラタナス並木通りの道路工事』1889年12月、サン=レミ。

『プラタナス並木通りの道路工事』1889年12月、サン=レミ。

(33)『花咲くアーモンドの木の枝』1890年2月、サン=レミ。

『花咲くアーモンドの木の枝』1890年2月、サン=レミ。

(34)『糸杉と星の見える道』1890年5月、サン=レミ。

『糸杉と星の見える道』1890年5月、サン=レミ。

(35)『医師ガシェの肖像』1890年6月、オーヴェル。

『医師ガシェの肖像』1890年6月、オーヴェル。

(36)『オーヴェルの教会』1890年6月、オーヴェル。

『オーヴェルの教会』1890年6月、オーヴェル。

(37)『夜の白い家』1890年6月、オーヴェル。

『夜の白い家』1890年6月、オーヴェル。

(38)『ピアノを弾くマルグリット・ガシェ』1890年6月、オーヴェル。

『ピアノを弾くマルグリット・ガシェ』1890年6月、オーヴェル。

(39)『荒れ模様の空の麦畑』1890年7月、オーヴェル。

『荒れ模様の空の麦畑』1

(40)『カラスのいる麦畑』1890年7月、オーヴェル。

『カラスのいる麦畑』1890年7月、オーヴェル。

(41)『ドービニーの庭』1890年7月、オーヴェル。

ドービニーの庭』1890年7月、オーヴェル。

(42)『木の根と幹』、1890年7月、オーヴェル。

『木の根と幹』、1890年7月、オーヴェル、



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