夏目漱石の「坑夫」は自然主義の異色作か?

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坑夫

夏目漱石(1867年~1916年)の作品の中で異彩を放っている作品に、「坑夫」があります。この小説は朝日新聞に連載された新聞小説で、彼の職業作家としての2作目の作品です。なお1作目は「虞美人草」です。ちなみに「吾輩は猫である」は俳句雑誌「ホトトギス」に連載されました。

今回はこの「坑夫」にまつわる面白い話をご紹介したいと思います。

1.「坑夫」とは

(1)内容

主人公の男性が過去、坑夫になるために銅山へ行った時の体験談を、回想という形でひたすら語るというものです。

19歳の主人公が、許嫁(婚約者)がいるのに他の女性が好きになり、思い悩んで家出しますが、口入れ屋(手配師)のような男から「坑夫にならないか」と誘われて銅山へ行きます。主にその時の5日間の出来事を後年の彼が回想するという話です。

あらすじは、飯場頭や古参の坑夫から「坑夫は過酷な労働で劣悪な環境なのでやめた方がよい」と勧められますが3日間働き、4日目に規則により健康診断を受けたところ「気管支炎」とわかって坑夫になることは断念し、5日目からは「飯場の帳付け」の仕事に回ることになり、その後5カ月間無事に勤め上げて東京に帰ったというものです。

実際に漱石がある男性から聞いた体験談が元になっています。今で言えば「ノンフィクション風」「ルポルタージュ風」な作品で、彼としては異色の作品です。

(2)執筆経緯

ある日突然、漱石のもとに荒井某という若者が現れて、「自分の身の上にこういう材料があるが小説に書いて下さらんか。その報酬を頂いて実は信州へ行きたいのです」という話を持ち掛ける出来事が起きました。

漱石は当初、個人の事情を小説として書きたくないという思いから、「むしろ君自身が小説化した方がいい」と本人に勧めました。

しかし、ちょうどその時、1908年の元旦から「朝日新聞」に掲載予定だった島崎藤村の「春」の執筆が捗らず、急遽漱石がその穴を埋めることになったのです。

そこで漱石は若者の申し出を受け入れ、彼の作品としては異色と言える「実在の人物の経験を素材としたルポルタージュ的な作品」を生み出すことになったのです。

2.漱石と自然主義

(1)自然主義についての見方

執筆経緯について彼自身が語った「『坑夫』の作意と自然派伝奇派の交渉」(1908年「文章世界」)の中で、彼の自然主義についての見方が披露されています。

彼は、当時流行作家としてもてはやされていた尾崎紅葉の「戯作調の小説」は嫌っていたようですが、自然主義派の小説については、自然主義だからという理由で否定するのではなく、「良いものは良い、悪いものは悪い」と公平な評価をしていたようです。

「『坑夫』の作意と自然派伝奇派の交渉」の中で、彼は次のように述べています。

私も一々見たんではないが、見たかぎりじゃどれも面白い。ところで世間では私を自然派と目しておらん。自然主義を主張する人は、間接に私を攻撃しているように外面上見える。この意味からいえば、私はとっくに弁じていなければならんのだ。けれども今までなんにもいわない。いえなんだかもしらんが、まアいわなんだほうだ。なんとなれば、私は自然派が嫌いじゃない。その派の小説も面白いと思う。私の作物は自然派の小説とある意味じゃ違うかもしらんが、さればとて自然派攻撃をやる必要は少しも認めん。誰が書いても出来損ないは悪く、善いものは善いに極まっているんだから。そこでことさらになんという意見も発表しなかったわけなのだ。

しかし自然派の人々からいうと、我々の書くものでは悪くて、自分たちの作物でなければ文学でないかのごとくなのだ。こうなってくると、自然派の立場と私のそれとの比較研究が多少必要となってくる。

第一に自然主義とはなんぞや、歴史的にいかなる価値ありて、いかに発展せしものぞ。第二に、自然派は日本に渡ってその小説にいかに現れしか等を研究しなくちゃならん。けれども自然主義は誰にも難しいとみえて、自然主義とはなんぞやと問うても、たいていの者は明瞭に答えられん。しかしぼんやりとは解っている。が、ただ纏められん。いろいろの作物を読んで比較を試み、その共通の要素を抜き出して、自然主義はかくかくの者だということもやりにくい。それは複雑で解剖ができんからだ。も一つには、自然主義の意味が始終動揺(ぐらつい)ているんじゃなかろうか。

(2)漱石の文学論

彼は「自然主義・浪漫主義・古典主義」の関係について、上記の「『坑夫』の作意と自然派伝奇派の交渉」の中で、彼は次のように述べています。

ローマンチシズム(浪漫主義)と自然主義とは、世の中で考えてるように相反してるものじゃない。相対していっしょになれんというものじゃなくて、かえって一つの筋がズート進行してるようなものだ。その筋の両極端に二主義を置くと、ちょうど中央の部では半々に交わるところができてくる。あるいは三分の一と三分の二とで交わってるところもある。あるいは五分の一と五分の四とで交わってるところもある。すなわちグラデーションを為してる形となる。

(中略)

両主義をどっちかに片付けなければならんという必要はないんだから、したがってどっちかに交ったものがたくさんできてくる。

(中略)

この二つの傾向が、あるところで平衡を得る場合には調和を示す・・・奈辺にクラシシズム(古典主義)があるのかといえば、今の平衡を得た中央にある。

3.明治時代の日本の文学の潮流

(1)啓蒙期の文学と写実主義

1885年に坪内逍遥(1859年~1935年)が「小説神髄」を発表するまでの日本の文学は、「戯作文学」「翻訳文学」「政治小説」でした。

坪内逍遥が「小説神髄」をもとに書いた「当世書生気質」は多分に戯作調が残っていましたが、二葉亭四迷(1864年~1909年)の言文一致体の「写実主義」的な「浮雲」が近代文学の先駆となりました。

(2)擬古典主義と浪漫主義

政治における国粋主義的雰囲気の高まりとともに、井原西鶴や近松門左衛門への再評価が行われ、尾崎紅葉(1868年~1903年)や幸田露伴(1867年~1947年)らの「擬古典主義」が生まれました。

しかし近代化が進むにつれ、自我意識の目覚めは、人間性の解放や開放的な自由を求める「浪漫主義」が生まれます。

「舞姫」を書いた森鴎外(1862年~1922年)や、北村透谷(1868年~1894年)、樋口一葉(1872年~1896年)、泉鏡花(1873年~1939年)のほか、「武蔵野」を書いた国木田独歩(1871年~1908年)もいます。歌人の与謝野晶子(1878年~1942年)らの「明星派」も浪漫主義です。

なお、独歩は浪漫主義から次第に自然主義的作風に変化して行きます。

(3)自然主義

20世紀初頭(明治時代末期)になると、フランスのゾラ(1840年~1902年)やモーパッサン(1850年~1893年)などの小説家の影響を受けて「自然主義」文学が起こります。

当時のヨーロッパでは産業革命が起こったことで階級格差が急速に広まり、人々は芸術の中にもリアリズムを求め、理想や幻想を追求する古典主義や浪漫主義が衰退していったのです。

ヨーロッパの自然主義は、当時の遺伝学・社会学などの知見を取り入れて「自然科学の視点から人間の行動や一生を客観的に解明し描写する」ものでしたが、日本では「現実を赤裸々に暴露するもの」「人間の本質を赤裸々に描くリアリズム」と受け止められました。

島崎藤村(1872年~1943年)の「破戒」に始まり、田山花袋(1872年~1930年)の「蒲団」によって方向性が決定づけられました。なお、花袋の小説は「私小説」の出発点とされています。

(4)反自然主義

「自然主義」に対して、それに属さない文学が「反自然主義」と呼ばれるようになりました。

しかし、上に紹介した漱石のように、必ずしも全てが「自然主義反対派」というわけでもなかったのではないかと思います。

漱石は「余裕派」と呼ばれ、鴎外は「高踏派」と呼ばれました。

後に現れる谷崎潤一郎(1886年~1965年)らの「耽美派」、志賀直哉(1883年~1971年)・有島武郎(1878年~1923年)らの「白樺派」、芥川龍之介(1892年~1927年)・菊池寛(1888年~1948年)らの「新現実主義」なども「反自然主義」に分類されます。



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