あまり知られていないと思いますが、「伊勢(歌人)」と「能因法師」は高槻市にゆかりの深い歴史上の人物です。
1.「伊勢(歌人)」とは
「伊勢(歌人)」(872年~938年)は「伊勢姫」とも呼ばれる平安時代の歌人で「三十六歌仙」の一人で、父親は伊勢守藤原継蔭です。「伊勢の御(ご)」「伊勢の御息所(みやすどころ)」とも呼ばれます。なお戦国時代に上杉謙信の元に人質として差し出された「伊勢姫」という女性がいますが、これは全くの別人です。
彼女は最初、宇多天皇の中宮温子の女房として仕え、藤原仲平・藤原時平兄弟や平貞文と交際の後、宇多天皇の寵愛も受け皇子を産みますが、皇子は早逝します。その後、宇多天皇の皇子敦慶親王と結婚し中務を産みます。
情熱的な恋歌で知られ、「古今和歌集」「後撰和歌集」「拾遺和歌集」などに多数の歌が採録され、小倉百人一首にも採られています。
百人一首の歌は「難波潟(なにわがた) 短き蘆(あし)の ふしの間(ま)も 逢はでこの世を 過ぐしてよとや」です。
宇多天皇の没後、摂津国嶋上郡古曽部の地(現在の高槻市)に庵を結び隠棲しました。この庵跡が現在「伊勢寺」という曹洞宗の寺となっています。境内には伊勢を祀る「伊勢廟堂」(下の写真)があるほか、百人一首の歌碑(上の写真)があります。また、毎年1月には百人一首かるた会が開かれます。
蛇足ですが、伊勢のかつての恋人藤原時平は菅原道真の政敵です。ところが彼女が隠棲の地に選んだのは菅原道真を祀る上宮天満宮のすぐ上の丘陵地でした。何か因縁を感じます。
2.「能因法師」とは
「能因法師」(988年~1050年?)は近江守橘忠望の子で、平安時代中期の僧侶・歌人で「中古三十六歌仙」の一人です。26歳の時に出家しています。和歌に優れ、伊勢(歌人)に私淑していたため、その旧居である摂津国嶋上郡古曽部を自身の隠棲の地と定め、「古曽部入道」と称しました。
小倉百人一首にも「あらし吹く 三室(みむろ)の山の もみぢばは 竜田の川の 錦なりけり」が採られています。
また「都をば 霞とともに 立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関」という和歌もあります。この歌は「古今著聞集」によれば、能因法師は実際に白河の関には行っておらず、人から隠れて長い間自宅の草庵に籠って日焼けをして、「この歌は陸奥国へ修行に出たついでに詠んだ歌です」と言って披露したそうです。
しかし、彼は諸国をめぐる漂泊の旅に出た西行法師と同様に、実際に陸奥・伊予・美作など各地を旅してその土地を題材にした和歌をたくさん詠んでいます。
「さ夜ふけて 物ぞかなしき しほがまの ももはがきする しぎのは風に」
「夕されば 潮風こして 陸奥(みちのく)の 野田の玉川 千鳥鳴くなり」
「宮城野を 思い出(いで)つつ 植えにける 本荒(もとあら)の小萩 花咲きにけり」
高槻市古曾部町の伊勢(歌人)隠棲地跡である「伊勢寺」近くの彼の隠棲地と伝えられる旧居跡に「少林窟道場」(正林庵、松林庵)があり、曹洞宗系の座禅道場となっています。この「少林窟道場」裏手の田んぼの中にこんもりとした木が茂っています。その下に彼の墓と伝えられる「能因塚」(能因法師墳)がひっそりと佇んでいます。