宮武外骨は「滑稽新聞」に風刺記事・戯作を書き、筆禍事件もある反骨精神の奇人

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宮武外骨

1.宮武外骨とは

宮武外骨(みやたけがいこつ)(本名も同じ)(1867年~1955年)は、明治・大正・昭和期のジャーナリストで世相風俗研究家・新聞史研究家でもあります。なお晩年には「外骨」の読みを「とぼね」に改めています。

彼は政治家や官僚、行政機関、マスメディアを含めた権力の腐敗を言論により追及しました。

日本における言論の自由の確立を志向し、それを言論によって訴えました。また、活字による「アスキーアート」(*)を先駆的に取り入れた文章など、様々な趣向を凝らしたパロディや言葉遊びを執筆しました。

滑稽新聞・アスキーアート滑稽新聞・アスキーアート2

(*)「アスキーアート(ASCII art)」とは、 「プレーンテキスト(何も加工されていない文字) による 視覚的表現技法」のことです。つまり「文字や記号を並べたり組み合わせたりして作成する絵画」のことです。「テキストアート」 、「 活字アート 」、「 絵文字」 などとも呼ばれます。下の画像がその一例です。

アスキーアートアスキーアート2

あんまころすもちや縦横同語

暫くして明らかに昇る旭東京の番町の男佃さん粟の糧岳の峠が崩れて杣驚く十字形漫語

(1)生い立ちと少年時代

彼は、讃岐(さぬき)国(香川県)の庄屋・宮武家の四男として生まれました。幼名亀四郎

一生農家で果てるのを嫌って、高松栄義塾で漢学を学び、1881年、14歳の時に上京し進文学舎においても漢学を学んでいます。東京で多くの出版物に触れて記者や著述家ほど愉快な職業はないと感じ、『朝野新聞』の成島柳北、『近事評論』の林正明 (肥後熊本藩士)、『東京新誌』の服部誠一らに憧れ、18歳から執筆活動を始めました。

17歳の時戸籍上の本名を 「外骨」 に改めています。これは幼名の亀四郎の亀が、漢和辞典の説明に「亀外骨内肉者也」とあったことからです。

少年時代から『団々(まるまる)珍聞』などに狂詩を投書。1886年に『屁茶無苦(へちゃむく)新聞』を創刊しましたが、風俗壊乱として発売禁止となります。

(2)反権力を貫くジャーナリストとなり数多くの筆禍を被る

以後彼の特異な新聞・雑誌活動は数多くの筆禍を被りました。筆禍による入獄は4回、罰金刑15回、刊行物の発売禁止・発行停止は14回という凄まじいものです。平等思想が反権力となり、獄中生活がその思想に形を与えたようです。

当初は比較的穏健でしたが、反骨精神に富む彼は政治や権力批判を懲りずに何度も行ったため、たびたび発禁・差し止め処分を受けることになったのです。

当時、新聞記者の小川定明、学者の南方熊楠と並んで「天下の三奇才兼三奇人」とされました。外骨の場合には、「優れている者」に限らず、「変人」の意味も含まれていました。 流行や権力が生み出すメインストリームに抵抗する「奇人」の思想家の系譜に属しています。

1887年『頓智(とんち)協会雑誌』を創刊。同誌第28号に大日本帝国憲法発布式を風刺した「頓智研法発布式之図」を掲げたことから「不敬罪」に問われ、重禁錮3年、罰金100円に処せられました。

1901年大阪で『滑稽(こっけい)新聞』を創刊。風刺記事・戯作(げさく)によって大いに評判を得ましたが、しばしば筆禍にあいました。また思想的には社会主義から距離を置きながらも、平民社の社会主義運動に共感して資金を援助し、『大阪平民新聞』の発行も助けました。

ほかにも雑誌『此花』、日刊誌『不二』、雑誌『スコブル』などを創刊しました。

(3)世論に迎合するジャーナリズムに対しても徹底的に批判

警察署長の不正や悪徳商法の主(野口茂平)を長期間紙面で晒し上げる一方で日露戦争に対する社説を翻した『万朝報』を批判するなど、批判精神を忘れて権力・世論に迎合するジャーナリズムに対する批判も行い、反権力を貫く一ジャーナリスト(当時の訳語では「操觚者(そうこしゃ)」)として徹底した行動を取り続けました。

特に、自らの力を悪用して私欲を働くマスメディアには「ユスリ記者」と呼び激しい批判を行いました(『滑稽新聞』では「ユスリ」に特注の極太ゴシック体を使用して強調しました)。ただし、その主張の中には「味の素の原料は青大将」など、後に結局デマと分かったものもありました。

味の素・青大将滑稽新聞・広告

(4)選挙の不正を告発するため衆議院議員選挙に立候補

選挙の不正にも眼を向けた彼は、1915年の衆議院議員選挙で「政界廓清(かくせい)・選挙違反告発候補者を名乗り選挙違反を片っ端から告発しました。「落選運動」の走り的存在といえます。結果は259票と、法定得票には辛くも到達しましたが落選でした。一部の高額納税者にしか選挙権が無いという当時の選挙制度を正面から批判しました。
1917年の衆議院議員選挙にも再び選挙違反告発候補者として立候補しました。東京、大阪の両選挙区から「面白半分」「風刺半分」の気持ちで立候補したのですが、その立候補宣言がまたマンガでした。
「われは天の使命として、選挙界を騒がさんがために起つものなり。故に勝敗はもと眼中になし。われは大天狗の荒神様(あらがみさま)金毘羅(こんぴら)大権現の再来なり。もし、刃向かうものあらば、引っつかんで八つ裂きにして、杉の小枝にぶらさげて、天下にさらさん。
われに政見なし、選挙界の廓清をもって政見となす。運動方法は演説と印刷物で自己の意見を発表し、選挙違反を告発するのみ」
自分が発行していた雑誌『スコブル』をちゃっかり値上げして、選挙資金に当てようと、堂々と広告を出しました。「当選は眼中にない。いや、落選はみんなが認めるところである」とも。

選挙運動は戸別訪問を拒否する張り紙を送呈する運動や、「投票乞食禁政策」を社説として掲げただけでした。

その結果は外骨の期待通りで見事に落選しました。清き得票は東京、大阪とも3票の合計たった6票でした。そこで彼は「落選報告会」を神田青年会館で開催しました。

「1人の運動員も使わず、戸別訪問もせず理想的な選挙を行なう候補者は当選の見込みがない」と訴えるために、落選報告会を開いて選挙民を罵倒するつもりでしたが、約600人の聴衆が集まったということです。

(5)明治の新聞・雑誌の保存収集にも尽力

関東大震災(1923年)後は、明治の新聞・雑誌の保存収集の必要性に着目。1924年吉野作造・尾佐竹猛らと「明治文化研究会」を組織し、明治文化の研究に全力を傾けるとともに、博報堂の瀬木博尚(1852年~1939年)の援助を得て1927年、東京帝国大学に「明治新聞雑誌文庫」を設置、彼は同文庫事務主任(東京帝国大学嘱託)となり、明治の新聞・雑誌の収集充実に努めました。在任中に所蔵目録《東天紅》や《公私月報》を発行しています。

なお彼は終戦後も、GHQによる検閲や発禁処分を度々受け、「何が言論の自由か」と言論の規制を敷いている点では戦前の日本政府とGHQは大して差が無いことを批判しました。

1949年に東京大学(1947年東京帝国大学より改称、1949年より新制東京大学)を退職、1955年7月30日に文京区駒込追分町の自宅で老衰により死去しました。享年88。

ほかにも『府藩県制史』、『明治演説史』、『明治奇聞』、『猥褻風俗史』、『筆禍史』、『売春婦異名集』、『明治密偵史』、『大逆事件顛末』など多くの著書があります。

吉野作造東大教授が名著と評価した『筆禍史』には、小野篁から始まり、山家素行、貝原益軒、山東京伝、林子平、式亭三馬、為永春水、平田篤胤、渡辺崋山、柳亭種彦、荻生徂徠など約60件が書かれているそうです。

彼ほど生涯の全てをジャーナリズム精神で貫き通した人物はいません。明治・大正・昭和と組織やスポンサーつきのジャーナリストではなく、他の出版社、雑誌などによって文筆を立てるのでもなく、独立独歩で自ら出版媒体を持って、その編集発行人として自由自在に表現してきた作家はいないといってよいでしょう。真の自由人であり、すべてが個人プレーであるのも他の日本の知識人とは全く違っています。

文章・時事評論・語呂合わせ・ダジャレ・俳句・川柳・都都逸・イロハかるた・かくし絵・浮世絵・漫画・イラスト・塗りえ・貼り絵・パロディー、シュールレアリスムの前身のような表現スタイル、面白い奇妙奇天烈な付録の数々などなど、これでもかというほど自由自在な創造力を発揮しました。

(6)江戸時代の「見世物絵」も研究し、明治後半からの浮世絵再評価の気運に乗る

彼はまた「見世物絵」の研究もしています。

江戸時代の見世物興行は、随筆・記録類だけでなく、浮世絵や報条(ひきふだ)など、当時のビジュアルメディアに活写され、見世物の様子を知る重要な手がかりとなっていますが、これらを「見世物絵」の名で呼び、意識的な研究の対象としてとりあげた最初の人物が、外骨です。

彼は1901年、日本初の浮世絵雑誌として知られる『此花(このはな)』を、大阪の雅俗文庫(江戸堀南四丁目・外骨宅)で創刊しました。それは、明治後半から起こった浮世絵再評価の気運のなかで発刊された、意欲的な雑誌でした。

「見世物絵」の記事は、1912年3月発行の第20枝に見られます。具体的には、創刊以来の連載である「浮世絵類纂」の第20として「見世物絵」をとりあげ、「見世物ということを広義に解したならば、演劇相撲など、総ての興行事をもふくむのであるが、今茲にいう見世物絵とは…(中略)…一種特異の珍事物として、香具師共が興行した見世物の絵をいうのである」と紹介しています。そして、連載の売り物である複製木版画としては、見世物扱いされた子どもの巨漢力士・大童山文五郎の墨摺報条を綴じ込んでいます。

同じ号の別の箇所に、歌川国芳が描く「活人形絵 安達原の鬼婆」が紹介され、彼が生人形の錦絵を収集している旨の記事も見えることを考え合わせると、この「見世物絵」の紹介は、かなり意図的なものと見て間違いありません。

まるでレオナルドダビンチや天才平賀源内をはるかに凌駕した表現、パロディの大天才、大奇人、大変人です。

2.「滑稽新聞」とは

滑稽新聞滑稽新聞2

滑稽新聞・表紙絵

滑稽新聞・表紙

滑稽新聞』とは、1901年1月25日に宮武外骨が大阪で発行した雑誌型(A4判通常20ページ)の権力風刺新聞(月2回刊)です。

時事批評だけでなく下世話な世相の話題まで扱い現代の週刊誌に相当する内容でした。彼の記事は巧みに仕込まれた毒とパロディー精神に富み、さらに挿絵も腕の良い職人の手になるもので一般大衆に人気を博しました。

持参金・滑稽新聞末恐ろしき少年滑稽新聞・西瓜泥棒

「活字」(文字や「約物(やくもの)(*)」)を並べて絵に見せたり、他愛ない小説に見せかけて(縦組みのページを)横に読むと性的なネタが隠れていたりと今日各種ウェブサイトで一般化した技法(アスキーアートや縦読みなど)の原形も見られます。

(*)「約物」とは、句読点・疑問符・括弧・アクセントなどのことです。

波婆女耳囁く口

検閲などのため刊行が遅れることが多く途中からは「例の延刊」と自ら表紙に載せ、たまに予定通り発行されると「例の延刊にあらず」とネタにしたほどでした。

下の画像は、「頓智研法発布式」(安達吟光画)です。大日本帝国憲法に擬した「頓智研法」を骸骨(=外骨)が下賜する場面。また条文の「第一條 大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」をもじり「第一條、大頓知協会ハ讃岐平民ノ外骨之ヲ統括ス」としました。奥に立つ骸骨は明治天皇であるとして外骨は「不敬罪」で逮捕され、投獄は3年8ヶ月に及びました。

頓智研法発布式・安達吟光画

彼が「明治天皇が即位直後に暗殺され、南朝の末裔と称する大室寅之祐にすり替わったという説」を知っていたかどうかわかりませんが、少なくとも明治天皇が明治維新というクーデターを起こした薩摩藩・長州藩による「薩長藩閥政府」の傀儡に過ぎないことは見抜いていたに違いありません。

強者を挫いて弱者を扶け、悪者に反抗して善者の味方になる〉の発行趣旨のもと、権威をふり回す官吏・検察官・検事・裁判官・政治家・僧侶・悪徳商人・悪徳新聞に筆誅(ひつちゆう)を加え、詐欺広告やゆすりを告発するなど痛烈過激の記事を風刺画入りで満載したため、庶民の人気を集め、最盛期には8万部を発行しました。

しかしたびたび筆禍にあって関係者の入獄や罰金刑を繰り返し受けたため、1908年に廃刊(発行禁止命令に先んじて自殺廃刊)しました。

8年にわたり発行された『滑稽新聞』で、外骨は2回入獄し、関係者の人獄が3回、罰金刑は13回、発行停止は4回、発売禁止は3回、警察による営業妨害が1回を記録しました。

その『滑稽新聞』の最盛期に突然、外骨は廃刊してしまいます。長年なめてきた警察、裁判の不正やいい加減さに堪忍袋の緒を切らし、1908年6月、「法律廃止論」(165号、同月20日)を書きました。
「今日の社会は巧に悪事をする者が勝利を得るのであつて、いわゆる法律は強者の利器、悪い奴が法網を潜って、逆まに善人を迫害するのである。法律はあれども無きに等しい」
この批判が秩序壊乱、風俗壊乱罪で罰金200円の判決を受け、大阪控訴院でも控訴棄却となり、ついに切れてしまった外骨は「滑稽新聞」を「自殺号」(173号、10月24日付)と銘打って出し廃刊しました。判決文と検事を攻撃した内容を掲載し、同新聞の8年間にわたる「本誌受罰史」などを満載しての自爆でした。

しかし『滑稽新聞』廃刊の翌月には事実上の後継誌である『大阪滑稽新聞』(1914年まで存続)を創刊しました。下の画像はその創刊号(1908年11月3日号)です。

大阪滑稽新聞

3.宮武外骨のエピソード

(1)「伏字」を逆手に取る妙案

1904年2月、日露戦争が勃発します。出版物へのきびしい検閲制度が一層厳重になり、特に日露戦争では報道禁止、発禁、発行されても伏字だらけで国民は何が書かれているのかサッパリわけのわからない状態となりました。これを逆手にとって外骨は次のような「伏字だらけの記事」でからかいました。
「●秘密外の○○」
「今の○○軍○○事○当○○局○○○者は○○○○つ○ま○ら○ぬ○○事までも秘密○○秘密○○○と○○○いう○○て○○○新聞に○○○書○か○さぬ○○事に○して○○おるから○○○○新聞屋○○は○○○○聴いた○○○事を○○○載せ○○○○られ○○得ず○○して○○丸々○○○づくし○の記事なども○○○○多い○○○
是は○○つまり○○○当局者の○○○○○尻の○○穴の○○狭い○はなしで度胸が○○○無さ○○○過ぎる○○○○様○○○○だ
我輩○○が○○○思う○○○には○○○○○軍○は○○元来○○○野蛮○○○な○○○○○事で○○○○○○あるから○○その○○○軍備○○○を○○○秘密○○にし○○○○て○○○敵○○○○の○○○○不意○○を○○○うつ○○○の○○も○○○あな○○○○がち○○とがむ○○○べき○○○事○○では○・」
(同新聞第69号、明治37年3月23日付)
開戦後の約1ヵ月後に掲載されましたが、○○を飛ばして読めばいいだけの簡単なことですが、何やら秘密めいています。
(2)常識破りの「正月への攻撃」

彼の常識破りは正月にも向けられました。

「新年はなぜめでたいのか?」。その虚礼を皮肉って正月の新聞に「弔辞―謹んで諸君が死期に近づくを弔す」との広告を出したり、新年の玄関の名刺受に、外骨に代って本物の髑髏に輪を飾ったものを出したりしました。

松飾りを廃して、門に「忌中」の札を貼って、「忌年始客」として、「忌」をわざわざ大きくかいて、その下に小さい字で「年始客」、その左に「ただし、お年玉を持参するはよし」と書いて出したこともありました。「忌」を見て、「ご不幸がありましたか」と早トチリして弔問にくる人もあったそうです。

(3)「自分の死体買収を求む」という新聞広告

彼は59歳になった時、老い先短いと感じて、朝日新聞の「探し物」という欄に「自分の死体買収を求む」という珍文を出しました。

全く人を食った内容で、自分は墓を立てない、子供もないため、宮武という姓も家も廃すると断った上で「自分の肉体を片づけることを心配している。灰にして捨てられるのも惜しい。そこで死体を買ってくれる人を募集する」と宣言しました。

ただし、次のような抜け目のない条件をつけました。

「かりに千円(死馬の骨と同額)で買い取るとすれば、契約時に半分は保証金として前払いする。あとの半分は死体と引き換え(友人たちの飲み代)。前払いの半分で死体の解剖料と保存料を東大医学部精神科に前納しておく。オイサキ短い者です。至急申し込み求む」

反響は全くなく、申し込みはもちろんゼロでした。

4.宮武外骨の言葉

・予は危険人物なり。

・学者とか識者とかいわれる人々でも、あわてると謬見びゅうけん誤認を免れない、まして凡夫俗人においてをやである。

・露骨正直天真爛漫、無遠慮。

・威武に屈せず富貴に淫せず、ユスリもやらずハッタリもせず、天下独特の肝癪(かんしゃく)を経(たていと)とし色気を緯(よこいと)とす。過激にして愛嬌あり。(『滑稽新聞』のモットー)

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