芥川賞・直木賞創設者で、文藝春秋社長も務めた菊池寛とはどんな人物だったのか

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菊池寛

菊池寛と言えば、今では「芥川賞・直木賞の創設者」で、「文藝春秋社の社長」も務めたことぐらいしか知らない人も多いのではないかと思います。

私も、中学生の時に国語の教科書に載っていた戯曲「父帰る」ぐらいしか印象に残っていません。

1.菊池寛とは

菊池寛(きくちかん)(1888年~1948年)は、香川県高松市出身の小説家、劇作家です。本名は寛(ひろし)。

彼は7人兄弟の四男として生まれました。菊池家は江戸時代、高松藩の儒学者の家柄で、日本漢詩壇に名をはせた菊池五山は、彼の縁戚に当たります。しかし、彼が生まれたころ家は没落し、父親は小学校の庶務係をしていました。

高松市四番丁尋常小学校を経て高松市高松高等小学校に進学。しかし家が貧しかったため、高等3年の時は教科書を買ってもらえず、友人から教科書を借りて書き写したりもしたそうです。このころ、「文藝倶楽部」を愛読し、幸田露伴、尾崎紅葉、泉鏡花の作品に親しみました。

彼は記憶力が良く、特に英語が得意で、外国人教師と対等に英会話ができるほどだったそうです。図画や習字は苦手でしたが一念発起して勉強に取り組み4年の時に全校で首席になりました。中学3年の時、高松に初めて図書館ができるとここに通って本を読み耽り、2万冊の蔵書のうち、興味のあるものは全て借りたということです。

高松中学を経て、成績優秀により学費免除のある東京高等師範学校に推薦入学しましたが、本人は教師になる気がなく、授業を受けずテニスや芝居見物をしていたのが原因で除籍処分を受けました

地元の素封家の高橋清六から将来を見込まれて養子縁組をして経済支援を受け、明治大学法科に入学しましたが3か月で退学。「徴兵逃れ」を目的として早稲田大学に籍だけ置きました。

文学の道を志し旧制一高受験の準備をしますが、これが養父にばれ、縁組は解消。進学が危ぶまれましたが、実家の父親が「借金してでも学費を送金する」と言ってきたことで道が開け、1910年(明治43年)22歳で旧制一高文科に入学しました。

同級に芥川龍之介、久米正雄、山本有三らがいましたが、卒業直前に、盗品と知らずマントを質入れする「マント事件」で友人の罪を着て退学、改めて京都帝国大学英文科に入学しました。

在学中の1914年(大正3年)、旧制一高時代の友人たちの同人誌『新思潮』(第三次。翌年第四次)に参加して、イギリス、アイルランドの戯曲に学んだ清新な一幕物『屋上の狂人』『海の勇者』(ともに1916年)、『父帰る』(1917年)を発表しましたが反響はありませんでした。

1916年(大正5年)7月、京大を卒業(卒業論文は「英国及愛蘭土の近代劇」)し、上京して芥川や久米と夏目漱石の「木曜会」に出席するようになりました。

時事新報社に入社して小説を発表、『無名作家の日記』『忠直卿(ただなおきょう)行状記』(ともに1918年)によって新進作家としての地位を確立、ついで『恩讐(おんしゅう)の彼方(かなた)に』『藤十郎の恋』(ともに1919年)など、「現実主義」の立場からの明快な「テーマ小説」を発表して世評を得ました。

1920年長編小説『真珠夫人』を新聞に連載し、「大衆小説」に新境地を開拓しました。この年2世市川猿之助の春秋座が『父帰る』を上演して好評を博し、以降「劇作家」としても迎えられました。

ほかに戯曲『義民甚兵衛』(1923年)、『時の氏神』(1924年)、「通俗小説」に『火華(ひばな)』(1922年)、『第二の接吻(せっぷん)』(1925年)などがあります。

現在では菊池寛の小説を読む人はほとんどいないのではないかと私は思います。これは久米正雄についても同様です。通俗性はあるものの、夏目漱石や芥川龍之介のように、百年以上も読み継がれるような普遍性や深みがなかったため「文豪」にはなれなかったのでしょう。

1923年雑誌『文藝春秋』を創刊し、出版社の経営に成功したほか、文芸家協会の設立、芥川賞・直木賞・菊池寛賞の創設、大映社長として映画事業への参画など多方面に活躍し、「文壇の大御所」と呼ばれました。1937年(昭和12年)芸術院会員となっています。

第二次世界大戦後、「公職追放」を受け、その解除をみないまま1948年に狭心症のため亡くなりました。

2.「文士部隊」と「公職追放」

(1)文士部隊(ペン部隊)

1938年(昭和13年)、内閣情報部は日本文藝家協会会長の彼に作家を動員して従軍(文士部隊ペン部隊)するよう命令しました。

彼は希望者を募り、吉川英治、小島政二郎、浜本浩、北村小松、吉屋信子、久米正雄、佐藤春夫、富沢有為男、尾崎士郎、滝井孝作、長谷川伸、土師清二、甲賀三郎、関口次郎、丹羽文雄、岸田國士、湊邦三、中谷孝雄、浅野彬、中村武羅夫、佐藤惣之助総勢22人で大陸へ渡り、揚子江作戦を視察しました

翌年は南京、徐州方面を視察し、帰国した寛は「事変中は国家から頼まれたことはなんでもやる」と宣言し、「文芸銃後運動」を始めました。これは作家たちが昼間は全国各地の陸海軍病院に慰問し、夜は講演会を開くというもので、好評を博し、北は樺太、南は台湾まで各地を回りました

1942年(昭和17年)、「日本文学報国会」が設立されると議長となり、文芸家協会を解散しました。翌年には、映画会社「大映」の社長に就任し、国策映画作りにも奮闘しました。

(2)公職追放

終戦後の1947年(昭和22年)、GHQから彼に「公職追放」の指令が下されました。日本の「侵略戦争」に文藝春秋が指導的立場をとったというのが理由でした。彼は「戦争になれば国のために全力を尽くすのが国民の務めだ。いったい、僕のどこが悪いのだ。」と憤りました

その年の暮れには横光利一が死去し、翌年1948年(昭和23年)1月には、苦難を共にした元文藝春秋社専務の鈴木氏亨が急逝しました。気力の衰えた彼は、2月に胃腸障害で寝込みます。回復すると3月6日に近親者や主治医を雑司が谷の自宅に集め、全快祝いを行いましたが、好物の寿司などを食べたあと、2階へ上がったとたん狭心症を起こし、午後9時15分、急死しました。享年59。

(3)遺書

私は、させる才分なくして、文名を成し、一生を大過なく暮しました。多幸だつたと思ひます。死去に際し、知友及び多年の読者各位にあつくお礼を申します。ただ国家の隆昌を祈るのみ。

3.菊池寛の言葉

・恋愛は一時の戯れではない。人生の楽しい道草でもない。感情や気分からやるべきではない。女性にとっては、大切な生活の設計でなければならない。男性が一生の専門なり職業なりを選ぶくらい真剣に相手を選ぶべきである。生活本位以外の恋愛などやってはならない。

・人間は生きている間に、十分仕事もし、十分生活も楽しんでおけば、安心して死なれるのではないかと思う。

・罠をかける者も卑しい。が、それにかかる者もやっぱり卑しかったのだ。

・最善の技術には、努力次第で誰でも達し得る。 それ以上の勝敗は、その人の性格、心術、覚悟、度胸に依ることが多いだろう。

・人生のどんな隅にも、どんなつまらなそうな境遇にも、やっぱり望みはあるのだ。

・人の真似をする者は、その真似るものよりは必定劣るものじゃ。そなたも、自分の工夫を専一にいたされよ。

・悪妻は百年の不作であるという。 しかし、女性にとって、悪夫は百年の飢饉である。

・不幸のほとんどは、金でかたづけられる。

・人への親切、世話は、慰みとしてしたい。義務としては、したくない。

・約束は必ず守りたい。人間が約束を守らなくなると社会生活はできなくなるからだ。

・来世に希望をつなぐ信仰などよりも、現世をよく生きたということが、安心の種になるのではないかと思う。

・人生に於て何が一番必要であるかと云うことが今更ながら分かった。 生死の境に於ては、ただ寝食の外必要なものはない。

・少数の天才や才人だけが創作の権利を壟断した文芸の貴族政治は、過去のものだ。

・人生は一局の将棋なり、指し直す能わず。

・とにかく勝つ人は強い人である、多く勝つ人は結局上手な人、強い人といわなければならないだろう。しかし、一局一局の勝負となると、強い人必ず勝つとはいえない。定牌を覚えたばかりの素人に負けるかも知れない。



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