前に「江戸時代も実は『高齢化社会』だった!?江戸のご隠居の生き方に学ぶ」という記事を書きましたが、前回に引き続いて江戸時代の長寿の老人(長寿者)の老後の過ごし方・生き方を具体的に辿ってみたいと思います。
第12回は「大久保彦左衛門」です。
大久保彦左衛門と言えば、「登城には駕籠がわりに大だらい、三代将軍徳川家光の御意見番(天下の御意見番)として大活躍した」という話や、東映映画『家光と彦左と一心太助』(1961年)、TBS時代劇「天下御免の頑固おやじ 大久保彦左衛門」(1982年)を思い出す人も多いのではないかと思いますが、反骨と奇行で知られる実在の人物です。
1.大久保彦左衛門とは
大久保彦左衛門こと大久保忠教(おおくぼただたか)(1560年~1639年)は、戦国時代から江戸時代前期の武将で、江戸幕府旗本です。通称の大久保彦左衛門として有名ですが、一時、忠雄とも名乗りました。子に大久保忠名、大久保包教、大久保政雄らがいます。妻は馬場信成の娘。『三河物語』の著者としても知られています。
永禄3年(1560年)、徳川氏の家臣・大久保忠員(おおくぼただかず)(1511年~1583年)の八男として三河国上和田(愛知県岡崎市上和田町)で生まれました。幼名は平助。
徳川家康に仕え、天正4年(1576年)、兄・忠世(小田原藩祖)と共に遠江平定戦に参加。犬居城での合戦が初陣です。
以後、兄たちの旗下で各地を転戦し、天正13年(1585年)の「第一次上田城の戦い」では全軍が真田昌幸の采配に翻弄されました。また、兄・忠世は家康の命令で真田氏の隣国で幼くして家督を継いでいた依田康国の監視を務めていましたが、天正13年11月に石川数正出奔を受けて浜松城にいた忠世の代理として彼が康国の小諸城に入り監視を続けました。
天正18年(1590年)、小田原征伐の後、主君・家康が江戸に移封され、兄・忠世およびその子・忠隣(彼の甥にあたる)が相模国小田原城主に任じられると3,000石を与えられました。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは徳川秀忠に従い、「第二次上田合戦」で再び翻弄されました。
2.大久保彦左衛門の老後の過ごし方
関ヶ原の戦いの後、次兄の忠佐は駿河国沼津城主となって2万石を領していましたが、1613年に忠佐の嫡子・忠兼が早世したため、弟の彼を養子として迎えて跡を継がせようとしていました。
これに対し彼は「自分の勲功はない」と申し出を固辞したため、忠佐の死後沼津藩は無嗣改易とされました。
社会の風潮も彦左衛門には逆風でした。家康が天下をとったとたん、誰もがこぞって家康になびき、家康を嫌いな外様大名も家康に取り入って何十万石の高禄をもらっています。ところが家康の天下取りのために身を粉にして働いた譜代の禄高は高くありません。
しかも徳川家内部でも、本多忠勝や榊原康政といった家康の天下取りを支えた三河武士の武功派よりも、官僚としての能力があり弁舌に優れた本多正信、正純父子などが重用されます。
先祖代々仕えて槍働きで命をかけて支えてきた戦国武士はリストラされ窓際族に。一方で外様、家康家臣の中でも弁舌の上手い官僚派が高禄をもらいもてはやされるようになったのです。
続けて1614年に本家の忠隣が大久保長安の謀反疑惑に連座する形で失脚、改易となると、それに連座して彼も改易されました
この事件の影には忠隣と対立関係にあった本多正信・本多正純の讒言があったと言われており、元々本多父子を快く思っていなかった彼の人生にも影を落としました。
その後まもなく、彼は家康直臣の旗本として召し出され、三河国額田(愛知県額田郡幸田町坂崎)に1,000石を拝領し復帰しました。
彼は大名になることを固辞し、「天下の御意見番」として家康の諮問に答えたということです。まさに戦国生き残りの硬骨漢です。
慶長19年(1614年)、大坂の陣にも「槍奉行」として従軍しました。家康死後も2代将軍・徳川秀忠の上洛に従い、3代将軍・徳川家光の代になって「旗奉行」となりました。この頃1,000石を加増されています。
家康が「元和偃武」(和をはじめ武をやめる)と一種の平和宣言をしたのが大坂夏の陣(1615年)の3ヶ月後です。
1622年、本多正純が徳川秀忠によって改易され所領没収となりました。その過程は、大久保忠隣の失脚と非常によく似ていました。彼が仇敵の末路についてどう思ったのか、因果応報と喜んだか、それとも諸行無常を悟って虚しい気持ちになったのかはわかりません。この頃から、彼は『三河物語』の執筆に取りかかっています。
寛永9年(1632年)に忠隣の孫・大久保忠職が大名に復帰するのを見届けました。寛永12年(1635年)、徳川家と大久保家の顕彰の為、常陸国鹿嶋(茨城県鹿嶋市)に300石ほどの地を移しました。
寛永16年(1639年)に79歳で亡くなりました。死の間際に家光と幕閣から5,000石の加増を打診されましたが、幕府創立の功臣である大久保家への数々の冷遇を忘れることはなく「不要」と固辞したと伝えられています。
法名は了真院殿日清。墓所は愛知県岡崎市竜泉寺町の海雲山弘誓院長福寺。京都市上京区上之辺町の光了山本禅寺および東京都港区白金の智光山立行寺(彼によって建立されたため、通称を「大久保寺」という)
3.『三河物語』とは
『三河物語』 (3巻) は、1622年~1626年頃に完成した自叙伝です。これは、いわゆる「三河武士の精神」を典型的に示したものです。
子孫への教訓のために書き残したものですが、江戸時代初期の徳川氏譜代武士団の生活思想を示す貴重な文献です。
不遇に対する不満をこめて、主家と自家の歴史を記し、一族の武功を語っています。上巻は徳川氏の出自、初代親氏から8代広忠までを記し、中巻は元康 (家康) の登場、下巻は武田信玄戦、武田勝頼戦、甲斐信濃の平定、豊臣秀吉との交渉、関ヶ原陣と大坂陣の旗奉行の行動に対する彼の意見、大久保家子孫への教訓が記され、各巻の終りに「門外不出」と追記されています。
「大久保家門外不出」とのことですが、ベストセラーになったそうです。「門外不出」なのに「ベストセラー」とは変ですが、世の中が静謐になると無骨な武辺者よりも心利いた能吏がおのずと重宝されるようになるのは世の常で、写本の流出や口コミで、時代遅れとなった憤懣やるかたない武辺派譜代家臣団が熱烈な読者となりベストセラーになったようです。
彼は徳川家への忠義を貫く典型的な三河武士でしたが、自分たちのようなタイプの人間が次第に徳川家の中で窓際に追いやられるようになり、本多正信・正純のような忠節や信義より弁舌でのし上がっていくタイプの人間が幅をきかせる風潮を苦々しく思っていました。
単に忠義に厚いだけでなく、徳川家と三河武士の主従関係の変容と矛盾、そうした屈折した思いが『三河物語』には記されており、戦が無くなり武士の存在意義が無くなりつつある中、不平不満を持つ武士たちは彼の考えに共感・喝采したのでしょう。
「譜代は良い時も悪い時も犬であって逃げはしない」と自らを犬と呼んでさげずみながら、それでも子孫には徳川家への忠義を促しています。
彼は3代家光まで9代にわたって松平・徳川家に仕えてきた大久保家の誇りを語り、不忠をなすことは先祖の功績を無にするうえ、主君への裏切りは七逆の罪となり、無間地獄に落ちると、これでもかというほど戒めています。
しかも不遇なのは前世の因果だから仕方ないと心得よとも言っています。無間地獄、前世の因果などは自分を納得させる言葉でもあったでしょう。
これは、善い行いをしても栄えるとは限らず、悪い行いをしても栄える家もあると世の中の不条理を説いています。
その思いを表わすかのように、皮肉たっぷりに知行を得られる武士と得られない武士の特徴をあげています。
まず知行を得られるのは
- 主人に弓を引く武士
- 人にへつらい笑われるような武士
- うわべがよくうまく立ち回る武士
- (そろばん勘定がうまく)計算高い武士
- 他国の人間で新規召し抱えの武士
一方、知行をもらえない武士はこの反対です。
つまり主君には弓を引かず忠実な武勇の士で、真面目一筋でうわべを繕うこともせず、そろばん勘定ができず計算高くもなく長く仕えている年取った譜代の武士だということです。
この知行をもらえない武士は彼自身です。融通もきかず長く一途に仕えてきた武勇の者がバカを見るという痛烈な皮肉、自虐のブラックパンチです。
彼がもし幕末に生きていたら、徹底抗戦を主張した小栗忠順(1827年~1868年)に対して、戦わずして早期停戦と江戸城無血開城を主張した勝海舟や、鳥羽伏見の戦いで、家来たちを戦場に残したまま側近や愛妾たちと江戸に逃げ帰った徳川慶喜を大喝していたことでしょう。慶喜が嫌った「日向臭い三河武士の典型」だったかもしれません。
4.講談・講釈の中の大久保彦左衛門
・俗に「天下のご意見番」として名高い彼ですが、旗本以下の輿が禁止された際に「大だらい」に乗って登城したという逸話や、将軍・家光にことあるごとに諫言したなどの逸話は後世の講談や講釈の中での創作のようです。
「旗本は老齢になっても駕籠に乗ることができず、大名たちは腰抜けなので年が若くても駕籠を許されるのか」と将軍に談判し、盥で登城したという話です。
これは彼が「戦国時代生残りの勇士」として旗本のなかに重きをなし、太平の世に著書『三河物語』が当時の体制に不満を持っていた武功派の武士たちに支持され、いわばヒーローとして祭り上げられた結果ともいえます。
・彼自身、自分の出世を顧みず常に多くの浪人たちを養ってその就職活動に奔走したと言われており、様々な人々から義侠の士と慕われていたのは事実のようです。
・「大久保彦左衛門と一心太助の物語」は講談や講釈で有名です。
5.一心太助とは
ちなみに「一心太助(いっしんたすけ)」は、団塊世代以上の高齢者より若い方には馴染みが薄いかもしれませんので、ご紹介しておきます。
一心太助の職業は魚屋で、義理人情に厚く、「江戸っ子の典型」として描かれることが多い人物です。三代将軍・徳川家光の時代に、大久保彦左衛門のもとで活躍したとされています。
名前は、腕に「一心如鏡、一心白道」(いっしんにょきょう、いっしんびゃくどう)の入れ墨があったことに由来します。一心如鏡は読み下すと「一心鏡の如し」、白道は二河白道(極楽浄土へ続くとされる道)を指します。
架空の人物というのが定説であり、神奈川県小田原の老舗魚問屋「鮑屋」の主人がそのモデルだとされています。
一方、松前屋五郎兵衛建立の「一心太助石塔」と書かれた太助の墓が、港区白金立行寺の大久保家墓所の傍、それも彦左衛門の一番近くに立っており、太助は実在の人物で、若いころ大久保彦左衛門の草履取りだったともいいます。
大久保彦左衛門は小田原藩祖・大久保忠世の弟であり、魚市場で有名な東京の築地は、当時小田原町と呼ばれたほど小田原から移り住んだ者が多くいた町でした。物語の原型はそこで成立したようです。
実録本『大久保武蔵鐙(あぶみ)』によって大久保政談にからんで登場、浅草茅町の穀商松前屋五郎兵衛の無実の罪を晴らす役割を果たしました。
数多くのドラマ、演劇などに登場し、ドラマ中、彼のトレードマークの一つ「一の魚」は魚運搬専用のトラックなどに多く採用されています。
講談の「侠勇一心太助」にも痛快なセリフがあります。
一心太助が天下の一大事だとわめきながら、天秤棒を引っ担いで駿河台の大久保彦左衛門の屋敷へ疾風のごとく駆け込んでくる場面で、玄関に突っ立って大声を張り上げて怒鳴ります。
「おーい、いるか、いねえのか、死に絶えたか親玉、親分、雷親爺、逆螢!」(ちなみに「逆螢(ぎゃくぼたる)」とは「禿げ頭」「光頭」のこと)
次のような伝説もあります。
一心太助は百姓でしたが、あるとき領主の大久保彦左衛門に意見したのが気に入られ、大久保家で奉公することとなります。
大久保彦左衛門の皿を誤って1枚割ってしまった腰元お仲が手討ちで殺されそうになるのを、一心太助が知ります。一心太助は彦左衛門の前で残りの皿7枚を割り、彦左衛門がお仲および一心太助を許します。一心太助は、お仲と結婚し、武家奉公をやめてお仲の実家の魚屋で働くこととなりますが、その後も、彦左衛門に意見し協力することとなったということです。