放射能の研究でノーベル賞を受賞したキュリー夫人とはどんな女性だったのか?

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キュリー夫人

放射能を研究してラジウム・ポロニウムを発見し、夫とともに「ノーベル賞」を受賞したキュリー夫人とはどんな女性だったのでしょうか?

皮肉なことですが、彼女の発見がなければ原子爆弾などの核兵器の開発がなかったか、あるいは遅れていたかもしれません。いまさら言っても詮無いことでですが、広島や長崎への原爆投下や、福島の原発事故も起こらなかったともいえます。

彼女らの研究が原点となった「原子力」は、現在では医療・産業・工業など様々な領域で活用されるなどプラスの側面も大きいのですが・・・

1.キュリー夫人とは

(1)キュリー夫人とは

マリア・サロメア・スクウォドフスカ=キュリー(1867年~1934年)は、現在のポーランド(ポーランド立憲王国)出身の物理学者・化学者です。

フランス語名マリ・キュリーMarie Curie、ファーストネームは日本語ではマリーとも)で、日本ではキュリー夫人 (Madame Curie) として有名です。

1867年11月7日、ワルシャワ生まれ。放射線の研究で1903年のノーベル物理学賞、ラジウム・ポロニウムの発見とラジウムの性質及び化合物の研究成果によって1911年のノーベル化学賞を受賞し、パリ大学初の女性教授に就任しました。1909年、アンリ・ド・ロチルド (1872-1946) からキュリー研究所を与えられました。

放射能 (radioactivity)」 という用語は彼女の造語です。

(2)キュリー夫人の生涯

彼女が生まれた当時のポーランドは長い戦争によってプロイセン、フランス、ロシアに分割統治され、国家そのものが消滅していました。

幼少期、貧しいながらも兄や姉と共に学校に通い、飛び級してもなお学年首席という優秀さでしたが、赤貧生活も祟り長姉と母を相次いで亡くしています。

猛勉強の末にフランス最高学府であるソルボンヌ大学(現パリ大学)に合格し、相変わらずの貧乏生活を続けながらも26歳の時に物理学者の学位を得ました。

やがて8歳上の物理学者であるピエール・キュリー(1859年~1906年)と出会い、結婚しました。
結婚前にピエールは友人に「女性の天才というものを私は初めて見た」と絶賛していました。

結婚式自体は質素なもので、教会での誓いも指輪もなく、新婚旅行には自転車で出掛けました。やがて長女イレーヌ、次女エーヴも生まれ、幸せな家庭を築きました。

キュリー夫妻と長女

1896年に彼女の同僚の研究者アンリ・ベクレル(1852年~1908年)(下の画像)が、ウラン鉱石から「謎の光線」が出ているのを発見しました。

ちなみにアンリ・ベクレルはフランスの物理学者・化学者です。放射線の発見者であり、この功績により1903年ノーベル物理学賞をピエール・キュリー、マリ・キュリーと共に受賞しました。放射線量の単位としての「ベクレル」は彼の名前に因みます。

アンリ・ベクレル

夫妻は当時話題になっていたこのベクレルのベクレル線(放射線)の研究について興味を持ち、ベクレル線の元となるウラン鉱石を8トンも取り寄せて不純物を取り除く作業を始めました。

研究室でのキュリー夫妻

長期間の研究の末に、夫妻は1898年にポロニウムの発見に成功しました。次いで1902年にはラジウムも発見し、その功績によって1903年に「ノーベル物理学賞」を授与されました。

しかし、それから3年後、ピエールは馬車事故で帰らぬ人となりました。その前にも父と次女(エーヴの姉に当たる子供)を相次いで亡くしていましたが、その逆境にもめげずにつかみ取った栄光も、夫の死によって一夜にして消え失せました。

しかし、ピエールが在学していたパリ大学は、未亡人となった彼女に対し、亡くなったピエールの全ての権利を譲ることを宣言しました。

悲嘆に暮れていた夫人も、亡き最愛の夫が本当に望んでいることは何かを改めて問い直し、ピエールの跡を継ぐことを決意しました。

この頃から彼女は研究一筋となり、二人の娘の面倒は義父であるピエールの父に任せきりになっていました。そして皮肉にもこの幼少期の体験が、子供たちが両親と同じ科学者を目指すきっかけとなりました。

「鉄鋼王」アンドリュー・カーネギーの支援もあって、彼女はソルボンヌの教壇に立ちながら研究を続け、心なき人々の中傷と身体を蝕む消せぬ毒に耐えながらも1911年に「ノーベル化学賞」を受賞しました。

彼女は手づかみでラジウムを取扱い、口に咥えたペピットでラジウムを溶かした液体を吸い上げるという生活を何十年も続けていました。

晩年になるにつれて放射線に蝕まれ、指先は黒ずみ、ひび割れ、感覚がなくなり、耳鳴りがひどくなりました。身体はやせこけ、目も見えなくなりました。彼女は「歩く放射性物質」のようになっていたのです。

1934年、再生不良性貧血で彼女はその生涯に幕を下ろしました。享年66でした。

2.キュリー夫人にまつわるエピソード

(1)女性初のノーベル賞受賞

1903年に「ノーベル物理学賞」しましたが、これは女性初のノーベル賞受賞です。

(2)二つのノーベル賞受賞

1903年に「ノーベル物理学賞」、1911年に「ノーベル化学賞」と二つのノーベル賞を受賞していますが、これも世界初でした。

(3)「ノーベル物理学賞」授賞式を夫妻ともに欠席

放射能の影響で、夫妻ともに健康を蝕まれて体調不良となり、1903年の「ノーベル物理学賞」授賞式には夫妻ともに欠席せざるを得ませんでした。

彼女はポロニウムとラジウム私の子どもと呼びました。「こんなに美しいものが有毒であるはずがない」という彼女特有の思い込みの強さは、数々の発見にもつながりましたが、悲劇を数多く呼び込みました。

とくに夫のピエールに健康被害は強く出ました。まともに歩けなくなり、1906年にはどしゃぶりの雨の中、6トンも軍服を積んで走る馬車を避けきれずに轢かれ、ピエールは即死してしまったのです。

ちなみに同時受賞したアンリ・ベクレルも、放射能の影響で健康を蝕まれており、5年後の1908年に55歳で亡くなっています。

ポロニウム・ラジウムの発見当時、「光り輝く放射性物質」は、「人類に幸せをもたらす魔法の物質、夢の新薬のように喧伝されさまざまな商品が作られました

その狂騒ぶりを記す「被曝の世紀」(キャサリン・コーフィールド著、友清氏訳)には、数々の実例が挙がっています。コロンビア大学の薬学部長は、ラジウムを肥料にすれば「味の良い穀物を大量につくれる」と主張したそうです。薬剤師はウラン薬やラジウム薬を薬局の棚に並べ、また医師たちもラジウム注射のような放射性物質を使った治療法を次々と開発、糖尿病、胃潰瘍、結核、がんなど、あらゆる病に活用しようとしました。

ほかにも、膨大なラジウム関連商品欧米で販売されています。放射性歯磨き、放射性クリーム、放射性ヘアトニック、ラジウム・ウォーター、ラジウム入りチョコバーなどなど。「ラジウムはまったく毒性を持たない。天体が太陽光と調和するように、ラジウムは人体組織によく調和する」—これは当時の医学雑誌「ラジウム」(1916年)の一節です。

当然のことかもしれませんが、放射性物質の危険性に対する意識は、まったくのゼロだったのです。放射能を恐れていなかったという点では、キュリー夫妻やベクレルも同じでした。

1930年代には、ドイツのオットー・ハーン、ハンガリー出身でアメリカへ亡命したレオ・シラードらが、ほぼ時を同じくして「核分裂と連鎖反応の仕組み」を着想しました。「原爆」と「原発」は、この仕組みを利用した「双子の技術」です。「瞬時に反応を起こせば原爆」となり、「時間をかけてゆっくり反応を進めていけば原発」になるわけです。

ナチスドイツによる原爆開発を危ぶむシラードは、アインシュタインの仲介でルーズベルト大統領に「新型爆弾」開発の直訴状を出しました。これがやがて、広島と長崎を襲った原爆の開発につながったのです。

一方、世界初の原子炉は「完璧な物理学者」と呼ばれたイタリアのエンリコ・フェルミが開発の中心を担いました。1942年にフェルミが作りあげた原子炉「シカゴ・パイル」は、手作業で制御棒や減速材を操作するという代物で、コントロールにはフェルミの完璧な計算が欠かせませんでした。

この実験に立ち会っていたシラードは、フェルミに対して「今日という日は暗黒の日として人類の歴史に刻まれるだろうな」と呟いたそうです。

その3年後にアメリカは原爆を広島と長崎に実戦投入、9年後の1951年には世界初の原子力発電を成功させました。以来、人類はまともに制御できない原発と付き合うという「暗黒の歴史」を突き進むのです。

(4)夫の死後の不倫愛

夫亡き後は、夫の元・弟子でハンサムなポール・ランジュヴァン(1872年~1946年)(下の画像)と熱烈な不倫愛に陥りました。

ランジュヴァン

ランジュヴァンは結婚していたので、ランジュヴァン夫人のジャンヌは夫と彼女の「関係」に気づくと激怒、「殺してやる」とすらつぶやいて復讐のチャンスを待ち続けました。

1911年の「ノーベル化学賞」は彼女単独での受賞に内定していましたが、この発表の3日前というタイミングで、ランジュヴァン夫人は攻撃に出ます。

彼女とランジュヴァンの不倫愛の事実を、彼らが交わしたラブレターなどとともに世間に公表したのです。

世論は大いに湧き上がり、生命をかけた決闘事件が2回も起きました。

一つはいわば「科学のアイドル(マドンナ?)」だった彼女の大ファンの某誌編集長と、彼女を手ひどく叩いたまた別の雑誌の編集長が剣で殺し合いをしたものです。

もう一つは、渦中の人であるランジュヴァンと、彼を侮辱した記者がピストルで撃ち合おうとしたものです。

殺し合いは寸前で回避されましたが、実に物騒なものでした。

彼女は悩みましたが、彼女の何倍も不倫経験に長けたアインシュタインが激励の手紙を書いてきたので、「ノーベル化学賞」を受賞することになったそうです。

(5)娘や娘婿もノーベル賞を受賞し、家族で5つのノーベル賞受賞

長女のイレーヌ(1897年~1956年)(下の画像左)も科学者の道を歩み、1925年には博士号を取得して母とともに放射能の研究に携わるようになり、さらに10年後には夫のフレデリック・ジョリオ(1900年~1958年)(下の画像右)とともに「人工放射性元素の研究」によって「ノーベル化学賞」を受賞しています。

イレーヌフレデリック・ジョリオ

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