名人古今亭志ん生の人気が出たきっかけは何か?前半生は落語の世界そのもの!?

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古今亭志ん生

前に「老いを楽しむ知恵」や「幸福感のパラドックス(加齢のパラドックス)」という記事を書きましたが、今回は中年以降に才能が開花した昭和の名人落語家・古今亭志ん生の人生を振り返って、「頑張らない(頑張り過ぎない)生き方」について考えてみたいと思います。

落語をあまり知らない方や興味のない方でも、2019年のNHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」にも登場しましたので、「古今亭志ん生」という名前は一度はお聞きになったことがあると思います。

1.古今亭志ん生とは

5代目古今亭志ん生(ここんていしんしょう)(1890年~1973年)は、本名が美濃部孝蔵(みのべこうぞう)で、2代目三遊亭小圓朝に入門して朝太・圓菊・馬太郎・武生・馬きん・志ん馬と改名し、講釈師で小金井蘆風(ろふう)、落語に戻ってまた幾度も改名し、7代馬生を経て1939年(昭和14年)「志ん生」を襲名しました。

『火焔(かえん)太鼓』『お直(なお)し』『三枚起請(きしょう)』『唐茄子屋(とうなすや)政談』など演目も豊富で、独自の天衣無縫ともいうべき芸風によって、8代目桂文楽とは対照的な昭和落語の一方の雄とされました。

残された録音も多く、青壮年時代の貧乏暮らしと酒を愛した生涯は『なめくじ艦隊』『びんぼう自慢』などの自伝に詳しく書かれています。

長男が10代目金原亭馬生(きんげんていばしょう)(1928年~1982年)、次男が3代目古今亭志ん朝(ここんていしんちょう)(1938年~2001年)です。孫に女優の池波志乃(10代目馬生の娘で、俳優中尾彬の妻)がいます。

彼は東京神田の生まれで、出自は高位の士族で、生家は菅原道真の子孫を称する徳川直参旗本であった美濃部家です。祖父は赤城神社の要職を務めました。明治維新の際の支給金を父の代ですべて使い果たし、彼が生まれた頃、父は警視庁の巡査をしていて貧乏暮らしでした。しかし子供の頃から父に連れられ、寄席で売られるお菓子目当てに寄席通いをしていました。

2.前半生は落語の世界そのもの

彼は小学校卒業間近の時に、素行が悪く奉公に出されていたこともあったそうです。その後は博打や酒に明け暮れ、放蕩生活を続け実家を出てしまいました。その後は一切実家に姿を見せず、親や夭折した兄弟の死に目にも会っていないそうです。

一方で、同時期に芸事に興味を抱き始めた彼は、1910年に2代目三遊亭小圓朝の元へ入門し、以後三遊亭朝太という名を名乗り、落語家としての人生をスタートさせました。

その後二つ目に昇進すると三遊亭圓菊の名を名乗るようになり、さらに1918年には4代目古今亭志ん生一門に移籍すると金原亭馬きんの名で真打への昇進を果たしました。

1922年(大正11年)11月、清水りんと結婚。1924年(大正13年)に長女・美津子、1925年(大正14年)に次女・喜美子(後の三味線豊太郎)、1928年(昭和3年)に長男・清(後の10代目金原亭馬生)が誕生しました。笹塚から夜逃げして本所区業平橋のいわゆる「なめくじ長屋」に引っ越したのはこの年です。

家賃が払えず「これまでの家賃はいらないから、出て行っておくれ」と何度も借家を追い出され、たどり着いたのが家賃のいらない「なめくじ長屋」でした。

夜は、薄っぺらい煎餅布団(せんべいぶとん)一枚に五人の家族が転げ込んで寝るという有様だったようです。

さんざん苦労した妻も「どんなに苦しい時でも、お金のない時でも、本だけは買ってきて一生懸命稽古をしていたから、『この人は、ゆくゆくはものになる人』だと思って、辛抱できたんだ」と話しています。

しかしその後、当時の実力者だった5代目三升家小勝に楯突いたことで落語家としての居場所を失い、講釈師へと転身することになります。それから謝罪し落語家として再び活動をはじめ、初代柳家三語楼一門へと入門しますが、ここでも失態を犯し居場所を失ったそうです。この時も謝罪し復帰を果たしますが、周りからの風当たりは冷たく、寄席でも活躍の場は少なかったそうです。

3.古今亭志ん生の人気が出たきっかけ

紅白出場50回を誇る演歌歌手の五木ひろし(1948年~ )も、最初人気が出なかったために何度も芸名を変えていますが、古今亭志ん生が何度も改名したのも、なかなか売れなかったためです。

ただ彼の場合は、一向に売り出せない状況の打破を願意味に加えて借金から逃亡する目的もあったと言われています。

1932年(昭和7年)、再び3代目古今亭志ん馬を名乗りました。落語界入りしてから長らく売り出せず苦労した彼ですが、この頃になってようやく少しずつ売れ始めました。1934年(昭和9年) 9月に7代目金原亭馬生を襲名。1938年(昭和13年)、次男・強次(後の3代目古今亭志ん朝)が生まれました。1939年(昭和14年)に48歳で5代目古今亭志ん生を襲名しました。

朝太から志ん生襲名まで16回改名したことになります。

志ん生を襲名した1939年になると彼は、ようやく落語家としての人気を高めていきました。実際に1941年に神田で行った独演会には大勢の観客が押し掛けたそうです。

しかしその後兵隊の慰問の仕事で、6代目三遊亭圓生らとともに満州に渡ることになった彼は、大連で終戦を迎えて帰国できなくなってしまい、現地で引き揚げ船の出航を待ちわびながら、生死ギリギリの生活を強いられたと言われています。

お金のない志ん生と圓生は、「二人会」と名付けた落語会を作って、大連から満州へ稼いで回ろうと考えました。しかし、満州に着いてみると、ソ連軍がすぐ目の前に攻め込んできて、青酸カリを飲んで自殺する女や、出刃包丁を持ち出す男ありと、修羅場になっており、とても落語会どころではないと思えました。

それでも会は開きました。すると80人もの客が集まったのです。食べずに取っておいた虎の子の食べ物や酒を持ち出して、「これが最後」と覚悟しての落語会でした。

客の一人が言うことには、「イヤ、どうせ死んじまうんですから、笑って死にたいと思いましてね。

ぞろっぺい(だらしがなく、いい加減)だった彼の何かがここで変わりました。

明日死ぬかもしれない人たちを相手に、笑いを取るのは志ん生、圓生ともに相当なプレッシャーだったと思われます。

悲壮な雰囲気の中で、まず圓生が「たらちね」を演じましたが、客一同はしゅんとしたまま、くすりともしませんでした。次に志ん生が「王子の狐」をやりましたが、これも笑いを取れませんでした。

死の確率が極限まで高くなっている環境下で、その悲壮と緊張のもと、どんなに落語を上手くやったところで、客を笑わせることはできないということです。

いい加減な気持ちでやって来た中国で、彼は初めて酒以外で五臓六腑に染み渡る体験をしたのです。芸の上で、ある覚悟のようなものが出来たのではないでしょうか?

1947年1月に、命からがら満州から帰国すると、ニュースにも取り上げられるなど注目され、戦前とは打って変わって一気に芸・人気とも勢いを増し、寄席はもちろんラジオ番組出演なども多くこなす大変な売れっ子落語家となりました。

あちこちで仕事を掛け持ちするので、寄席の出番よりも自分の都合を優先してしまい、周囲からわがままな仕事ぶりを非難されることもあったそうです。

そして、当時は同じく絶大な人気を博していた8代目桂文楽と並び、東京を代表する落語家の一人として高い評価を得ました。このころ、彼は名実ともに全盛期を迎えていたと言えるでしょう。

4.晩年

その後、1957年には落語協会の会長に就任しました。しかし1961年に、巨人軍の優勝祝賀会で余興として行っていた公演中に脳卒中で倒れてしまいます。当時3ヵ月間昏睡し、療養を経た彼は半身不随となっており、以前の芸風も薄れていたそうです。

また、実際に高座に立った際には、講談の舞台で使用する釈台を置き、左手をついて務めていたとも言われています。

意外なことに、彼が人気落語家として脂が乗って活躍したのは1947年から1961年(56歳から71歳)までのわずか15年間です。

つまり、彼は若い頃から才能が開花したのではなく、「大器晩成型」だったのです。

5.エピソード

戦後における「最高峰の名人」とも「落語の神様」とも称されている彼については、さまざまなエピソードが語られています。

たとえばお酒が大好きであった彼は、関東大震災の際も真っ先に酒屋に行って酒を買ってきたとか、戦時中の空襲のさなかでもお酒をこよなく愛し、泥酔したと言われており、さらには泥酔した状態で高座に上がったこともあったとか。しかも一度や二度だけではなかったそうで、いくら起こしても起きなかったこともあったと言われています。

しかし泥酔した状態で高座に上がった際、真っ赤な顔と呂律が回っていない口調で上演した話は支離滅裂だったそうですが、その姿が逆に観客の爆笑を誘い、その日一番の拍手を浴びたこともあったそうです。

このほか、次のようなエピソードもあります。

・新婚の翌日には、女郎買いに出かけた

・貧乏のため、産婆に払う金もなく、出産祝いは「鯛焼き」の尾頭付きで済ませた

・戦争中、お酒が飲めることを楽しみに満州へ慰問にいった時、自殺しようとウォッカ1箱を飲んだが、目が覚めてしまった

・戦争中、満州の放送局でアナウンサーをしていた森繁久彌が、演芸会でバレ噺(艶笑落語)を演じた彼を絶賛して「あんたなら日本ですぐに売り出せる」と太鼓判を押した

・自分がトリ(最後)の高座でも、もっと割りの良い営業の仕事が入ったらそっちに行った

・落語の登場人物の名前を忘れて「え~っと、どうでもいい名前」と言って済ませた

6.「6代目三遊亭圓生」による「5代目古今亭志ん生」の芸についてのコメント

芸の幅が五十をすぎて、パーッと開けちゃった

・もともと才能はあるのに、酒を浴びるように飲んだり、バクチを打ったり、どうしようもなかった。しかし人間はズボラだったが、芸にウソはなかった

・志ん生の芸は傷だらけ、その芸も完璧なものじゃなかったわけで、人間描写もいい加減なところがあった

・小さく固まらなかったから、いつかその芸がなんともいえない独特の芸風にふくらんでしまった

・口演の出来不出来が激しかったが、そこがいかにも志ん生らしいところ

志ん生さんにはフラがありましたが、あれも型があっての上での自在な間なんです。型のないものは芸じゃありません

満州への慰問旅行に同行した「戦友」とも呼ぶべき6代目三遊亭圓生(さんゆうていえんしょう)(1900年~1979年)は、5代目古今亭志ん生の芸について、このように評しています。

「完成した5代目志ん生」を見ると「天衣無縫」と思えますが、実際は売れない時代が長く、芸について苦労して非常に考えた上であの芸風を苦心して作り上げたことが窺えます。

古今亭志ん生(五代目)芝浜



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